城戸邸に帰ってきた氷河の顔が不機嫌を極めていたのは、気が狂ったような情け容赦のない真夏の真昼の太陽と暑さのせいではなかっただろう。 彼は その気になれば、いつでも自身の小宇宙で自分の周囲に冬を生むことができるのだから。 ラウンジの壁に掛けられているヤコブ・イェンセンの時計は1時半を示し、今日という日に まもなく一日の中で最も暑い時が到来することを、アテナの聖闘士たちに知らせてくれていた。 「おまえが 出掛けていったのが11時だったから、2時間半か。今回は結構 もった方じゃないか? 結果は あんまり芳しいもんじゃなかったみたいだけど」 ラウンジの大きな窓を背にして立っている星矢は、中身の凍った2リットルのスポーツドリンクのペットボトルを手にしている。 空調の利いた城戸邸内では それがなかなか飲める状態になってくれず、星矢は先程から 固体を液体にするために2キロのペットボトルを ぶんぶんと勢いよく振り回して、アテナの聖闘士には肩慣らしにもならないウエイト・トレーニングに いそしんでいた。 紫龍は、真夏に空調の利いた部屋で熱い烏龍茶を飲むという贅沢を実践中。 テーブルに置かれた湯呑みと急須から漂う お茶の香りが、室内を包んでいる。 「しかし、氷河は 今日は自分の足ではなく、電車か車で行ったんだろう? 待ち合わせはC区のM・Oホテルのロビー。城戸邸からだと40分、往復で80分。二人でいた時間は 正味1時間。それで もった方だと言えるのか」 「うーん。そう言われると……それって、やっぱ、デートの時間としては短すぎるのか?」 標準的なカップルの標準的なデート所要時間を知らない星矢としては、そんな あやふやなコメントを出すのが精一杯。 本音を言えば、強い敵さんに会えるわけでもないのに、この暑い中、湿気の多い日本の夏の中に飛び込んでいく氷河の酔狂に、星矢は半ば呆れ、半ば感心していたのだった。 氷河の今日の外出は、いわゆるデートのため。 沙織のボディガードとして同行したパーティで、氷河の姿を見掛けた女性から 沙織経由で『ぜひ お会いしたい』と申し出があり、氷河は その申し出に応じたのである。 同じパターンで、彼は既に5、6人の女性とデートなるものをしていた。 沙織は、『嫌なら断っていいのよ』という但し書き付きで彼女等の申し出を氷河に伝えてくるのだが、氷河は 毎回 意外にも あっさりと許諾の返事をし、その作業に精勤していた。 氷河が 見ず知らずの一般女性からの申し出に応じることを“意外”と感じるのは、もちろん星矢の主観に過ぎない。 彼が勝手に、氷河はそんな面倒なことは嫌いだろうと思い込んでいただけのことである。 あとで紫龍に『そういう申し出は好意を抱いた相手に対して為されるものだし、大抵の男は女性からのアプローチを受けたら、喜ぶものなのではないか』と言われ、星矢は氷河の行為を“意外”と感じる自分の方が一般的ではないのかと悩むことになったのだった。 ほんの1、2分の間だけ。 今では星矢は、自分が“意外”と感じているのは、氷河が女性からの申し出に応じることではなく、氷河が“大抵の男”と同じことをしている状況なのだと思うようになっていた。 「で? 今日の相手は、どこの社長令嬢だったんだよ?」 「社長令嬢じゃない。母親が何とかという映画の衣装デザインで一躍有名になったファッション・デザイナー、父親もファッション関係の雑誌やカタログを主力にしている某出版社の専務取締役――だったかな。とりあえず、ランチを一緒に――ということだったんだが……」 「昼飯食って、『はい、さよなら』してきたのかよ」 言いながら、星矢は、ラウンジのドアの前に立つ氷河の姿を見やりながら、『はい、さよなら』は氷河が言い出したのか、デートの相手の方が言い出したのかを考え始めた。 今日の氷河の恰好は、白いワイシャツとダークグレイのパンツという、ごく普通のもの――普通すぎるほど普通のもの。 氷河は、無駄に顔の作りが派手なため、それくらいでないと目立ちすぎるのだ――それだけ地味にしても十分に目立ってしまっている。 その ごく普通の恰好は氷河にとってベストではないがベターなもの――と星矢は思っていたのだが、相手がファッションにうるさい家庭に育った人物となると、氷河の普通の恰好が デートの相手の眼鏡に適わなかったというパターンも考えられる。 はたして『はい、さよなら』を告げたのは、これまで通り 相手の些細な欠点も容認できない氷河の方か、氷河の普通恰好に我慢できなかったファッションにうるさい相手の方か。 答えは まもなく、尖り声での氷河の報告によって判明した。 「ランチ自体は30分もかけずに食い終わったんだ。食後のコーヒーになったら突然、あの女、『次はディナーを一緒に』とか何とか言いながらテーブルの上にパソコンを持ち出して、いつのまに手に入れていたのか俺の画像データを使って、スーツ着せ替えゲームを始めやがった。次に会う時までに仕立てて送り届けるから、それを着てこいとか何とか、俺の都合も考えずに勝手に話を進めやがって――」 「それはまた、随分と変わった趣向のデートだな。ユニークな経験ができてよかったじゃないか」 ゆったりした所作で 二煎目のお茶をいれている紫龍には、いきりたつ氷河を なだめようとか静めようとか、そんな意図は全くない。 言いたいことを すべて吐き出さないと気が済まない氷河の性格を知っている紫龍は、自身の平静を示すことで、氷河に 速やかな鬱憤の放出と その完了を煽っているのだ。 仲間の好意(?)に、氷河は有難く乗ってきた。 「自分好みの服を着せようとするような女と付き合う気はない。ろくなことにならないのが目に見えているからな。ディスプレイの中の俺が モナリザの絵がプリントされたスーツを着せられたところで、とっとと逃げてきたんだ。あの女とは 趣味も合わん」 モナリザの絵がフロントにプリントされていたのかバックにプリントされていたのかは知らないが、確かに斬新なデザインではある。 モナリザほどに存在感があれば、氷河の派手な顔の造作も かすむかもしれない。 そんなことを、星矢は 無責任に考えた。 「メンズのデザイナー志望かー。夢があっていいじゃん。食事のテーブルにパソコンを持ち出すのはマナー違反だろうけど、そのデザイナー志望のねーちゃん、自分の夢を実現するために努力邁進してるんだろ。何か問題でもあんのか? 微笑ましいくらいじゃないか。少なくとも、とっとと逃げ帰るようなことじゃない」 「夢を持っていることが悪いとは言わん。人様に迷惑をかけさえしなければ」 「迷惑、かけてないじゃん。おまえにしか」 「俺は“人様”ではないとでもいうつもりか」 光速とまではいかないが 軽く音速を超える速さでペットボトルを振り回している星矢を、氷河がじろりと下目使いに睨みつけてくる。 せっかく融けつつある飲み物を再び凍らされてはたまらない。 星矢は 慌てて話を逸らした。 「ああ、でも、ほら、この前のコよりいいじゃん。確か、『はい』しか言わない超面食いだったよな」 氷河の報告という名の不満ぶちまけでは、氷河の前回のデートの相手は、会話の成立しない家事手伝い(=花嫁修業)従事者だったと、星矢は記憶していた。 待ち合わせは、和風モダンで有名な都内某ホテルのティーラウンジ。 場所を指定してきたのは、某々大学病院第一外科教授の夫人だという母親で、沙織からのリークでは、その場所で会うことになったのも、当人の希望ではなく、月に1回 そのホテルで学内の教授夫人たちの親睦会を催している母親が勝手に決めたらしい。 今では珍しい三従――家にあっては父(母)に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う――を地でいく、従順で おしとやかな お嬢様という触れ込みだった。 その三従の彼女との やりとりは、 「何か話したいことはないのか」 「はい」 「普段、どう過ごしているんだ」 「はい」 「趣味はないのか」 「はい」 「貴様は『はい』以外の言葉を知らないのか」 「はい」 ――といった ありさまで、彼女は、最初から最後まで 本当に『はい』しか言わず、ひたすらうっとりと氷河の顔を見ていたらしい。 それはそれで大物だと、星矢などは思ったのだが、氷河は、 「せめて『いいえ』も言えないと、人間とはいえない。俺は、どうせ付き合うなら人間と付き合いたい」 と言って、二度目以降のデートを断固 拒絶したのだった。 氷河が思い出したくないものを思い出してしまった人間の うんざり顔で、それでも律儀に 星矢の言に訂正を入れてくる。 「それは前の前だ。前のは、A重工業CEO令嬢とかいう、見せびらかしたがりの女子大生」 「ああ。おまえを連れて、呼ばれてもいない合コンに飛び入り参加したっていう」 言われて、星矢は思い出した。 A重工業CEO令嬢が通っている女子大のテニス部と、他の共学大学のテニス部の交流会――要するに合コン開催日。 A重工業CEO令嬢が 氷河とのデートをその日に指定したのは、その合コンに氷河を伴って乱入し、友人たちに勝ち誇ってみせるためだったらしい。 「安っぽいイタリアン居酒屋とかいう店に連れていかれた時に、変だと思ったんだ。長テーブルに男女の学生がずらり。ほとんどが親のスネをかじって大学で遊ばせてもらっているらしい腑抜けたツラの奴ばかりだったが、中には意外に本気で出会いを求めていた奴もいたかもしれないのに、そういう奴等を嘲笑う嫌な女だった。しかも、この俺をアクセサリー扱いしやがって」 「おまえをアクセサリー代わりにするなんて、そりゃ、確かに趣味わりーよなー」 「沙織さん経由での紹介でなかったら、俺はあの女を殴って店を飛び出ていたぞ」 「あれ? 殴って飛び出したんじゃなかったっけ?」 「一般人にそんなことをするか。得意顔で俺を 今の彼氏だとか言いやがるから、こんなブスを彼女にした覚えはないと真実を告げて、静かに辞去しただけだ」 それはもしかすると、A重工業CEO令嬢には、人前で殴られるより屈辱的なことだったのではないか。 そう思わないでもないのだが、不思議と星矢の中には令嬢への同情心は湧いてこなかった。 代わりに、深い溜め息が一つ生まれてくる。 |