忘れな草と同じ色をした空の下。 聖域の外れにある、以前は二人の住まいだった小さな家の扉の前。 後方、少し離れたところに、心配顔の星矢と紫龍が立っている。 そこで、氷河は一度 大きく深呼吸をした。 瞬に『どなたですか?』と問われ、『はじめまして』と言われることを覚悟して、氷河は その家の扉を叩いたのである。 「星矢? どうしたの? 開いてるよ」 家の中から、懐かしい瞬の声が聞こえてくる。 氷河が生きていた頃から、この家を訪ねてくる者は ほとんどいなかった。 もともと この家は、可能な限り他人の干渉を排除して 二人きりの時間を持ちたいという氷河の希望によって、白羊宮からアテナ神殿までを結ぶ、いわゆる聖域のメインストリートから大きく外れた場所に建つ家だった。 訪ねてくるのは、瞬の幼馴染みで同僚の星矢と紫龍の他には、鳥や山猫くらいのもの。 ごく稀に、記憶を失った迷子の女性がやってくることがあるばかりだったのだ。 「ノックなんて、いったい どういう風の――」 何の変哲もない樫の木の開き戸。 しかし、氷河にとっては、彼の人生の行方を左右する、まさに運命の扉――が開かれる。 そこに、星矢でも紫龍でもなく、いたずら好きの小鳥や エサを求める山猫でもないものの姿を見い出して、瞬は ひどく驚いたようだった。 それこそ『どなたですか』と問うこともせず、ただ大きく瞳を見開いて、どこの誰とも知れぬ男の顔を、瞬は無言で見詰めている。 瞬がいつまでも『どなたですか』を言ってくれないので、氷河は思わず 自分から瞬に『はじめまして』と言ってしまいそうになったのである。 瞬が『どなたですか』を言ってくれない訳は、まもなくわかった。 「氷河……」 瞬は、今日初めて出会ったはずの訪問者の名前を知っていたのだ。 自分が教えてやらなければならないものと思っていた名を、先に瞬に言われて、氷河は しばし戸惑った。 「は……はじめまして。俺は――」 名前を知ってくれている人に自己紹介を始めてしまった氷河の首に、次の瞬間、瞬の両腕が絡みついてきた。 「氷河! 氷河! 氷河! 生きてたんだねっ!」 よくない展開だけを考え憂えていても何にもならないと 自身を鼓舞しつつ、よくない展開ばかりを考えていた氷河には、これは全く予想外のことだった。 死んだ恋人に しがみつき すがりついてくる瞬の身体を抱きとめてやっていいのかということすら わからない。 氷河にできたのは ただ、かすれ乾いた声で、 「俺を……忘れたんじゃなかったのか。忘れ草を飲んだと聞いた」 と、瞬に尋ねることだけだった。 すぐに瞬から、快活明瞭な答えが返ってくる。 「そんなもの、飲むわけないでしょう! どんなに つらくても、悲しくても、僕は氷河を忘れたくないよ!」 「しかし、星矢たちが――」 「え?」 仲間たちの名を出されて 初めて、瞬は 生き返ってきてくれた人の後ろに、想定外の展開に驚き 唖然としている仲間の姿があることに気付いたらしい。 母親との再会を果たした迷子の子供のような振舞いを 仲間たちに見られてしまったことを気まずく思ったらしく――瞬が、慌てた様子で 氷河の首に絡めていた両腕を解く。 それでも、その指は 二度と離してたまるものかと言わんばかりに(だが、ごく控えめに)氷河の上着の裾を握りしめていたが。 「僕……星矢や紫龍や みんなが――僕が立ち直れないんじゃないかって心配してくれてるのがわかったから――だから、氷河を忘れた振りをしていただけだったんだ。僕は、あの花を使わなかったの。嘘ついて、ごめんなさい……」 「忘れた振り……」 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間たちに嘘をついていたことを、瞬は済まなそうに詫びてくる。 星矢と紫龍は、もちろん瞬を責める気にはならなかった、 瞬は正しい選択をしたのだ。 ベルタと同じ過ちを犯さなかった。 そして、その正しい選択が、今 氷河の不安を消し去り、皆を幸福にしようとしている。 星矢も紫龍も、もちろん瞬を責めるつもりはなかった。 ただ、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間に対して、それはあまりに水臭いやり方なのではないかと思っただけで。 「俺たちの前では忘れた振りをして、無理に笑って、隠れて一人で泣いていたのか」 瞬に耐える意思があるなら、仲間として慰め励ましてやりたかった。 瞬に尋ねる紫龍の瞳が、言葉には出さずに そう言っている。 「ごめんなさい……」 仲間の気持ちがわかるから――瞬は、星矢と紫龍の前で項垂れることになったのである。 だが、“振り”に気付かず、悲しみに耐える仲間を力づけてやれなかったと悔やむのも、仲間の前で 悲しい出来事を忘れた振りをするのも、互いが互いの気持ちを思い遣ってのこと。 もちろん、星矢と紫龍は瞬を責めるつもりはなかった。 どうせ責めるのなら、瞬などより はるかに責め甲斐のある男が、そこにはいたのだ。 『どんなに つらくても、悲しくても、僕は氷河を忘れたくないよ』 そんな健気な言葉を瞬から与えられるだけでも幸甚の至りだろうに、その上、 「おまえは強い。おまえが そんな花の力に逃げたなんて話、俺は本当は信じていなかったんだ。俺は、おまえの強さこそを信じていたぞ」 とか何とか調子のいいことを言って、瞬の瞳を更に涙で潤ませている図々しい男が。 仲間のために涙を隠し 懸命に笑顔を作っていた瞬を責めるより、喉元を過ぎた途端に熱さを忘れてしまったらしい お調子者を責める方が 断然楽しいし、胸に痛みも感じない。 そう気付いた星矢は、おもむろに氷河の方に向き直った。 「瞬が謝る必要はないぜ。悪いのは、瞬じゃなく氷河だろ。おい、氷河。おまえ、次に死ぬ時は、『忘れろ』も『忘れるな』も言わないで、黙って死んでくれよな。んなこと言って死なれると、あとあと何かと面倒なことになる」 「次に死ぬ時だなんて……」 星矢が やりこめてやりたいのは、あくまで氷河の方だったのに、星矢の嫌がらせに泣きそうな目になったのは瞬の方だった。 紫龍がすぐにフォローに入る。 「何と言うのがいいんだろうな。そういう時は」 紫龍は決して 答えを得られることを期待して その問い掛けを口にしたわけではなかったのだが、 「『幸せに』」 答えは すぐに返ってきた。 一度死んで生き返ってきた男の言葉には、さすがに 相応の重みと説得力がある。 「ああ、それはいいな」 以前の氷河には、もしかしたら思いつきもしなかったかもしれない その言葉。 紆余曲折の末に辿り着いたのだろう氷河の その答えに、紫龍は微笑しながら頷いた。 その時に いい恰好をしようとしたり、自分の気持ちを押しつけようとしたりしても ろくなことにはならない。 『幸せに』 死にゆく人間が、これからも生きることを続ける人間に望むことは、ただそれだけなのだ。 幸せになってほしい。 ただ それだけ。 戦いを生業にしているような聖闘士に限らず、命の炎が消える日は、誰にでも いつか必ず訪れる。 その時、迷いもなく その言葉、その思いを残せるようにすることができればいいと、アテナの聖闘士たちは思ったのである。 アテナの聖闘士たちの上に、忘れな草と同じ色をした夏の空が広がっていた。 Fin.
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