「まあ。派手にやってくれたこと。瞬。あなたにしては随分と乱暴なことをしたものね」
今は ただの石ころと化してしまった氷河の恋人制作材料の前で、アテナは、むしろ瞬の念入り かつ鮮やかな仕事ぶりに感心しているようだった。
おいたを叱るというより、この事態を楽しんでいるように、アテナは瞬に そう告げた。
からかうような目をしたアテナの前で、瞬が その顔を俯かせる。

「ぼ……僕は、だって、そんな、作り物に恋をするなんてことを、氷河にしてほしくなかったから……」
「こんなことをしておいて、嘘は駄目よ。正直におっしゃい」
アテナの声に瞬を責める響きはない。
どう考えても彼女は、こうなることを見越して、アテナ神殿の よりにもよって玉座の間に大袈裟な大理石を運び込ませたに違いなかった。
瞬が、観念したように顔を上げる。
そして、瞬は、瞬にしてはきっぱりした口調で、自らの暴挙の本当の理由を、アテナと仲間たちの前で告白したのだった。
「僕は、作り物の女の人なんかに 氷河を取られたくなかったんです」
と。

瞬の その答えを聞いて慌てたのは星矢である。
氷河を作り物の女の人に取られたくないというのなら、瞬は作り物でない女の人にも氷河を取られたくはないだろう。
それは、とりもなおさず、瞬が氷河に対して特別な好意を抱いているということだった。
「瞬……まさか アポロンの野で、おまえも氷河に――」
失恋神アポロンの呪いの力は、氷河だけでなく瞬にも及んでいたのだろうか。
失恋癖はあるにしても、アテナと並んでオリュンポス12神に数えられるアポロンの力は、それほど強大なものだったのか――。
星矢は、何よりもまず その可能性を考えたのだが、星矢のその問い掛けに、瞬は実にあっさりと首を横に振ってみせた。

「きっとアポロンのせいなんかじゃないよ。僕、アポロンの野で氷河に出会う前から 氷河のことを好きだったんだと思う。氷河もそうなんだと思ってたんだ。だって、氷河は いつも僕を見詰めてくれてて――」
「瞬は、星矢や氷河よりは はるかに明敏だ。まあ、ばれないはずがなかったな」
紫龍が さりげなく仲間たちを侮るようなことを言ってくれたのだが、星矢と氷河は、今はそんなことに いちいち不快の念を表明していられる状況にはなかった。
二人は今、それどころではなかったのである。

「で……でも、だったら、なんで おまえは 氷河なんか好きでも何でもないなんてこと言ってたんだよ! 俺は氷河の一方通行だと思ってたから――」
だから――それは氷河の片思いだと思っていたから、星矢は、いずれ氷河は正気に戻ると繰り返し瞬に告げ、氷河の邪恋をどうにかしてくれとアテナに助力を求めることもできたのである。
それが もしかしたら、瞬の恋を妨げ、瞬の心を傷付ける、冷酷な行為だったかもしれないのだ。
星矢の狼狽は至極当然のものだった。

「それは……だって、あの野原で出会った二人の恋は悲恋に終わるんでしょう? 恋に落ちていない振りをしていれば――始まっていない恋なら悲恋になることもないと思ったの……」
「……」
氷河と瞬の恋は、アポロンの力によって始まったものではなかった。
だが、その恋の順調な進展を妨げていたのは、アポロンの名を冠する野の伝説だったらしい。
考えようによっては、アポロンは絶大な力をもって 恋する二人の邪魔をしていた――と言えるのかもしれない。
失恋神は実に見事に、幸福な恋人たち(幸福になっていいはずの恋人たち)の恋路を塞いでのけていたのだ。
まさに失恋神の面目躍如といったところだった。

「ったく。もともと好き合ってたなら、アポロンの野なんて行かずに、フツーに告白してればよかっただろ!」
氷河が妙な画策を巡らせてくれたおかげで、しなくてもいい苦労をし、結果的に余計なお節介を働くことになってしまった星矢が、氷河に毒づく。
しかし、氷河には氷河の都合というものがあったらしく、仲間に責められても、彼は一向に反省の色を見せなかった。
それどころか氷河は、星矢の叱責に正々堂々と正面から反駁してきた。
「瞬は貴様なんかと違って繊細なんだ。前準備もなく 唐突に告白なんかしたら、驚いて恥ずかしがって逃げてしまうかもしれないじゃないか。かといって、俺がガキの頃からずっと瞬を好きで、虎視眈々と瞬を俺のものにできる時を狙っていたなんて本当のことを言ったら、それはそれで瞬に退かれてしまうかもしれん。だから、俺は不可抗力を装って 告白するのが最も安全かつ最善の策だと考えたんだ!」

不可抗力で突然 野原に押し倒されることになった瞬は驚かなかったと、氷河は本気で思っているのだろうか。
本音を言えば、星矢は、その点を指摘して氷河をなじってやりたかったのである。
そんなことをしても、氷河のことだから手前勝手な理屈をつけて自分の行為を正当化してくるだろうことが 容易に想像できたので、星矢は早々に氷河を責めることを断念したのだが。
代わりに、精一杯 皮肉めいた口調で、
「瞬には 全部 ばればれだったみたいだけど?」
とだけ言う。

その皮肉に反応してきたのは、氷河ではなく瞬の方だった。
瞬が真っ赤になって顔を伏せる。
その様を見て、氷河は、今は星矢の相手をしている場合ではないことを思い出したらしい。
星矢に対する態度とは打って変わり、慎重かつ気遣わしげな面持ちで、彼は瞬に尋ねていった。
「そうだったのか……? おまえは俺の気持ちに気付いてくれていたのか?」
声の調子も、その響きも、対星矢用のものとは まるで違う。
優しく穏やか、その上 包容力さえ感じさせる声音で問われ、瞬は氷河に小さく頷いた。
「子供の頃は……僕が泣き虫なのに呆れて、氷河は いつも僕を見ているんだろうと思ってたの。けど、聖衣を手に入れて日本に帰ってきて、大人になった氷河と再会した時に、もしかしたら そうじゃなくて――氷河は泣き虫の僕に呆れてるんじゃないような気がして、それが違う視線のような気がして、それで もしかしたらって……」
「そうか……気付いてくれていたのか……」

瞬の可愛らしい告白に感動し、その感動に打ち震える氷河の姿は、まさに、ミリエル司教によって人間の強さと誠意を生まれて初めて知ったジャン・バルジャンもかくや、エスメラルダによって 人間の優しさに生まれて初めて触れたカジモドもかくやのもの。
こうなると、氷河にはもう この世に恐いものなど何一つ存在しなかった。
「僕たちの恋は悲恋に終わるの……」
瞬の不安そうな問い掛けも、氷河は、
「あの糞くだらない伝説は、アポロンの野で生まれた恋は悲恋に終わるというものだったはずだ。俺たちは アポロンの野で出会う前から好き合っていたんだから、失恋神の呪いなんてものは当然 無効だ。何より俺はアポロンと違って性格がいい。おまえとの恋に破れる義理も いわれも 理由もない!」
と、一刀両断に切って捨てた。

「おまえは 性格がいいんじゃなくて、いい性格してるだけだろ」
さすがに呆れた星矢が脇から入れた嫌味は、氷河はもちろん瞬の耳にも届かなかったらしい。
あるいは、今の二人の五感は、ただ二人のためだけに働いているのかもしれなかった。
「そ……そうだよね! 氷河はアポロンとは違うよね!」
氷河の言葉に力を得たように、瞬が素直に頷く。
そんな瞬に、氷河は氷河で図々しく、
「まあ、あんな失恋の権化のような男より、俺の方が百倍いい男なのは確かだな」
とか何とか、神をも畏れぬ暴言を吐いてのける。
あげく 氷河は、その場に 仲間たちのみならずアテナがいるという事実を綺麗さっぱり無視して、
「大丈夫。信じて貫けば、恋は必ず実る!」
と力強く断言し、その胸に しっかりと瞬を抱きしめてしまったのだった。

「調子のいい野郎だな、ほんと」
何を勘違いしたのか、こんな男と くっつく羽目になってしまった瞬の将来が案じられてならなかったのだが、肝心の瞬が 氷河の胸の中に嬉しそうに収まっているので、星矢は瞬に自制や自重を促すこともできなかった。
「でも、瞬が好きだというのですもの、仕方がないわ」
「一応、大人しく控えめということになっている瞬には、氷河くらい厚顔無恥な男がついていた方がいいのかもしれん」
そう言うアテナと紫龍も半分 諦め顔である。
賢明な(?)彼等は、『恋し合う二人に何を言っても無駄である』という人類の真理を知っていたのだ。

どこまでも調子がよく、しかも対峙する相手によって 悪びれることなく平然と態度を変えてみせる白鳥座の聖闘士 キグナス氷河。
かなり無理をして良く言えば、臨機応変、円転滑脱。
ギリシャ随一の失恋神の力ごときでは、彼の恋を妨げることなど まず不可能。
『良識ある人間は、常識のない人間に勝つことはできない』
それもまた、神話の時代から連綿と受け継がれてきた人類の真理なのだった。






Fin.






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