星矢の在籍するフットボールクラブは、自治体と民間企業が運営資金を出している、プロアマ混在のチームである。
ホーム・グラウンドは区営の運動場の一画にあり、サッカー専用スタジアムではない。
J1ほどの華やかさはなく、試合がない時には、客席には選手の身内や青田買いのファンが数十人いる程度。
――なのだが。
その日の人出は通常の100倍以上だった。
なにしろ、5000人を収容できる客席のほとんどが埋まり、立ち見の客までが出ていたのだから。

スタジアムに通い慣れている瞬は 選手スタッフ用ゲートからバックスタンドの最前列に潜り込むことができたのだが、そこから世界的有名人の姿は見えなかった。
南サイドスタンド側のゴール前に人だかりができていたので、おそらく その中心に話題の人がいるのだろう。
このグラウンドの本来の主役である選手たちは、有名人と その取り巻きによってバックグラウンド側の隅に追いやられ、地味に数人ずつでボール回しの練習を始めていた。
彼等の練習風景を見学に来たはずの世界的有名人が その様子をちゃんと“見学”しているのかどうかは非常に怪しい状況――である。

「せーやー! おべんと持ってきたよ! タコさんウインナと甘い卵焼きとケチャップのナポリタン!」
「おーっ!」
グラウンドと客席を隔てる鉄柵に沿って場所を移動した瞬が グラウンドにいる星矢に向かって声を張り上げると、世界的有名人の動向より練習の方が、練習より弁当の方が大事な星矢は、蹴っていたボールを放り出して 瞬が取りついている柵の前に駆け寄ってきた。
「あと15分くらいで、大スターは帰るみたいだから、待っててくれ」
「うん」

試合のある日にも考えられないほどの人出はあくまでも世界的有名人のためのもので、チームの選手たちは、ある意味、蚊帳の外。
星矢のその言葉を聞き、大スターが帰れば この人出も引き、いつも通り、風通しのいい場所で弁当を広げることもできそうだと、瞬は安心したのである。
その時だった。
南サイドスタンド側のゴール前にできあがっていた黒山の人だかりが、星矢のいる方に移動し始めたのは。
人だかりが近付いてくると、その中央に 背の高い金髪の男性がいることが、瞬にも見てとれるようになる。
それが噂の大スターのようだった。

(え…… !? )
その時点で、客席にいる瞬と大スターの間には 30メートルほどの距離があった。
それは とても互いの表情を確認できるような距離ではない。
にもかかわらず――瞬は、その時、一瞬だけ、彼と視線が合ったような気がしたのである。
もちろん、それは気のせいだったろう。
それが気のせいだったにしても、事実 その出来事があったのだとしても――瞬はすぐに そんなことはどうでもよくなってしまったのだが。
瞬の眼前で――世界的大スターが、取り巻きを引きつれて、星矢の側に歩み寄っていく。
親指で星矢を指し示すと、彼は、彼の案内役を務めているらしい監督に日本語で告げた。
「貴殿のチームには、非常にセンスのいいプレイをする選手がいるようだ」
「そんな勿体ないお言葉を。あれは、我がチームのいちばんの問題児で」
監督の謙遜(?)を聞き流し、世界的大スターが星矢の前に立つ。

「名前は」
世界的大スターに名を問われた星矢は、
「せ……星矢だけど」
いったい何が起こっているのか理解できずにいるのが明白に見てとれる顔で、問われたことに答えを返した。
おそらく 星矢と大スターを一つの画面に収めるため、カメラを持ったスタッフが後方に引き、マイクを持ったスタッフが、逆に二人に にじり寄る。
「星矢……」
大スターは、その名を復唱した。
そして、
「とてもいい」
と、短く言う。

その時、瞬の耳は 集音マイクと化していたのである。
分野は違っているにしても、世界でトップクラスのスポーツ選手でもある世界的有名人が目を留めたとなれば、スター以外の多くの人間が星矢に注目することになるかもしれない。
もしかしたら、これが星矢の夢の実現のための最初のステップになるかもしれないのだ。
大スターが星矢に何を言うのか、何を言ってくれるのか、瞬の心臓は、もしかしたら世界的有名人と直接対峙している星矢自身より 大きく強く波打っていたかもしれない。
が、瞬の期待に反して――おそらく時間が押しているのだろう――、それ以上は何も言わず、大スターは星矢に背を向けてしまったのだった。

「どうでした。近くで氷河を見て」
メインのカメラとリポーターは氷河を追いかけていったので、星矢にそう言ってマイクを向けてきたのはサブのスタッフのようだった。
カメラを持ったスタッフも、まだ一人 その場に残っていて、星矢の様子を撮り続けている。
「どう……って、何だよ、あいつ! あいつはサッカーなんてしたことないんだろ! 偉そうに!」
まだプレイヤーではない人間――つまりは、自分より上手いのかどうかも わからない人間に評価されることは、星矢には嬉しいことでも何でもなかったのだろう。
バックスタンド側ゲートを通ってグラウンドを立ち去ろうとしている大スターの後ろ姿に向かって大声で怒鳴り、星矢は口をとがらせた。

「星矢!」
そんな星矢に、言葉ではなく視線で、『いい子にしていろ』と監督が命じてくる。
「目に留めてもらえて、大変光栄でした!」
星矢は一度 頬をふくらませてから、怒声としかいいようのない声を、再びグラウンドに響かせた。
サブのカメラ担当スタッフとおぼしき男が、星矢にカメラを向けたまま、
「キミ、それ、もう少し興奮気味に嬉しそうに言ってくれない? その方が いい絵が撮れる」
と、指示してくる。

嬉しい時には それこそ 太陽のような笑顔を見せる星矢だが、彼は、嬉しくない時に“嬉しそう”に振舞うなどという器用なことができる人間ではなかった。
サブスタッフの要望は、星矢にとっては無理難題。
当然、星矢は その要望に応えることをしなかった。
「なんで俺が んなことしなきゃならねーんだよ!」
不機嫌そうに舌打ちをして、星矢がそう毒づいたのは、実に星矢らしいこと。
権威権力に へつらえない星矢の性癖を 微笑ましいとさえ、瞬は思ったのである。
だが、いかにも星矢らしい その対応に、瞬が 心の片隅で落胆したのも紛うことなき事実だった。


「有名な人に褒めてもらえたんだから 素直に喜んで、あそこで オーバーヘッドシュートでも決めてみせたらよかったのに」
異常な人出が引き、いつも通りの静けさが戻ったスタジアム。
午前の練習が終わり、お昼の弁当の甘い卵焼きを頬張る星矢に、瞬は つい愚痴ってしまったのである。
「ああ、あの大スター様の頭に、思い切りボールを蹴りつけてやればよかったぜ!」
卵焼きを ごくりと飲み込んで、星矢が大きく頷いてくる。
それは 優等生的でもなければ、褒められるようなことでもない。
そんなことすら屈託なく明るく言ってのける星矢。
たとえ生涯最大の夢を叶えるためでも、星矢に そんな わざとらしく調子のいいことを求めるのは無理な話だったのだと、瞬は諦め顔で苦笑した。






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