明後日には沙織が帰国する。
そうなれば、おそらく 公爵は元の世界に帰ることになる。
公爵は、意識の上では、彼が恋した人の姿を見ないように努めているようだった。
瞬を避けようとしているようだった。

自分は この時代、この世界の人間ではない。
本来は、瞬に関わることはおろか 知り合うことさえ不可能だった人間である。
その事実を、彼は決して忘れたわけではなく、むしろ 別れの時が近付くにつれ、彼は彼の恋を瞬に知らせてしまったことを後悔する気持ちが強まっているようだった。
それは言ってはならないことだったのだと。
知らせてしまったことで瞬の心に負担を負わせ、自分自身をも更に苦しめることになってしまった――と。

それが――瞬との間に距離を置こうとする公爵の決意と振舞いが――まもなく この世界を去らなければならない者による、この世界に残らなければならない者に対する思い遣りであり、同時に 保身――むしろ保心――を図ろうとする一種の防衛機制なのだということは、瞬にも わかっていた――わからないわけでもなかった。
だが、瞬は、彼を責めずにはいられなかったのである。
「どうして、僕を見ないの。見てくれないの」
と。
もうすぐ二人は離れ離れになる。
もう二度と会うことはできなくなる。
二人が一緒にいられるのは、今この時しかない。
そして、氷河は止めてくれなかった――。

「君のためだ」
「僕のため?」
「そして、私自身のため」
公爵が初めて この世界この時代にやってきた時と 今日とで、この庭の佇まいは何も変わっていないはずだった。
木々の緑は緑のまま。
空の色も風の心地よさも あの時と同じ、何も変わっていない。
だというのに、瞬には、すべてが変わってしまったように感じられていた。
もちろん、瞬には わかっていた。
変わってしまったのは この庭ではなく、この庭を見詰めている自分の心の方なのだということは。

以前の自分には、自分を見てくれない人に『なぜ見てくれないのか』と問い詰めるようなことはできなかった。
以前の自分にはできなかったことを 現にしてしまっている今も、そんな自分が信じられない。
いったい自分は誰に――何に――こんなにも変えられてしまったのか。
自分を変えてしまったものは、公爵か氷河か、運命か恋か。
あるいは そのすべてなのか。
自分を変えたものの正体はわからないが、その力に抗することはできない。
いずれやってくる別れの時が どれほど悲しくて苦しくても、悲しみと苦しさが増すだけだとわかっていても、瞬は公爵に自分を見ずにいてほしくなかった――避けてほしくなかった。
二人が共にいられる時間は、あと僅かなのだ。

悲痛な目をして、本当なら ここにいるはずのない人間を見上げ見詰めてくる瞬の前で、公爵が つらそうに眉根を寄せる。
やがて、彼は、観念したように語り始めた。
「最初は――君の姿を見ているだけで心が和んだ。君の姿を追い、君のことを考えることで、母のことを忘れていようと思った。今は、君を見ていると、母を忘れそうになる。君を抱きしめることができたなら、自分は どれほど幸福になれるだろうと思う。帰れば確実に そこにある自分の死より、そんなことばかりを私は考えている。いったい 私はどうなってしまったんだ……」
「公爵……」
『いったい 私はどうなってしまったんだ』
それは、瞬こそが、公爵と自分自身に尋ねたいことだった。
『いったい 僕はどうなってしまったの』

「今では もうわかっている。私は、君に出会うために ここに来たんだ。だというのに、私は君を抱きしめることさえできない。そんな残酷があっていいものなのか……!」
それは心情の吐露というより、悲痛な訴えだった。
訴えというより、叫びだった。
「私は生きたい。君と生きていたい。そんな ささやかな願いが、なぜ叶わないんだ。こんなに好きなのに。君は私の希望そのものなのに……!」
公爵の悲痛な叫びは、瞬の心を大きく揺さぶり、震わせた。
どこかで出会ったことのある黒い瞳。
その人が 苦しみ嘆いている。
瞬は、彼を守りたかった。
もし 彼の母親が命を落とすようなことが起きたなら、側にいて慰めたい。
彼の命を脅かす者がいるのなら、彼の命を救うために何でもしたい。

なぜ そう思うのか、そう思ってしまうのかは、瞬には わからなかった。
彼は、本当ならば出会うこともなかったはずの人なのだ。
だが、それが何だというのか。
“正しい答え”に どんな意味があるというのか。
どこかで出会ったことのある黒い瞳。
命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間ではない人。
瞬はただ、彼が苦しんでいることに耐えられなかったのである。
瞬は、だから彼を抱きしめた。
彼にすがり、瞬も また叫んでいた。
「僕も行く……! 僕も公爵の世界に行って、公爵を助けてあげる……! 一人にはしない。一人では死なせない……!」
「瞬……」

抱きしめているのは どちらなのか。
そんなことはもう どうでもいいことだった。
瞬は公爵を抱きしめていたし、公爵に抱きしめられてもいた。
城戸邸のどこかの窓から、誰かが 不幸な恋人たちの姿を その青い瞳に映している。
その瞳に切なく暗い影を落として。
瞬には、だが どうすることもできなかった。



明日には沙織が――女神アテナが、日本に帰ってくる。
もう一日を 何とかやり過ごせばいい。
この奇妙な時の交錯も、あと一日で 元のあるべき姿に戻る。
そう自分に言い聞かせて起床した9日目の朝。
星矢は、ヴィノグラードフ公爵が瞬の部屋から出てくる場面の目撃者になってしまったのだった。






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