「氷河の奴、正気かよ。完璧な恋なんて、あいつ、変な女にばっかり会うんで、やけになったんじゃねーか」
言いたいことを我慢して言わずにいたのではないのだが、星矢は言いたいことを全部 言えていたわけでもなかった。
ラウンジのドアが閉まったことを確認するや、星矢は、彼がまだ言えていなかったことを、声のボリュームを落とすことなく、仲間たちの前で吐き出したのである。
瞬が、困ったように軽く肩をすくめる。
「そんな……氷河は、やけになって あんなことを言い出したんじゃないと思うけど」
「やけになってるんでなかったら何だよ。正気で“完璧な恋”なんて言ってるなら、そっちの方が危ねーだろ」

次から次に現れる、良家の令嬢という名の変人たち。
彼女等は、氷河だけでなく、大抵の人間を やけにする力を持つ逸材だと、星矢は思っていた。
それならば、突然“完璧な恋”などという突拍子のないことを言い出した氷河の乱心も理解できないでもない――と。
だが、瞬は 星矢とは全く違う考えでいたらしい。
瞬は少し悲しげに、そして 多分に切なげに、首を左右に振った。

「氷河は……マーマと一緒に暮らしていた頃のことを、今でも忘れられずにいるんじゃないかな。氷河は、マーマを失うまでは、愛している人に愛されて、信じている人に信じられている、本当に幸せな子供だったんだと思う。だから、マーマみたいに綺麗で優しい人に出会って、その人と、自分が いちばん幸せだった頃と同じ気持ちや感覚を取り戻せたらいいと思ってるんだよ、きっと。氷河は幸せになりたいの。ごく普通で 当たりまえのことだよ」
「じゃあ、氷河のあれは結局 マザコンの延長かよ。あいつのマザコンは不治の病だな」

瞬の推察は、確かに、『マーマ以外の女性が、氷河の心に変化をもたらしたのだ』と言われるよりも はるかに納得しやすい説明になっていた。
今 氷河を 徒労に終わることが目に見えている奇怪な行動に走らせているのは、彼の母親。
すべての原因は、“氷河のマーマ”なのだという説明は単純明快で、氷河の価値観に照らし合わせてみても、極めて理解しやすい。
実際 星矢は納得した気になったのである。
「そういう意味じゃなくて……だから、氷河の恋を温かく見守っていてあげようって――」
氷河を不治の病の罹患者にするために そんな推察を為したのではなかったらしい瞬が、身も蓋もない星矢の要約への反論に及ぼうとした、その時。
今は厨房で飲み物の用意をしているはずの氷河が、なぜか ふいにラウンジのドアを開け、仲間たちの前に姿を現わした。

瞬が びくりと身体を震わせたのは、氷河をマザコンと決めつける勝手な憶測を 彼に聞かれてしまったのではないかと、それを案じたからだったろう。
氷河をマザコンと決めつけたのはアンドロメダ座の聖闘士ではなく天馬座の聖闘士だったので――星矢は、氷河に瞬を責めさせないために、氷河の手ぶらを責めることになった。
「なんだよ。俺のスポーツドリンクは?」
「いや、考えてみれば、その冷えていないスポーツドリンクとやらがどこにあるのかを、俺は知らなかった」
氷河は決して仲間たちの話を盗み聞くためにラウンジに取って返してきたのではなかったらしい。
氷河が そんな機転の利く男ではないことは 元より承知していたのだが、機転が利く利かない以前に、氷河の振舞いは間抜けである。
どこにあるのか わからないものを取りに行ったという氷河の前で、星矢は大きな嘆息を洩らすことになったのだった。

「使えない男だな、おまえ、つくづく」
「やっぱり、飲み物は 僕が用意するよ。氷河はアイスコーヒーでいい?」
氷河のマザコンをマザコンと思わない瞬は、氷河の間抜け振りも 間抜けな行為とは思わないのだろう。
その仕事を氷河に任せた自分の判断が間違っていたのだと考えたらしい瞬は、慌てて掛けていたソファから立ち上がり、逃げるように――氷河と入れ替わりに――ラウンジを出ていった。






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