Much Ado About Love

-恋の空騒ぎ-







青く晴れた空に突き刺さるように そびえ立つ幾つもの灰色の高い塔。
5年前、この国の都が灰燼に帰した時、数百年続いた王室は倒れ、数百年の長きに渡って その場に建っていた王城もまた焼失したと、氷河は聞いていた。
それから、僅か5年。
この地には、今では、マケドニアの都より、エジプトの都より、ギリシャのどの都市国家より機能的で活気にあふれた都が再建され、新しい王の居城に至っては、以前の倍も広大で 以前の倍も高い塔を持つ荘厳な城が威容を誇っている。

前王家に連なるものは、人も建物も書物も法も貨幣も ことごとくが廃絶され、国名もシェオルと改められた この国の現在の王の名はハーデス。
彼が最初に この国の都に姿を現わした時、彼が従えていた軍兵は 僅か百余名だったという。
それが平和な日々に慣れて油断していたとはいえ、数万の兵を蓄えていた この王国の すべての権力を 一日にして掌握してしまったというのだから、尋常のことではない。
だが、その驚異的な力ですべてを破壊し尽くした新王ハーデスが、僅か数年で、旧に復するどころか 従前以上に美しく繁栄した都をうち立て、秩序を回復したことは、更に尋常のことではないだろう。

ハーデス軍が それまでどこにいたのか――どこから来たのか、何を目的とし、なぜ この国を選んで蜂起したのかは、誰も知らない。
この国の内にも、この国の外にも、ハーデスの出自を知る者はいない――いないということになっていた。
人々が知っていることは ただ、どこからともなくやってきたハーデスという男と その男に従う者たちが、一日で数百年の歴史を持つ王国を打ち倒したこと。
そして、破壊した国を復興しただけでなく、一度は灰燼に帰した地に 他のどの国にも持ち得ないほど高い文化と経済的繁栄をもたらしたということだけだった。

その偉業は、全権能をその手に収めた専制君主ハーデスの強力な指導力によって、速やかに成し遂げられた。
突然 生まれた嵐が猛威を振るうように古い王家を滅ぼし、その地に瞬く間に新しい国シェオルを建てたハーデス。
彼と彼の軍はどこからやってきたのか、ハーデスは それほどの力を どのようにして養い、蓄え、振るうことができたのか。
周辺の国々に その答えを与えることなく、シェオルの国は地上世界における存在感を増していった。
高い文化と、各分野での生産力、その生産力に伴う経済力。
ハーデスが建国したシェオルは、『異様だから』『尋常ではないから』という理由で無視することはできない国だった。
無視できない国になったのである。
僅か5年で、シェオルの国は。

多くの国が、シェオルの繁栄の恩恵を受けようとして、あるいは その尋常ならざる力に自国を侵されることを恐れて、シェオルに対して友好的な国交を申し出、ハーデスはその申し出を受け入れた。
また、その目覚ましい発展を可能にした国家運営方法を学ぶためにシェオルとの人的交流を求める国も多く、その要望にもハーデスは快く応じた。
ハーデスの その寛容は、シェオルが軍事独裁国家ではなく、自由の気風に満ちた文明国だと喧伝するためのものだったのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。
いずれにしても、氷河は、ごく短期間に奇跡的発展を遂げたシェオル国の経営手法を学ぶために(その謎を探るために)、シェオルに派遣された親善使節――留学生の一人だった――そういうことになっていた。

自分で宿をとることも可能だったのだが、氷河が あえてシェオル国営の宿舎を利用することにしたのは、外国からの大使や留学生の宿泊滞在という特化された目的のために 独立した施設を運営する国というものが他に類がなく、それがどんなものなのかを見ておきたかったから。
国営宿舎の従業員や管理責任者は国の官吏・役人で、民間の宿では得られない情報を彼等から得ることができるのではないかと期待したから。
そして、その宿舎の建物が、王宮の城壁の外とはいえ、極めて王城に近いところにあったから。
多少の自由を犠牲にしても、シェオルが用意した施設を利用することによって得られる情報には価値があるように思えたからだった。
シェオル側の監視の目が届く分、逆にシェオル側に疑いの念を抱かせることもないだろう。
そう考えてのことだった。

その考えは図に当たったらしい。
シェオルの国営宿舎の管理責任者は、氷河が考えていた以上に親しみやすく 口の軽い男で、シェオル国内の事情をあれこれと氷河に語ってくれた。
結局のところ、ハーデスと共に 突如この世界に現れた百余名の者たち以外は、ハーデスの子飼いの部下ではないということなのだろう。
口の軽い管理責任者は、その職務には義務感を感じ、自分に課せられた仕事は着実に遂行するが、国王としてのハーデスに国民として親愛の情を感じている様子や、臣下として忠誠を誓っている様子は皆無の男だった。

「兄さんは、ほんとに いい時に来た。明日は この国の建国記念日なんだ。下々の者も城門内に入ることが許されて、そこで祝いの酒を振舞ってもらえることになってる。兄さんは、ヒュペルボレイオス国からの公式の留学生ということになっているから、王宮の庭だけでなく建物の中に入ることも許されるだろう。もしかしたら、遠目に国王陛下の姿を見るくらいのことはできるかもしれない。本当にいいタイミングだったよ」
「遠目に? 俺はできることなら、直接 ハーデス国王に留学の申請を快く受け入れてくれた礼を伝えたいんだが」
「それは さすがに無理だろう。陛下と直接 言葉のやりとりができるのは、陛下の側近中の側近だけだ」
「そこを曲げて。俺の故国は北の果て――地理的にも気候的にも文化産業の発展に不利な点があるにしても、数百年の歴史がある国だ。にもかかわらず、建国から僅か5年のこの国に、文化でも産業でも大きく水をあけられている。もちろん、軍事面でもだ。この国の洗練された高い文化、経済的発展、軍の備え――。地縁はおろか人脈もなかった国で、ごく短期間に それだけのことを成し遂げたこの国の王を、直接 目一杯 称賛したい」

その手の阿諛追従を喜ぶ男なのかと探りを入れてみたのだが、管理人の答えは、
「それは視察留学を終えて帰国してから、兄さんの国からの国交申し入れの公式文書に盛り込んでやれば十分だろう」
という、実に硬い(・・)ものだった。
ハーデスは、太鼓持ちや追従者の類を側に置いて喜ぶタイプの男ではないらしい。
禁欲的で清廉潔白な王という評判は、あながち嘘ではないようだった。
「美しい王だと聞いた。土産話の種に 側近くで顔を見たいんだが、それも無理だろうか」
「言ったろう。陛下には滅多な者は近付くことはできんのだ」
「この国の王は暗殺でも恐れているのか? 滅ぼされた王家の残党がいるのか? それとも、ハーデスが突然 この国を侵略してのけたように この国の覇権を狙う第三の勢力が存在するとか?」

どうやら氷河の用いた『侵略』という言葉が、彼を刺激したらしい。
宿舎の管理責任を任されている男は、ふいに顔を強張らせ、声の音量を下げてきた。
「兄さん、頼むから黙ってくれ。そんなこと、誰かに聞かれて密告されたら、投獄・拷問ってことにもなりかねない」
「投獄、拷問?」
声をひそめても話をやめない人間は、極めて貴重な情報源である。
彼のために、彼に付き合って、氷河は声をひそめた。
貴重な情報源が、氷河の部屋の扉と窓に視線を走らせてから、僅かに顎を引く形で恐る恐る頷く。
「お城の周囲の(ほり)に流れているのは、ただの水ではないんだ。錬金術で使われる液体と聞いているが、あそこに石を投げ込むと その石はすぐに融けてしまうんだよ。人の身体なぞ、一瞬で骨も残らない状態になる。王の意に沿わない者は、裁判もなしに投げ込まれてしまうという噂で、あの濠は冥界に続く死の川と呼ばれている」
「繁栄を謳歌している この国にも、やはり暗部はあるというわけか。武力によって打ち建てられた侵略国家の常だな」
「王を批判するようなことさえしなければ、いい国だよ。王への批判以外の大抵のことは許される。生活も苦しくはない。前の王様の時より豊かになったくらいだ。自由は制限されているが、その不自由を我慢できるだけのものは与えられている」

それは恐怖政治というものだ――とは、彼の身の安全のために、氷河は言葉にすることはしなかった。
「兄さん、いい男なんだから、土産話は、王様なんかより 女でも引っかけて作った方がいいよ」
話題を変えようとする意図が見え透いていたが、ハーデスの作った国が 人権が尊重された公明正大な国とは言い難いものだという事実を語ってもらえただけでも有難い。
有益な情報を提供してくれた彼に、これ以上の危険を冒させるわけにはいかないだろう。
氷河は、彼の見え透いた誘いに乗ってやることにした。
「王が美貌だという噂は聞いていたが、この国には美人が多いのか?」
「どの国にも美女と醜女がいる。それはこの国も同じだよ」
実に冷静かつ客観的な意見である。
ハーデスに関して彼が語ったことにも 大きな誇張や偏見はないのだろうと、氷河は思った。






【next】