瞬が参加している地域ボランティアグループが、災害時に備えて 食糧を備蓄している冷凍冷蔵倉庫。
瞬が その倉庫で凍死しかけたのは、それから3日後のことだった。
備蓄食料の賞味期限切れのチェック作業をしていた瞬が いつまで経っても作業完了報告にやってこないことを怪訝に思った事務長が、様子を確かめるために倉庫に入ったところ、彼は そこで、冷凍機の冷気吹き出し口下に倒れ冷たくなっている瞬の姿を発見することになったのだという。
幸い 瞬が見舞われたのは、瞬の体力があれば自力で回復可能な低体温症で、病院で治療を受けるほど重篤な事態ではなかった。
だが、発見があと30分遅れていたら死に至っていたかもしれないと倉庫会社の産業看護師が言うほど――それは 決して軽微な事態ではなかったのである。

「こんなことはありえないって、事務長さんが言ってたぞ! あの倉庫は 中からでも開けられる造りになってるし、倉庫管理会社に直通の電話も備え付けられてたのにって!」
若いだけあって、低体温症の症状が消えると、瞬の身体はすぐに元の状態に戻ったのだが、ボランティアグループの事務長から連絡を受けた星矢は激怒して、瞬を面談室に連れ込み、頭から怒鳴りつけた。
さすがの忠犬も、今度ばかりは瞬様の味方につくことができず、瞬を叱責する星矢の後ろで、椅子に腰掛け 項垂れている瞬を 憂い顔で見おろしているばかりである。

「おまえ、何だってこんなことしたんだよ。死にたいのか!」
星矢が瞬を厳しく責めるのは、平生の瞬の注意深さを知っているからだった。
瞬は、不注意から生死に関わるミスを犯すようなことはしない。
意識してミスを犯そうとしたのでない限り。
瞬は不注意で自分の命を危険にさらすようなことをするほど、迂闊な人間でも 軽率な人間でもないのだ。
星矢が懸念した通り、それは不注意が生んだ過失ではなかったらしい。
身体を小さく縮こまらせ、顔を俯かせたまま、くぐもった声で瞬が星矢に答えてくる。

「思い出したくて……。死にかけたら思い出せるかと思ったの。思い出して、氷河に――氷河の瞬様ならきっと、氷河がどうすればいいのか、正しい答えをあげられると思ったんだ」
「私のため……?」
瞬が凍死しかけた理由を知らされた氷河が、その瞳を大きく見開く。
彼は、自分の存在が 瞬の命を危険にさらす原因になったという事実に激しい衝撃を受けることになったらしく――しばらくは 言葉を発することもなく、頬を蒼白にして、力なく項垂れている瞬の姿を その視界に映していた。
やがて、身の置きどころをなくしたように小さくなって椅子に掛けている瞬の前に膝をつき、その手を取る。

「瞬様が私に何とおっしゃるかは わかっています。『自由になって、幸せになって』。瞬様は、最期に私に そうおっしゃった。すべては私の我儘です。私は瞬様の お側にいたかった。私は 自由になど なりたくなかったのです」
「氷河……」
「申し訳ありません。私は……私は、瞬様の御前から消えます。私は、こんなことをさせるために 瞬様をお捜し申しあげたのではありません。ご迷惑をおかけいたしました」
たとえ瞬が死ぬようなことがあっても決して側を離れたりはしない――そのまま石になっても、瞬の側から動かない――。
忠犬ハチ公の愚直と健気を体現しているようだった氷河が、そう言って立ち上がり、瞬に背を向ける。
「あ……」
瞬は、俯かせていた顔をあげ、そんな氷河のあとを追った。――視線だけで。
瞬は、『行かないで』と言いたいのだろう。
唇は そう動いているのに、だが、声にできずにいる――。

瞬に背を向け歩き出した氷河には見ることのできない瞬の表情、所作、感情が、星矢には見てとれていた。
瞬は氷河に離れていってほしくないのだ。
ただ 自分が 氷河の負担になり、彼の生の妨げになるわけにはいかないと思っているだけで。
それがわかりさえすれば、星矢は、氷河が瞬の側にいることに特段の不満もなかった。
むしろ、瞬のために、氷河には ここにいてもらわなければならない。
瞬が意気消沈し 元気を失ってしまったら、なにしろ星矢の おやつと弁当が風前の灯になってしまう。
星矢は、その事態だけは避けたかったのである。
だから――星矢は、瞬の前から姿を消そうとしている氷河を引き止めた。

「氷河、あのさー……。瞬は――瞬様じゃないぞ、瞬は――おまえがいるのが迷惑なわけじゃないんだよ。瞬は、おまえが好きで、おまえに幸せになってもらいたいから、こんな無茶したの。瞬は――瞬様じゃなく瞬は、おまえを好きなんだよ」
当事者でないからこそ言えることを、星矢は 当事者に代わって口にした。
「星矢!」
言いたくても言えずにいたことを、代わりに言ってもらえたというのに、瞬が真っ青になって、星矢の勝手な先駆をやめさせようとする。
もちろん、星矢はやめなかった。

「おまえがいなくなったら、きっと瞬は毎日 泣き暮らすことになる。おまえ、瞬様じゃなく、瞬を好きになれねーのか? 瞬様の家来としてじゃなく、対等な一人の人間としてさ。それが正しい生き方だろ? おまえはもう、戦国時代の武士じゃないんだ」
「星矢、やめて!」
「でも、瞬、そうなんだろ? おまえ、氷河が側にいた方がいいんだろ?」
それが自分の望みなら、その望みを叶えるために努力した方がいい。
諦めることは、自分にできることを すべてしてからでも遅くはない・・・・・のだ。

瞬は、一見しただけなら華奢で ひ弱にも見える姿の持ち主だが、自分の夢を叶えるための努力をすることはできる人間である。
決して 弱い人間ではない。
瞬の気弱が、星矢にはむしろ 奇異に感じられた。
その理由を、瞬が小さな声で――それこそ気弱に知らせてくる。
「僕は多分……氷河の瞬様でなかったら、氷河にとって、何の取りえもない ただの詰まらない子供なんだ……」
「へ?」

星矢にはそれは、実に思いがけない意見だったのである。
幼馴染みの贔屓目を抜きにしても、星矢は瞬を 取りえのない人間と思ったことはなく――逆に瞬は 取りえだらけの人間だと、星矢は思っていた。
姿も心根も――強さも優しさも――瞬は誰よりも上質のものを備えている。
星矢は、そう思っていたのだ。
とはいえ、こればかりは氷河自身でなければわからないこと。
だから、星矢は氷河に訊いたのである。
「そうなのか?」
と。

一瞬の間をおいて、氷河は その首を横に振った。
「私が瞬様を お慕いするようになったのは、瞬様がお優しくて――身分に囚われず、誰にでもお優しい方だったからです。瞬様は、戦で親を失った 汚らしい恰好をした農民の子供のためにも涙を流されるような お方だった。主筋だからではない。私が母を病で亡くした時には、瞬様は私よりも 多くの涙を流してくださった。小さくて、可愛くて、強くて、優しくて――主君だからではなかった」
「おまえの瞬様、今の瞬と どこも変わらないじゃん」
氷河の言葉に安心して、星矢が笑顔になる。
星矢に つられたわけではないだろうが、氷河は――氷河も――その目許に微笑を刻んだ。
「ああ。どこも変わらない。俺は――俺こそが、主従の絆がなければ 瞬様は俺を受け入れてくれないのだと思い込んでいた。だが――」

言いかけた言葉を、氷河は一度 途切らせた。
おそらく、自分を、瞬様ではない瞬を愛する現代人の氷河に切り替えるために。
大きく深呼吸をし、瞬様ではなく瞬に、手を差しのべる。
そうして、ひどく緊張した面持ちで、氷河は瞬に告げた。
「小さくて、可愛くて、強く優しい瞬。わた……俺はおまえが好きだ。俺はずっと おまえの側にいたい。そうすることを許していただき――許してくれ」
「氷河……」
望んでいた言葉を手に入れて、これほど嬉しいことはないのだろうに、氷河の顔を見上げた瞬の瞳から涙が ぽろぽろと幾粒も転がり落ちる。
縦にとも横にともなく首を振って、瞬は切なげに氷河に訴えた。

「僕は……僕は思い出せない。でも、氷河の瞬様も、きっと氷河を大好きだったよ。思い出せなくても、僕にはわかる。だから、氷河の瞬様は、氷河に 穏やかに幸せに生きてほしいと願った。本当は 二人でそうできたらよかったんだけど、それは叶わぬことだったから、せめて氷河には……氷河だけはって」
「はい。二人で夢を叶えましょう。そして、その夢を守りましょう」
今は、恋が身分や立場の違いに隔てられることのない平和の時。
瞬は、瞬時 ためらってから――というより、小さな遠慮を見せてから、だが、しっかりと力を込めて氷河の手を取った。

その瞬間、星矢は胸中で快哉を叫んだのである。
瞬様の家来の氷河が 瞬様と結ばれたのではなく、現代人の氷河が “様”抜きの瞬と結ばれたのであれば、この養護施設は、雨漏り修繕費を確保したも同然、子供たち(含む星矢)の おやつ代アップも期待できるというものなのだ。
経済的富潤が 必ずしも人を幸福にするとは限らないだろうが、育ち盛りの子供たち(含む星矢)の おやつ代は多い方がいいに決まっている。
氷河と瞬の恋が実るということは、氷河と瞬だけでなく、施設運営のための予算確保に汲々としているスズキ司祭にも、おやつ代が増えるに違いない子供たち(含む星矢)にも 幸福がもたらされるということ。
これほど めでたいことはない。

今の星矢の懸念は、せいぜい、
「あ、氷河。一つ 忠告しといてやるけど、瞬には 瞬を溺愛してる兄貴が一人いるからな。いつも ふらふらしてるけど、たまに ここに帰ってくる。おまえのこと知ったら、怒髪天を衝くことになるだろうから、それだけは覚悟しとけよ」
ということくらいのものだった。
「なに……?」
瞬の兄の存在を知らされた氷河が突然、幸せいっぱい夢いっぱい状態の表情を一変させ、悪鬼のように眉を吊りあげる。
そうして彼は、幸せいっぱい夢いっぱい状態だった声を一変させ、親の仇を語るように憎々しげな声音で、
「あいつが――いや、一輝殿がいるのか」
と、低く吠えるように呟いた。

「へ?」
確か、大聖寺城主・山口宗永には 名の残っている嫡男次男の他に妾腹の息子が複数人いたという話だった。
もしかすると、400年前の瞬様にも兄が一人いた――のだろうか。
そして、その兄は、異様なほど弟を溺愛する兄だった――のだろうか。
その件を氷河に確認しようとしたのだが、あいにく星矢は そうすることができなかった。
星矢が その確認を入れる前に、氷河は一人で勝手に派手に燃え上がってしまっていたのだ。

「身分など……いや、身分の違いなんか、もうない。あいつには二度と 俺と瞬さ……瞬の邪魔はさせない……!」
“瞬様”ではなく瞬と共に生きていく決意を為したとはいえ、それでもまだ氷河には どこかに元の身分からくる遠慮のようなものがあったのかもしれない。
だが、その遠慮は、瞬の兄の存在を知らされた途端、氷河の中から綺麗さっぱり消滅してしまったようだった。
おそらく、氷河は前世において、瞬様の側にいたいという望みを 瞬の兄に邪魔され続けていたのだろう。
そして、だが、主筋である瞬の兄の妨害に、彼は黙って 耐えるしかなかったのだ。

「主筋も家来筋も――今は身分なんてない世の中だから、遠慮はいらねーと思うぜ」
「主筋? 家来筋? 身分なんて、そんなもの、くそ食らえだ!」
氷河は完全に現代人に戻っていた。
もっと早くに 一輝の名を出しておけば、瞬の兄への対抗意識から、氷河は より積極的、より大胆、より迅速に瞬に迫り、氷河と瞬の恋は 変な回り道などせず とうの昔に大団円を迎えていたのかもしれない。
「ははははは」
今になって気付いても詮無いことに 今になって気付き、星矢は空しい笑い声を その場に響かせることになったのだった。


すべての人間は生まれながらにして平等であり、人種、信条、性別、社会的身分 又は門地により、政治的、経済的 又は社会的関係において、差別されることはない。
「身分制度をなくし、平等主義を打ちたてた人類の英知には感動するばかりだ。素晴らしい」
急に異様なまでに張り切り出した氷河は、戦国の時代には そもそも戦うことさえ許されなかった瞬の兄との決着をつける気 満々のようだった。
平等主義の実現は、平和主義の実現との間に、全く相関関係がないらしい。
そして、氷河と瞬の恋は、彼等の友人に、経済的富潤だけでなく、おやつパン喧嘩サーカスを提供してくれるらしい。
なかなか愉快なことになりそうだと、星矢の心は明るく弾んだ。






Fin.






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