「1週間振りね。何か いいことでもあったの。随分、楽しそうよ」 「理想の人に会ったんだ!」 週に1度の定例報告。 俺は、沙織さんへの報告を開始してから初めて、心から興奮して――演技せず、誇張せず、自然に興奮して――彼女の前に立った。 大きな執務机の向こうで、俺の第一声を聞いた沙織さんが一度 大きく瞳を見開き、それから いつも通りの微笑を浮かべる。 彼女には、俺が馬鹿な子供に見えたのかもしれない。 『俺は一生 結婚しない』なんて偉そうに宣言した 僅か1週間後に『理想の人に会った』じゃ、俺だって、俺を馬鹿だと思うさ。 「まあ、どこのご令嬢?」 「令嬢なんかではないだろうな。多分メイド――日本では何というんだ? 家政婦? お手伝い? おそらく、そういう仕事に就いている子だ」 「メイド? 時代が時代で、国が国なら、完全に身分違いの恋ね。あなた、実は王子様志願だったの? 察するに、清楚で、控えめで、欲らしい欲のない、シンデレラ姫のようなお嬢さんかしら」 「よくわかるな。その通りだ。清楚で、控えめで、欲らしい欲がなさそうで――」 だが、俺は決して王子様志願なんかじゃないぞ。 俺は、シンデレラの王子のように、恋した人を王宮に召し出して 自分の妻に 必要なら、俺は、王宮も権力も捨てて彼女と同じ場所に立ち、彼女に愛を乞い求めるつもりだ。 「ラファエロの“大公の聖母”が来ていると聞いて、国立西洋美術館に行ってきたんだ。そこで、ちょっとしたアクシデントで知り合った子で――」 「アクシデント?」 「絵を見に来ていた老婦人が転びそうになったのを、俺と彼女が咄嗟に脇から支えてやったんだ。そうしたら、そのご婦人が、俺と彼女に礼をしたいと言って、お茶に誘ってくれて――。その ご婦人、以前 自宅の玄関で転んで脚の骨を折ったことがあるらしい。それですっかり出不精になってしまっていたそうなんだが、このままでは本当に歩けなくなって寝たきりになると医者に忠告されて、その日が2年振りの外出だったらしい。『ここで転んでいたら、今度こそ本当に寝たきりになるところだった』と言っていた」 「それは よいことをしたわね。で、あなたの理想の人というのはどんな方? とても綺麗で可愛らしくて、清楚で、控えめで、無欲な人だということは想像がつくけど、私には推察できない部分の情報をちょうだい。メイドというのは、彼女がそう言ったの?」 俺は、腹を立てていたはずだった。 沙織さんの その質問に。 いくら理想の人に出会って浮かれていたとはいえ――いや、浮かれていたからこそ――『清楚で、控えめで、無欲なことがわかっていたら、他のことはどうでもいいことじゃないか!』と。 そう言って、沙織さんを怒鳴りつけてしまっていたかもしれない。 俺が沙織さんの質問に怒りを覚えず、沙織さんを怒鳴りつけもしなかったのは、沙織さんが いつのまにか さりげなく、『清楚で、控えめで、無欲な人』という推察に『綺麗で可愛らしい』という推察を追加していたから。 それは沙織さんの推察にすぎないのに――俺は、俺の恋した人を『綺麗で可愛らしい』と褒めてもらえたような気がして、沙織さんの その質問に、逆に機嫌をよくしてしまったんだ。 「あ? ああ、いや、彼女は、自分のことは ほとんど何も話さなくて――。ただ、その時に入ったティーラウンジで、ダージリンファーストがリモージュ焼きのカップで出てきたんだ。それを見て、ダージリンファーストには リモージュ焼きの透明度の高い白よりボーンチャイナの乳白色の方が合うのにと、彼女が呟いて――。ティーカップの絵柄ならともかく、カップの内側の白とお茶の ロシア人は、英国人ほどではないが 毎日のように紅茶を飲む。 ただし、それは熱いお茶が、酒と並んで 暖を取るのに最適な飲み物だからで――言うなれば、生きるためで――ロシアのお茶は 英国のお茶みたいに優雅で気取った飲料じゃない。 だから俺は、毎日 飲んでいたにもかかわらず、お茶の色とカップの色の組み合わせの適否なんて考えたこともなかった。 俺が そんなことに こだわる人間がいることを知ったのは、沙織さんに会ってからだ。 彼女が、『アッサムはマイセンで』と新米メイドに指示しているのを聞いたから。 だから、俺は、俺の恋した人はメイドなのに違いないと睨んだんだ。 「カップのセットが、お茶の種類ごとに選べるくらい何十も揃っている、良いお家のご令嬢ということもあるわよ」 「それはなさそうだった。本当に控えめで大人しそうで――あの美術展の鑑賞券も『お嬢様から貰ったから来た』というようなことを言っていたし」 「ラファエロ展の鑑賞券なら、私も何人かに提供したけど――」 「残念ながら、この家のメイドじゃない」 そうだったなら、話はもっと手っ取り早く進んでいただろう。 だが、彼女は俺の顔も名前も知らなかった。 「で、俺は最近、やさぐれていたからな。この清純そうな子が、俺が実は億万長者だと知ったら、どう態度を変えるのかと、少々 意地の悪い気持ちで、俺が何者なのかを彼女に教えてやったんだ。そうしたら――」 「そうしたら?」 「……唐突に、用を思い出したと言い出した」 「急に帰りたがりだしたの?」 「大切な用があるとかで。また会いたいと言ったら、約束はできないと」 「まあ」 「老婦人が気を利かせて、脚が痛む振りをしてくれたんだ。そうしたら、心配顔になって、立ちかけていた席に戻って、自宅まで送りましょうと言い出して――大切な用があったんじゃないのかと訊いたら、急ぐ用ではないと――。どう考えたって、俺と関わり合いになりたくなくて、俺から逃げようとしたのだとしか思えない」 「へたな嘘までついて、あなたから逃げようとした。だから、気に入ったわけ?」 普通は逆だろうと、沙織さんは言いたいんだろう。 俺の ひねくれ具合いが おかしかったのか、沙織さんは妙に楽しそうに笑い出した。 俺が ひねくれていることは認めるが、その日 知り合ったばかりの人間に あそこまで露骨に避ける素振りを見せられたら、どうして俺から逃げようとするのか、気になるのは自然なことじゃないか。 俺が見ているのが苦痛なほど醜男の貧乏人で、お茶代を たかられるんじゃないかという危惧を覚えたというのなら、話は別だが。 「俺は顔もよくて、健康で、その上 大金持ちだ。あえて避ける理由がない。なのに、彼女は――」 「性格という大問題があるでしょう。あなたは、彼女を試そうとした意地悪な人間よ」 そんなことを言って俺に意地悪をする沙織さんにだけは、『意地悪』なんて言われたくない。 もちろん俺は、俺が心優しく素直な人間だと言い張るつもりはないが。 「あの時点ではまだ、俺の性格の悪さは ばれていなかったはずだ」 「そういうことに関して、女性の勘を侮ってはいけないわ。メイドというのは、どこのお宅の?」 「さあ……。本当に、自分のことは何も話さなかったんだ。話題が そういう方面に向かうと、うまく話を逸らして。だが、そんなことはどうでもいい。とにかく、彼女は、日本に来て初めて会った、俺と結婚したがらない女性だ!」 女性というより少女のようだったが、日本人は実際の年齢より幼く見えるからな。 彼女は14、5歳に見えたが、自分に都合の悪い話を振られた時の巧みな かわし方や、浮ついた印象のまるでない振舞いから察するに、20はいっていないにしても、それに近い年齢なんだろう。 だが、彼女の歳が幾つでも、そんなことには何の問題もない。 大事なことは、彼女がとても綺麗で可愛らしくて、清楚で、控えめで、無欲な人間だということだ。 「おそらく、この家くらい格式が高くて、礼儀作法に厳しい家に勤めているんだろう。日本人は猫背が多いが、彼女は素晴らしく姿勢がよかった。あの老婦人を助けた時の反応からして、運動神経も優れている。身に着けていた服も、派手で下品なものでなく、マニッシュ――いや、ボーイッシュというべきか――ほとんど飾り気がなくて、化粧っ気もなし。だが、素晴らしく綺麗で、可愛くて、目が信じられないほど澄んでいて――」 沙織さんが笑っている。 1週間前には すっかり やさぐれて、女なんて ろくなもんじゃないと わめき立てていた男が、初めて女の子を異性と意識した幼稚園児みたいに浮かれているんだ。 それは、沙織さんでなくたって笑うだろう。 そこに突っ込みを入れてこないのが、沙織さんの大人なところだ。 俺のかつての たわ言を揶揄する代わりに、沙織さんは これから先のことを尋ねてきた。 「それで、また会う約束は取りつけられたの?」 「ああ。かなり強引にだが。桜を見に行く約束をした」 「桜?」 桜の花は、とうに散っている。 その花の名を鸚鵡返しに 首をかしげたところを見ると、沙織さんも 桜は花を見るものと思い込んでいたんだろうか。 だとしたら、これは思いがけない発見だ。 沙織さんにも、そんな先入観や常識――日本人の常識――に、囚われている分野があるなんて。 俺自身は花見なんてものには行かなかったし、多忙な沙織さんも そんなものに興じている時間は取れなかっただろうが、日本にやってきた俺は 日本人の桜好きには ひどく驚かされた。 桜の花が咲いたことや、人々が こぞって桜見物に繰り出していることが トップニュースとして報じられる国なんて 日本くらいのものだろう。 桜の花を見ると、日本人は気が違ってしまうようだ。 あの馬鹿げた大騒ぎのニュース映像には、本当に仰天したぞ。 あの子は、桜の花に狂うタイプの人間ではないようで、それはよかったが。 「彼女は 桜の花も好きだそうだが、葉桜が もっと好きなんだそうだ。花が散ると人に見向きもされなくなる桜の木が、みずみずしい新緑で我が身を覆っている姿が すがすがしいと言っていた」 「まあ。ゆかしい趣味だこと」 「絵の好みもよかったぞ。というか、俺の好みに合致していた。大公の聖母の絵を見て、聖母は美しいのに、子供が異様に下膨れだと不満そうだった」 「巨匠の絵に、また随分と辛辣な批評を」 もちろん俺は、自分の目と耳で見聞きした彼女の言動をしか、沙織さんに報告していないわけだが、その報告内容が、沙織さんは気に入ったらしい――少なくとも、不快を感じる点はなかったらしい。 沙織さんは楽しそうに笑いながら、俺の恋の進展の報告を楽しみにしていると言ってくれた。 |