「瞬と星矢の心が 入れ替わっていただとぉーっ !? 」 ラウンジに木霊する氷河の絶叫。 氷河は 声には出さなかったが、星矢と紫龍の耳には、その絶叫に続いて氷河が『おええええ〜っ』という嘔吐の音を洩らしたのが、確かに聞こえた。 「お……俺は、じゃあ、星矢にあんな気持ちの悪いことをしてしまったというのか……」 「それは こっちのセリフだぜ! まじで、気色悪くて死ぬかと思った。俺の繊細な心が負った深い傷をどうしてくれるんだよ、このヘンタイ!」 恐怖と狂気の氷河の攻撃によって 跡形もなく砕かれた星矢の精神は、彼を守り庇ってくれる元の肉体に戻っていた。 必然的に、瞬の心は瞬の身体に戻り、その件に関しては いかなる支障も生じていなかったのだが、問題は、星矢と氷河の中に消し去り難く刻み込まれた恐怖の体験の記憶だった。 「氷河。おまえ、 「訊くな! 思い出したくもない!」 「星矢、おまえ、氷河に何を ただ一人、完全に部外者の位置にいる紫龍は、どう見ても この事態を楽しんでいる。 氷河と星矢に事の次第を尋ねる彼の声は、隠しきれない笑いを含んでいた。 「訊くなよ、んなこと! 薔薇の棘は危ないとか言って、このヘンタイが俺の――違った、瞬の手だ、瞬の手。俺の手じゃなくて瞬の手に吸いついてきやがったんだよ。おかしいだろ、こいつ!」 言いたくはなかったのだが、言葉にして説明しないことには、あの おぞましい恐怖の体験を第三者に わかってもらうことができない。 星矢は、心底からの嫌悪感と共に、我が身(瞬の身)を襲った悪夢を 仲間たちに知らせたのだが、そうすることによって 彼が得ることができたのは、仲間たちの同情ではなく、 「それがどうかしたの? 前にもあったよ。そんなことは」 という、瞬の不思議そうな反応だけだった、 瞬は、星矢が感じた恐怖に、全く同情も同調もしてくれなかったのである。 「前にもあった……って、おまえ、気持ち悪くなかったのかよ」 「どうして? アフロディーテの薔薇じゃなくても、薔薇の棘は危ないんだよ。氷河は優しいから」 「あれが優しい? 気色わりーこと言うなよ。あれこそ、いじめだ、いじめ。俺は 本気で死ぬかと思ったんだぞ!」 「星矢、変だよ。氷河は僕のこと、心配してくれてるのに――優しいのに……」 「瞬……?」 瞬の様子が これまでと違う――ような気がしたのである、星矢は。 瞬なら、氷河の あのおぞましい行為を、仲間の優しさゆえ、親切ゆえの行為と解することもあるのかもしれない――とは思う。 そして、瞬なら、あの おぞましい行為に感謝することもあるのかもしれない――とも思う。 だが、今 氷河を『優しい』と告げる瞬の声に 紛れ込み、見え隠れしている奇妙な恥じらい――いっそ 媚びと言ってしまってもいいような響きは、いったい何なのか。 その正体を見極めようとして瞬の上に視線を巡らせた星矢を綺麗に無視し、瞬は遠慮がちな小さな声で、氷河への弁解を始めていた。 「あの……ごめんね、氷河。僕、ほんとは こんなことしたくなかったんだよ。僕は氷河を信じてるから。けど、いろいろ事情があって、仕方なかったの……」 瞬が 上目使いに氷河の顔を覗き込み、そして、心もち瞼を伏せる。 結果的に氷河を騙すことになってしまった この仕儀を、瞬が心から申し訳なく思い、後悔していることは、星矢にもわかった。 だが、やはり その様子が、その所作がいつもの瞬と違う。 瞬は、まるで 氷河に許されることを確信している――ように、星矢の目には見えた。 おそらくは瞬の期待通りに――氷河の声が 対瞬モードの妙に優しく熱を帯びた それに変わる。 「ああ、大丈夫だ。おまえが自分の意思で こんなことをするとは思わん。どうせ、どこかの粗忽者が阿呆なことを言い出して、沙織さんが それに悪乗りしたんだろう」 瞬には優しく そう言って、氷河が じろりと横目で天馬座の聖闘士を睨む。 その視線の冷やかさ。 図星を差されて、星矢は びくりと身体をすくめた。 氷河の視線で星矢が凍りついてしまう事態を恐れたらしい瞬が 話題を逸らしてくれたので、幸い 星矢の心身は再び原子のレベルまで分解される事態を逃れることができたのだが。 「あ……あのね、氷河。薔薇が――庭の薔薇園の薔薇が とっても綺麗に咲いてるの。氷河が手伝ってくれたからだよ。ありがとう」 「俺は何もしていない。おまえの丹精の たまものだ。花には、おまえの優しい心が感じ取れるんだろう。どこかの粗忽者と違って」 瞬には優しく そう言って、またしても 氷河が どこかの粗忽者に冷たい視線を投げる。 星矢は再び 全身が凍りつき、原子レベルでの分解直前状態に突入したのだが、それもまた瞬の、 「僕たち二人で育てた薔薇でしょう。僕、氷河と一緒に見たいなぁ……って――あの……」 という言葉によって、何とか回避された。 そうして、だが、星矢は その段になって やっと気付いたのである。 氷河の睥睨によって凍りついた天馬座の聖闘士の身体が 原子のレベルで破壊される事態を避けるために、氷河の意識を天馬座の聖闘士から逸らそうとして、瞬が そんなことを言っているのではないということに。 瞬は、確かに、氷河の意識を天馬座の聖闘士の上から逸らそうとしている。 だが、それは天馬座の聖闘士を庇うためではなく、氷河の意識が自分に向くことを 瞬自身が望んでいるから――のようだった。 もちろん、瞬の望みは すぐに叶えられた。 「そうだな。不愉快な粗忽者の姿の見えないところに行くか」 氷河の言葉を聞いた瞬が、その顔をぱっと明るく輝かせる。 陽光を遮っていた厚い雲が太陽の前から取り除かれたように、その陽光を受けた薔薇の蕾が 己れの開花の時を悟ったように、今 瞬は、その瞳だけでなく、その表情だけでなく、その全身が明るい光に包まれていた。 否、瞬自身が内側から光を放っていた。 「うん! あのね、アイスバーグがね、花を開かせたの。雪みたいに真っ白で、氷河みたいに凛としていて綺麗なんだよ!」 「しばらく前から 俺も庭の薔薇たちを気にしていたんだが、ミミエデンも花をつけ始めていたな。小さくて白とピンクの――おまえのように可憐で可愛いと思っていた」 「やだ、そんな……。僕にたとえられたりしたら、あの可愛い花が気を悪くするよ」 「そんなことはない。光栄の極みと感じて、あの木は ますます たくさんの花をつけるようになるだろう」 よく真顔で そんなセリフを吐けるものである。 そんなセリフを言われて ぽっと頬を上気させる瞬の神経も、星矢には理解し難いものだった。 「氷河、早く、行こ!」 「ああ」 氷河は既に、星矢のことは眼中にないようだった。 そして、それは瞬も同様らしい。 二人は いっそ見事というしかないほど鮮やかに華麗に星矢の存在を無視し、楽しそうに連れだってラウンジを出ていってしまった。 あとに残された星矢は、その場で ぽかんとしていることしかできなかったのである。 何度も死ぬ思いをし、死刑判決を受け、死刑執行の連絡を聞き、死ぬ覚悟までしたのに、処刑場に一人 置き去りにされてしまった死刑囚なら、今の星矢の気持ちがわかったかもしれない。 「おい、星矢。生きているか」 首切り役人も見物客もいなくなってしまった処刑場で、星矢が 我にかえったのは、氷河と瞬の姿がラウンジから消えて10分後。 自失し、気が抜けたように ぽかんとしている星矢を案じた紫龍に声をかけられたからだった。 徐々に死の恐怖から解放され、何とか いつもの調子を取り戻すことのできた星矢が、しみじみと感慨深げに呟く。 「氷河にあんなことされたり、あんなこと言われたりするくらいなら、朝から晩まで アホ馬鹿カボチャって ののしられてた方がずっとましだぜ。瞬の奴、氷河にあんなこと言われて気持ち悪くねーのかよ。いったい どういう神経してんだ。俺は 訳もわからず問答無用で いじめられてた方が全然ましだぜ!」 「ははははは」 仲間たちの神経が理解不能という顔で ぼやく星矢に、紫龍は 空虚な笑い声を返してやることしかできなかった。 人の感性は 人それぞれである。 薔薇の木には 薔薇の花が咲き、たんぽぽの花は咲かない。 薔薇の気持ちは、たんぽぽの花には永遠の謎なのかもしれなかった。 Fin.
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