言うに事欠いて、“吸血鬼”とは、いったい彼は何を言い出したのか。
ギリシャ神話にも、子供の血肉を食らうラミアという怪物がいて、吸血鬼の始祖と言われているが、彼は その末裔だとでもいうのか。
だが、そんなことはありえない。
そもそもラミアは、自分の子供をすべて殺された悲しみのために血に飢えた怪物になってしまった女性なのだ。
彼女の末裔は存在し得ない――。
そんなことを考えてから、瞬は 慌ててラミアという怪物の名を 思考の外に振り払った。
19世紀に入って、既に10余年。
吸血鬼などという生き物は伝説の中にだけ存在する空想の怪物にすぎない。
今は そういうことになっているのだ。

「そんな……吸血鬼なんて いるはずがない。もし いたとしても、吸血鬼というのは、お陽様の光に当たると塵になって消えてしまって、だから、主に夜に活動して、そして不死身だと聞いています」
晴れた日の陽光の下で 空腹で死にかけている吸血鬼など、笑い話にもならない。
そもそも彼が本当に吸血鬼で 人の血に餓えているというのなら、彼は なぜ目の前にいる人間に襲いかかってこないのか。
それこそ、大きな矛盾。彼の自己紹介(?)が嘘であることの証左だった。
しかし、彼は彼の身分詐称を翻すつもりはないらしい。
彼は、あくまで自分は吸血鬼だと主張し続けた。

「そんなのは、人間が勝手に作ったイメージだ。俺は陽光の下でも平気で活動できるし、不死身でもない。不死身は不死身だが、すべては人の血があってのこと。人間がパンがなければ死ぬのと同じ、木の実がなければリスが死ぬのと同じだ」
「じゃあ、あなたは血を吸っていないの? 吸血鬼なのに?」
吸血鬼などというものが この世に存在するはずがない。
彼が吸血鬼などであるはずがない。
だが、彼がどこまでも真顔で語るので――瞬は、つい彼の話に引き込まれてしまったのである。
今頃になって気付くのも間が抜けているが、普通の人間にしては整い過ぎている彼の貌も、自分は伝説の存在だという彼の主張に信憑性を感じさせる――感じさせないわけでもない。

「ああ。かれこれ2年」
「それでパンも食べずに生きていられるの」
「吸血鬼だからな。だが、そろそろ限界だ」
「なぜ血を吸わないの。その……人の血を吸えば、あなたは飢えずに済むんでしょう? あの……もしかしたら、人を殺したくないから、血を吸うのを我慢しているの?」
もし そうなのであれば、彼は人間が営む世界の人道人倫を わきまえた吸血鬼である。
自分の命を永らえることより他者の命を尊ぶ、実に高潔な吸血鬼ということになる。
そうに違いない。
だから彼は、怪我を負っているわけでもなく、病を得ているわけでもないのに、これほど弱っているのだ――。
そう考えて、瞬は彼に尊敬と同情の入り混じった視線を向けたのだが、彼は その視線を 至極あっさり払いのけてくれた。

「そんな優しい男か、この俺が。この世界には、醜悪で不味い血を持った人間しかいない。美味い血がない。美味い飯が食えない。だから俺は、こんな世界は滅びてしまった方がいいと考えて、その計画を立てていた どこぞの暇な神に加担することにしたんだ」
「美味しい食事がとれないから 世界が滅んでもいいなんて、そんな短絡的な……」
彼は冗談を言っているのだろうか。
自分は彼に からかわれているのか。
『美食ができないから』などという理由で 世界の滅亡を願う人間(吸血鬼)がいていいものか。
せめて 飢えのために自棄になったと言われていた方が、瞬には まだ得心がいった。
しかし、彼は どこまでも真剣、あくまでも真顔。
彼の考えを短絡的と評した瞬に、彼は怒りの感情を露わにすることさえした。

「何が短絡的だ。これは、切実な問題だぞ。おまえは、人間の三大欲求が何だか知っているか」
「あ……はい。食欲と睡眠欲と、あの……」
「食欲、性欲、睡眠欲だ」
「は……はい」
美食家の吸血鬼は、瞬の言葉に 相当の憤りを覚えたらしい。
瞬がはっきり明言できなかった単語を堂々と口にして、彼は、餓死しかけている人間(吸血鬼)にしては力強い口調で、彼の主張を主張し始めた。

「俺は眠らなくても平気で、眠りを楽しめない。人間はみな 醜悪で、抱きたいような女もいないから、性欲も満たされない。食欲しか楽しめないようにできているのに、この世界に美味い血はない。俺は、美味い飯も食えず、眠ることもできず、恋もできない。当然の帰結として、心も身体も満たされない。そんな事態に追い込まれてみろ。俺でなくても、大抵の人間は 世を儚むぞ」
「……それは、確かに つらいことかもしれないですけど……」
「もちろん、つらい。だから、さっさと こんな世界から おさらばさせてくれと言っているんだ。アテナの聖闘士は、そんなこともしてくれないほど非情で無慈悲な生き物なのか!」
「で……でも、僕、立場上、敵であるあなたを放ってはおけませんし、どうしても僕と戦ってほしいんです」
厳しい口調で敵に非難され、瞬は泣きたい気分になってしまったのである。
彼は 彼の敵を無慈悲非情と言うが、瞬には瞬が守りたい人の道というものがあった。

「だから、倒していいと言っている。おまえの拳がどんなものだったとしても、餓死よりはましな死に方ができるだろう。殺してくれたら、俺は おまえに感謝するぞ」
「そんなことはできません。無抵抗の人を倒すなんて。あ……あの、じゃあ、僕が あなたを このまま放っておいたら、あなたはどうなるの」
「餓死する。干からびて、塵になって消えるのかな。どうなるのかは知らん。吸血鬼が死ぬところを見たことがないんでな」
「見たことがない? 仲間はいないの」
「吸血鬼の? 会ったことはないな」
「でも、ご両親は……。もしかしたら、あなたは 最近まで普通の人間だったんですか」
吸血鬼は血を吸うことで仲間を増やすという。
彼がもし、彼が望んだわけでもないのに、いつのまにか他の吸血鬼によって人間でないものに変えられてしまったというのなら、それで 不味い血しかない この世界の滅亡を願うようになったというのなら、アテナの力で彼を元の人間に戻すことが可能なのではないか。
そんな期待を抱いて尋ねた瞬への彼の答えは、だが、瞬の希望を打ち砕くものでしかなかった。

「俺は、生まれた時から吸血鬼だ。父は、顔も知らない。母は普通の人間だったから、父親が吸血鬼だったのかもしれん。俺はずっと北の方にある小さな村で生まれ育ったんだが、あちらでは、不死人の存在は南方ほど稀なものじゃないんだ。死んだと思われていた者が氷の中から蘇生したという話は五万とある。だが、死なない人間が異端で、社会から排斥されるべき存在であることは 南方と変わりがない」
「異端……?」
異端者は社会から排斥されるべきもの。
彼は その事実――むしろ 慣習というべきか――には、多少なりとも理不尽を感じているようだったが、自分が異端の者だということは ごく自然に認め 受け入れているように見えた。
だが、そもそも異端の者と そうでない者は、誰がどういった基準で決めるものなのか。
人は誰もが どこかが他者と違う存在である。
アテナの聖闘士も、考えようによっては“普通の人間”とは異なる存在といえる。
瞬には、人間社会における“異端”の定義が よくわからなかった。

「ガキの頃、俺は、村のガキ共と戦争ごっこをしている時に、普通の人間なら到底生きていられないような大怪我をしたんだ。だが、なにしろ 不死身の吸血鬼様だからな。急を聞いて駆けつけてきた大人たちの目の前で、俺の負った大怪我は あっというまに治ってしまった。それで正体がばれて、俺は 村の奴等に殺されそうになったんだ。母は村人たちから俺を守ろうとして、普通の人間だったのに村の奴等に殺された。まだガキだった俺は、目の前で母を殺されて、ちょっと正気を失ってな。村人たちに襲いかかって、母を殺した奴等の血を吸い尽くしてやった。奴等はみな、干からびて死んでいった。怒りに我を忘れていたせいで、加減できなかったんだ。俺は、それまで母から血をもらって生きていた。あの時 初めて 母以外の人間の血を飲んだんだが、不味かったな。母を殺した奴等の血が美味いわけはないと思っていたし、あの時は 奴等の血の苦さは むしろ心地よかった」
「あ……あの……」
「そうして村を逃げ出した俺は、あちこちを転々としながら、生きるために いろんな奴等の血を吸ったんだが、誰の血も死ぬほど不味かった。美味い血に出会ったことがない。村を出てから俺は、死に至らしめるほど人の血を吸ったことは一度もないんだが、それは獲物の血を吸いつくして そいつを殺すわけにはいかないという考えのせいじゃなく、人の血は誰の血も不味くて――不味すぎて、大量に吸えないからだ。そのうち、不味い血しか持たない人間への嫌悪感が募って、人の血を吸うのをやめた。吐きそうな気分になるのを我慢して飯を食う人間はいないだろう。そうまでして生き続けていたい世の中でもなかったし」

「……」
神の力や 魔の物の呪いによって肉体の性質を変えられてしまったというのなら ともかく、彼が生まれた時から吸血鬼だったというのであれば、そういう性質を持った現在の彼の身体は 彼の“自然”で、彼の“運命”だということになる。
他者によって変えられたものを元に戻すことなら、アテナの力をもってすれば不可能なことではないのかもしれないが、“自然”なものを“不自然”なものに変え歪める行為となると どうだろう。
もし アテナに その力があったとしても、『与えられた運命から逃げることなく、真正面から立ち向かい、打ち克て』を人生の大原則にしているアテナが、その原則を曲げてくれるだろうか。
それは あまり期待できないことのような気がする――。
瞬は、そう考えないわけにはいかなかった。

アテナの力による現状打破の希望が絶たれたところに、“敵”の凄まじい半生の物語を聞かされて、瞬は ひどく暗い気持ちになった。
彼が この世界で生き続けることを厭う気持ちは、無理からぬものだと思う。
それが正しいことだとは 絶対に思わないが、彼が社会から排斥されなければならないほど邪悪な存在だとは、瞬には どうしても思うことができなかった。
しかし、この人に、自らに与えられた運命に打ち克つための どんな方法があるというのか――。
その方法どころか、彼の心を慰撫する言葉の一つも思いつけない自分が、瞬は じれったくてならなかったのである。
そして、悲しくて切なかった。

「そんな時に、この世界を滅ぼそうとしている、ティタノマキアの生き残りだとかいう、一柱のティターン神に出会ったんだ。そして、俺は その計画に乗った。人間が皆 滅びてしまえば、俺は孤独ではなくなると思った」
「孤独……?」

この世界にいるものは、彼とは異なる、不味い血を持つ生き物だけ。
異質とはいえ、言葉によって意思や感情を伝えることができる人間は数多くいるというのに、彼は これまで常に孤独だったのだろうか。
そんなことがあるのだろうか?
自身に問いかけ、瞬は、そんなこともあるのかもしれない――と思ったのである。
同じ人間同士であっても、多くの人間がいる中で孤独を感じている者は いくらでもいるだろう。
むしろ 人は、多くの人間の中にあってこそ、孤独を感じるようにできているのかもしれない。
人に理解してもらえないことで。
認めてもらえないことで。
愛してもらえないことで――。

「あ……でも、吸血鬼は 人の血を吸って、仲間を増やすことができるのじゃないの? そう、聞いてます」
「あ? ああ。一昼夜の間をおいて、同じ人間の血を二度 吸えば、その人間を俺と同じ者にできるらしいな。だが、仲間? 吸血鬼の仲間を増やすのか? そして、人の血を吸わなければ生きていけないような楽しくない人生に、そいつを付き合わせるのか? そんなことができるわけがない。俺は一人で生き、一人で死ぬ」
「あ……」
それは 何と壮絶な覚悟だろう。
『一人で生き、一人で死ぬ』
彼は、不味い血をしか持たない人間たちに、自分と同じ つらい運命を負わせたくないと言っているのだ。
そのために孤独に甘んじると。
その決意が、瞬は切なかった。

「それに、俺に血を吸われて吸血鬼になると、その人間は俺の眷族になる。俺に逆らえない、俺の奴隷になるんだ。そんなのは仲間とは言わん」
「そう……そうだね。そんな人は 仲間とは 呼べないのかもしれないね……」
「呼ぶわけがない。だから、俺の愛した人はマーマ一人。ただ一人だ」
きっぱりと そう告げる孤独な吸血鬼を、ただ見詰めていることしかできない自分の無力が悲しい。
瞬は、悲しくてならなかった。
悲しい吸血鬼が、彼の孤独を守るために、瞬をその場から追い払おうとする。

「俺を殺してくれないなら、どこかへ行け。でなければ、俺を殺してくれそうな奴を連れてきてくれ。俺は もう、生きるのに飽きたんだ。これ以上 不味い飯には耐えられない」
本当に飢えている人間が、食事の不味さごときに耐えられないわけがない。
本当に飢えている人間には、どんな食べ物も甘露のはず。
生きることに飽きた、不味い血に耐えられないと言いながら、彼は、『もう、一人で生きていることには耐えられない』と訴えている。
『一人はいやだ』と叫んでいるのだ。
その叫びを確かに聞いた瞬の瞳に、涙が盛り上がってくる。
樫の木に背を預けている彼の前に両膝をつき、彼と同じ高さに視線を置いて、瞬は彼に告げた。






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