氷河は いつも瞬を見ている。 いつまでも ずっと見ている。 氷河は、なぜ飽きないのだろう。 瞬を見ている氷河を見ていることに1分で飽きてしまった星矢は、心の底から 不思議でならなかった。 「なんで、あいつ、さっさと瞬に好きだって言っちまわないんだろう。いらいらする」 窓の外にあるのは、晴れた初夏の空。 輝くような緑の葉で覆われた木々でできた小さな林。 その手前には、赤やピンク色の花をつけた薔薇の庭。 それらの上を駆け抜けてきた爽やかな微風が、窓際に立つ瞬の髪を微かに揺らしている。 先程からずっと 瞬がそこに佇んでいる訳はわかるのである。 目に美しく映る緑と薔薇の花、肌に触れる微風は心地よく、瞬の気持ちを和ませるだろうし、それらのものにはリフレッシュ効果もあるだろう。 しかし、その風の残滓すら届かない場所にあるソファに腰をおろし、全く楽しそうでない表情で、ほとんど睨むように瞬を見詰めている氷河の気持ちは、星矢には まるで理解できないものだった。 氷河の目には、瞬が花にでも見えているのだろうか。 だとしても――それならば なおのこと、瞬の側に行き、触れるなり、声をかけるなりした方が楽しいのではないか。 それが、星矢の率直な意見だった。 「おまえが いらいらしても、どうにもなるまい」 一目で それとわかるほど はっきりと顔に“いらいら”を貼りつけている星矢を見て、紫龍は薄い苦笑を浮かべた。 それは 当人同士がどうにかするしかないことなのだから、第三者は手出しができない――傍観者でいるしかない。 それがわかっていても 放っておけないのが、星矢の星矢たる そんな星矢が、募る“いらいら”に耐えきれず 出しゃばった真似をしないのは、彼にしては冷静な判断で、感心な態度である。 その冷静な判断と感心な態度に感じ入って、少しでも星矢のいらいら解消になるならと、紫龍は星矢の鬱憤晴らしに付き合ってやることにした。 「いらいらするもんはするんだから仕方ねーだろ。朝から晩まで暇さえあれば瞬を見ててさ。瞬の奴、気付いてねーのかな」 「気付いていないことはないだろうが……。なぜ氷河が暇さえあれば瞬を見ているのか、その理由にまでは気付いていないだろう。あれでも、瞬は一応 歴とした男子なわけだし」 「でも、氷河は瞬が好きなんだろ。好きになっちまったものは仕方ねーだろ」 「それは、まあ……。だが、普通は ためらうだろう。瞬に告白して 受け入れてもらえたら、それですべては解決するが、逆に嫌われて、友人でいることさえできなくなる可能性もある」 「それはないと思うんだけどなー」 自然にも倫理にも常識にも反している氷河の恋を、もし瞬が受け入れることができなくても、瞬は氷河の仲間でいることをやめようとはしないだろう。 もちろん、それで氷河を嫌うようになることもない。 自分の好意を瞬に受け入れてもらえないことを 氷河が気まずく思っても、瞬は氷河との友人関係を維持しようと努めるはずだった。 ゆえに、瞬に思いを告白することによって、氷河が何かを失うことはない。 受け入れてもらえれば 儲けもの――という状況なのだ。 にもかかわらず、行動を起こさない氷河が、星矢は焦れったくてならなかったのである。 氷河は慎重な男ではない。 クールを装おうとしてはいるが、むしろ、直情径行・猪突猛進の気がある男である。 その氷河が、この件に関してだけは、異様なほど慎重――臆病といっていいほど慎重な態度を崩さない。 瞬に対する氷河の気持ちに気付いたばかりの頃は、氷河はタイミングを見計らっているのだと、星矢は思っていたのだが、星矢が『今だ』と思う機会に出会っても、氷河は一向に 自分の思いを瞬に告白しようとはしない。 氷河は自分の恋を実らぬものと決めつけ、そもそも告白するつもりがないのではないかと、今では星矢は思うようになっていた。 だが、たとえ瞬を悩ませないためであっても、“いかなる行動も起こさず諦める”という態度が好みではない星矢は、それゆえ、ただ瞬を見詰めているだけの氷河に 苛立ちを禁じ得なかったのである。 「変な人がいる」 薔薇の花を愛でることで その目を、緑の風を受けることで その肌を楽しませているようだった瞬が、ふいに そう呟いたのは、星矢の苛立ちが臨界点を突破しようとしていた、まさにその瞬間だった。 氷河の振舞いは何もかもが星矢を苛立たせるのに、瞬のそれは全く逆。 瞬は、その何もかもが星矢の心を穏やかにする。 瞬の小さな呟きは、氷河への苛立ちが頂点に達しかけていた星矢の気持ちを、一瞬で落ち着かせてしまった。 氷河が、瞬の声に 全身を緊張させ、はっとしたように顔を上げる。 自分とは真逆の反応を示す氷河を訝りながら、星矢は掛けていた椅子から立ち上がり、窓辺に立つ瞬の側に歩み寄っていったのである。 「変な人って何だよ」 「知らない人」 「知らない人が この家の庭に入り込めるわけねーだろ。天下のグラード財団総帥の私邸だぞ。セキュリティは万全。この家は、住人の許可を受けた者以外は、猫の子一匹 潜り込めないようにできてるんだ」 そう言いながら窓の外に視線を投じた星矢が、そのまま口をつぐむ。 たった今、そんなことは あり得ないと断言したばかりだった手前、星矢はその断言を即座に翻すことが、きまりが悪く感じられたのだ。 「変な奴がいるな」 星矢の代わりにそう言ったのは、星矢と瞬の後ろから覗き込むようにして、庭に視線を投げた紫龍だった。 昼下がりというには少々遅く、夕方というには まだ早い時刻。 城戸邸の庭には、確かに“変”としか言いようのない奇妙な衣装を身に着けた男の影があった。 奇妙な衣装――と言っても、それは、いわゆる聖衣・闘衣の類ではない。 しいていうなら、 遠目に見ただけでは、はっきり そうと断言することはできなかったが、気温が25度を超えているというのに、その不審人物は、袖が長く、服の裾が くるぶしにまで届くような長いコートを身に着けている――ように見えた。 「僕、ちょっと見てくる」 「おい、瞬。変質者か何かだったらどうするんだ。危ないから やめておけ。警備の奴等に連絡すれば、それで――」 部屋を出ていこうとした瞬を そう言って引き止めかけてから、自分は何を馬鹿なことを言っているのかと、星矢は自らが発した言葉を後悔することになったのである。 見た目は か弱い少女のそれでも、瞬は歴としたアテナの聖闘士。 不審人物が 冬眠から目覚めたばかりの飢えたヒグマだったとしても、瞬が“危ない”目に合うことは考えられないのだ。 それはさておき。 『不審人物が 冬眠から目覚めたばかりの飢えたヒグマだったとしても』 星矢がそんなものを例えにして、瞬の強さを表することになったのは、城戸邸の庭を徘徊している不審人物が、実際 森をうろついているヒグマのように見えたからだった。 侵入者は、頭のてっぺんから爪先まで 黒い毛皮で覆われているように真っ黒で、身体そのものもヒグマと見紛うほどに大柄だった。 「大丈夫だよ」 考えようによっては 仲間を侮ったものともとれる星矢の忠告に微笑して、瞬がラウンジを出ていく。 大丈夫だという瞬の言葉を信じなかったからではなく、彼自身の興味に突き動かされて、星矢はすぐに瞬のあとを追いかけた。 少し遅れて紫龍も。 そして、結局は氷河も。 |