「兄さん! やっぱりわかってくれたんだねっ!」 見慣れたアテナ神殿、玉座の間。 見慣れた女神アテナ。 包まれ慣れた聖域の空気の中に、どこで聞いたことのあるようなセリフを響かせて、瞬が俺の首に飛びついてくる。 「離れろーっ !! 」 と、いつものように 瞬と瞬のセリフを追いかけてくるのは氷河の雄叫びで、 「血は水より濃かったかあ……」 「奇跡としか思えん。普通、神にもわからんぞ、瞬と一輝が兄弟だなんて」 氷河が嫉妬に駆られて見苦しい振舞いに及ぶ時、星矢と紫龍が あくまで無関係な第三者のスタンスを維持しようとするのも、毎度のことだ。 ハーデスの退場と共に、俺たちは全員が 奪われていた記憶を取り戻していた。 もっとも、氷河だけは その重大な事実に気付いた様子もなく、記憶を奪われていた時と今とで、いかなる変化も成長も見せず、終始一貫 ただのド阿呆のままだったが。 世界を滅亡の危機から救うという大任を見事に果たした俺に しがみついて感動の涙を流している瞬と瞬の兄の周りを、あっちに行ったり こっちにまわり込んだり。 まるで飼い主にエサをねだる犬か何かのように、氷河は泣き言を繰り返した。 「瞬、瞬。おまえは俺を好きだな? いくら兄でも、俺以外の男に そんなにべったりくっつくのは やめてくれ。俺は嫉妬深い男なんだ」 「氷河。兄さんは兄さんだよ。嫉妬するなんておかしいよ」 「何を言う。寝癖神の工作ごときで、おまえの兄に生まれついた至高の幸運を あっさり忘れてしまうような男には、おまえに慕われる価値もない。瞬。いいから、今すぐ その馬鹿野郎から離れるんだ!」 確かに俺は、瞬の兄に ふさわしい男ではないかもしれん。 寝癖神ごときに 手もなく操られ、醜態をさらしてしまったのも事実だ。 だが、それを、神の力をもってしても取り除くことの不可能な助平心の持ち主に非難されるのは、実に不愉快だ。 うぬう。思い出したら腹が立ってきた。 そうだ。この金髪助平毛唐野郎は、俺の最愛の弟にちょっかいを出して、不届きな真似をしている不埒者。 記憶を奪われている時にも その印象が変わらなかったということは、こいつの助平の性質は 生まれついてのものだということだ。 そんな男こそ、瞬を汚すことがないよう、瞬の側から離れるべきだろう。 俺は、二度三度 瞬の髪を撫でてやってから、俺にしがみついている瞬の腕を外させ、正面から氷河に対峙した。 この男とは、いつかは決着をつけなければならないと思っていたんだ。 これは いい機会だ。 「そういえば、氷河。貴様の辞書では、『鳳凰』は『ばか』、『不死鳥』は『あほう』と読むらしいな」 「違うのか? 俺はそう習った」 俺の嫌味に、氷河が 白々しい皮肉顔で応じてくる。 『ごめんなさい。馬鹿は俺でした』くらい言ってくれば、まだ可愛げもあるものを。 「ほう。どこの誰が、そんなでたらめを貴様に教え込んだんだ?」 「俺の師は、俺の経験だ。俺の経験が、その認識を正しいと言っているんだ。その絶対不変の認識は、俺の脳と心に深く刻み込まれ、ハーデスに記憶を操作されても消えることがなかったんだろう。要するに、貴様が馬鹿で阿呆だということは、いついかなる時、どんな場合にも変わることはないということだ」 「なにぃ !? 」 「貴様は、瞬の兄失格だ。記憶を奪われたくらいのことで、瞬が自分の弟だということを忘れるとは。記憶を奪われても、一目見ただけで 瞬こそが俺の運命の人だということが、俺には わかった。これこそ、不変の愛、真の愛の力だ!」 「氷河……」 瞬が、氷河の言葉を聞いて、瞳を潤ませる。 ったく、清らかなのはいいが、どうしてこう 俺の弟は騙されやすいんだ。 「瞬っ。こんな阿呆の大嘘に感動したりするんじゃない。こいつは ただの助平だ。不変の愛も真の愛もない。おまえは どうして こんな奴の口車に 手もなく簡単に乗せられてしまうんだ。少しは、人を疑うことを覚えたらどうなんだ!」 俺はもちろん、瞬に対して本当に腹を立てていたわけじゃない。 悪いのは瞬ではなく、どんな裏切りにあっても どれほど人の醜悪を知っても、決して人を信じることをやめない瞬の清らかな心に 付け入る氷河の方だ。 それはわかっているんだが、しかし、何というか、もうちょっと こう……。 真の愛と 助平心の違いくらいは察知してほしいというか、それが瞬の身を守ることにつながるというか。 氷河の場合は、真の愛と助平心が密接に関係し合い 絡み合っているから、その判別が難しいことはわかるんだが、そこは 研ぎ澄まされた聖闘士の勘で察してほしい。 でなければ、我が最愛の弟は、この助平男に騙されたまま、一生を過ごさなければならないことになってしまう。 瞬の兄として、それだけは絶対に容認できない。 兄のこの切ない気持ちを ――と、氷河のように泣き言モードになるわけにはいかないから、兄としての威厳を保つために 命令口調になるだけで、俺は決して瞬を叱ろうとか責めようとか、そういったことは微塵も考えていなかった。 当然だろう。 瞬は何も悪くはないんだから。 と、そこに。 「一輝、おまえ、無茶なこと言うなよ。瞬をこんなふうに育てたのは、兄貴のおまえだろ。今更、人を疑うことを覚えろなんて、勝手がすぎるぜ」 そう言って、氷河ではなく この俺を責めてきたのは、仲間内の色恋・愛憎問題に関しては無責任な第三者のスタンスを維持することに命をかけている某天馬座の聖闘士だった。 星矢同様、常に傍観者の立ち位置キープを心掛けている紫龍が、仲間の意見を支持してくる。 「うむ。星矢の言う通りだ。強く、たくましく、男らしく、潔く、素直で、人の過ちには寛大、愛と思い遣りにあふれ、嘘のつき方など知らず、あくまでも美しく、清らか。常に兄を立て、兄を慕い、その上 兄に甘え頼ることもできる理想の弟。瞬を そんなふうに育て上げたのは、一輝、他の誰でもない おまえだぞ。当然、今の瞬のすべてに関しての責任は、おまえの上にある」 「瞬が氷河の毒牙にかかったのだって、おまえの教育方針通り、瞬が清らかで、素直で、他人に寛大で、愛と思い遣りにあふれ、人を信じることを忘れない いい子ちゃんだったからだろ。今更 なに言ってんだよ、おまえ」 「……」 『何を言っているんだ』と問い返したいのは俺の方だ。 瞬が――瞬が氷河と そういうことになったのは、俺のせいだと !? 俺が、瞬を こんな勘違い人間に育て上げた張本人の極悪人だと、星矢たちは言うのか !? 「なぜ、俺のせいで――」 もちろん、俺は すぐに星矢たちの決めつけに反論しようとした。 反論しようとしたんだが――。 瞬の兄の自分勝手に呆れている星矢。 例の“基本は くそ真面目”な顔で 俺の責任を追及してくる紫龍。 俺に毒づき反発してみせながら、その実 瞬をこんなふうに育て上げた俺に感謝している目の氷河。 そして、非力な弟な弟を庇い守り続けた兄の教育方針に間違いなどあるはずがないと信じ、澄み切った瞳で俺を見上げ 見詰めている瞬。 地上で最も清らかな魂の持ち主を育て上げた俺に向けられている女神アテナの同情の眼差しが決定打だった。 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間たち、瞬を騙し その毒牙にかけた極悪人の氷河、俺のすることに間違いはないと信じ切っている瞬、そして女神アテナ。 それぞれに異なる感情と考えを たたえた彼等の眼差しの集中砲火を浴びて、俺は悟らないわけにはいかなかったんだ。 瞬をこんなふうにしてしまった すべての責任は俺にある。 瞬が 人を疑うことのできない人間になったのも、瞬が氷河にほだされて 奴とそういう仲になってしまったのも、もしかしたら 瞬がハーデスに目をつけられることになったのも、すべては 俺が 瞬を 俺の理想通りの弟に育て上げてしまったからなのだということを。 理想の弟を持つ兄は、幸福な男だろうか。 俺には そうは思えない。 「兄さん。僕は兄さんも氷河も信じてますよ」 その清らかに澄んだ瞳に 俺の姿を映し、俺を信じきった眼差しで 瞬が言う。 可愛い弟を持つ兄になんてなるもんじゃない。 可愛い弟なんて、持つものじゃない。 その弟が可愛ければ可愛いだけ、兄の苦悩は深まるばかりだから。 Fin.
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