「私は、自分や母の死を考えることを恐れて、優しく温かい君の懐に逃げ込もうとしているのだと、星矢に言われた。君を不安解消の道具に使うなと」 「星矢が そんなことを……?」 公爵は既に その恐れは克服している。 それは紛う方なき事実であり、そうだと信じてもいる瞬は、仲間の的外れな非難を申し訳なく思い、謝罪の眼差しを公爵に向けた。 公爵が、瞬の仲間を責めるつもりはないのだというような微笑を瞬に返してくる。 「そうではないとは言い切れない。私が不安を感じているのは事実だ」 「それは……誰だって不安でしょう。未来のことは誰にもわからないんだもの。それは普通のことで、悪いことでも おかしなことでもない。不安だけに囚われて、希望を見失うことが危険なだけで」 「ああ、私は もう二度と希望を見失わない。瞬のおかげで、私は、人は そうあるべきなのだと思うことができるようになった」 『私は もう二度と希望を見失わない』 公爵のその言葉は、瞬には喜ばしいものだった。 そういう笑みを浮かべた瞬の髪に、公爵が その手で触れてくる。 「何があっても、私は、母を救うために力を尽くすつもりだ。私は、私自身の死が恐いわけではない。自分の運命から逃げたくはないし、逃げる気もない」 「ええ」 「だが――」 「だが? 何か公爵の決意を妨げるようなことがあるの?」 それこそ 不安に囚われた目で公爵を見上げた瞬の視線を捉え、公爵が 切なげな笑みと共に首肯する。 「だが、帰りたくないんだ。君と離れたくない」 「え……」 そして、次の瞬間、瞬は公爵に抱きしめられていた。 「こ……公爵…… !? 」 驚き 身じろいだ瞬を、だが公爵は離してくれなかった。 逆に、瞬を抱く腕に力を込めることで、離すつもりはないのだという意思表示をしてくる。 「ずっとこうしていたい。許されるなら、死ぬまで」 「それは……」 それは許されぬこと。叶わぬ願い。 公爵が再び 深い絶望の淵に沈むことがないよう、瞬とて、許されることなら ずっと彼の側で彼を見守っていたかった。 万一の時には、彼に手を差しのべたいとも思う。 自分を抱きしめている人に その気持ちを伝えるため、瞬は――公爵の広い背に その腕をまわしていったのである。 だが、それは許されないことなのだ。 だから――公爵を励まし、力づけるために、瞬は、自分こそが公爵を抱きしめてやっているつもりでいた。 傍目にどう見えようと、抱きしめているのは自分の方なのだと。 だが、そうではなかったことに、まもなく瞬は気付かされてしまったのである。 抱きしめているのは、公爵の方だった。 瞬が その事実に気付いたのは、公爵が瞬の背にまわしていた腕を解いた時。 彼がそうすることによって、瞬の意思とは関係なく、二人の間に距離ができた時だった。 互いに互いの表情を確かめられるほどの距離をおいて――瞬の瞳を真正面から見詰め、恋の情熱にかられた青年の声というより、抗い難い運命の前で悲壮な決意に及ぼうとしている人間の声で、公爵が瞬に告げてくる。 「私は君に恋をしてしまったと思う。初めてだ、こんな気持ちは。私が これまでに出会った どんな人間も持っていなかった強さと美しさを、君は持っている。君こそが私の希望なのに、私は 希望のない世界に帰らなければならないのか? それが私の運命だというのか?」 「公爵……」 帰りたくない。 だが、帰らねばならない。 21世紀の日本で レフ・ヴィノグラードフ公爵が瞬という人間に出会い 恋に落ちたことと、レフ・ヴィノグラードフ公爵がピョートル大帝の治めるロシアに生まれ生きていたこと――ピョートル大帝の時代を生きるべき人間だということ。 その二つの運命の どちらが正しい運命なのか。 『私の正しい運命がどちらなのかを決めるのは君だ』と、『君の答えが、二つの運命のどちらかを私に選ばせる――二つの運命のどちらかを捨てさせる』と、公爵の目は瞬に告げていた。 瞬は、答えに窮したのである。 『正しい運命はどちらなのか』 改めて考えるまでもなく――瞬は その答えを知っていた。 すぐに その答えを公爵に与えることができた。 だが、公爵の真摯な目――どこかで出会ったことのある真剣な眼差し、深い瞳。 “正しさ”を貫くことで、人を 真っすぐに見詰めることのできる この黒い瞳を 悲しみで曇らせるようなことができるだろうか。 瞬はそんなことをしたくはなかった――絶対にできなかった。 「僕は……」 公爵の訴えは思いがけないものだったし、決して受け入れられるものではなかった。 むしろ、あってはならないことだった。 そんなことを、もし自分に求めてくる人がいるとしたら、それは別の人であるはずだった。 そう、瞬は思っていた。 これは あってはならないことなのだ。 瞬は、だから、胸中で自分に命じた。 『今すぐ笑え』と。 『笑って、公爵の言葉を冗談だったことにしてしまうのだ』と。 だが、公爵の 恐いほど真剣な漆黒の瞳が、瞬に そうすることを許してくれない。 瞬は 公爵の瞳に射すくめられ、身動きどころか 瞬きひとつできない状態にさせられてしまっていた。 言ってはならない言葉を言ってしまいそうになっていた。 「瞬!」 そんな瞬を、公爵の瞳の呪縛から解放してくれたのは瞬の仲間たちだった。 「やっぱり、ここにいたな。最初に にーちゃんが出てきてところ。ほんと、にーちゃんも せっかちだな。沙織さんが帰ってくれば すぐに元の世界に戻れるって言ったのに。こんなとこ うろついてたって帰れないって言っただろ。――瞬、栄養士のおばちゃんが おまえを探してたぞ」 「栄養士さんが?」 「ああ。おばちゃん、今夜の晩飯に魚介類のマリネを出したいんだけど、ロシア人はタコは食えるんだろうかって、悩んでてさー」 「タ……タコ?」 沈丁花の木の間から突然現われ、『タコ』の一言で、一気に その場のシリアスな空気を吹き飛ばしてくれた星矢(と その連れの紫龍)の姿に、瞬を支配していた緊張は一瞬で解け――むしろ、瞬は脱力してしまったのである。 「あ……どうだろう。ギリシャでは普通に食べられていたけど、他の欧米の人たちはタコは ほとんど食べないよね」 星矢の登場で窮地を逃れることのできた瞬は、自分が安堵の息をついたことを公爵に気取られぬよう、急いで公爵に背を向け、星矢の方に向き直った。 タコの話を持ってきた星矢の目が まるで笑っていないことに気付き、二度三度 瞬きをする。 瞬の至近距離まで歩み寄ってくると、星矢は、どう聞いても怒っているとしか思えない声音で、低く瞬に耳打ちしてきた。 「隙を見せるなって、あれほど言っといたのに、おまえは何してんだよ! 今の、氷河が見てたぞ」 「えっ……」 “今の”とは、公爵が 己れの恋を告白し、彼が恋した人を抱きしめていた場面のことだろうか。 そして、そんな公爵の腕から アンドロメダ座の聖闘士が 逃げようとしてもいなかったことだろうか。 窮地を逃れられたことに安堵し 極度の緊張から解放されたばかりだった瞬の全身が、再び緊張する。 否、瞬の身体は緊張したのではなく、星矢に知らされた事実のせいで 冷たく凍りついてしまったのだった。 |