「瞬……」 氷河に名を呼ばれ、瞬は はっと我にかえった。 アテナの聖闘士だけが取り残された、海の底の戦場。 今 瞬の心と意識を捉えているのは、自分たちが命拾いをしたという事実ではなく、なぜテティスとの約束が実現しなかったのかということだった。 「テティスは……僕の偽りが 人に知れたら、僕が恋する人は 僕のことを忘れると言ったんだ。なのに どうして、氷河は僕のことを忘れてくれないの。僕は――僕は 氷河を好きなんじゃなかったの?」 「そんなことがあるか。おまえは もちろん、俺を好きなのに決まっている」 氷河がそう言うなら、そうなのだろう。 「でも、だったら なぜ……」 では なぜ氷河はアンドロメダの聖闘士のことを忘れなかったのか。 まさか テティスとの約束に時効があったわけではあるまい。 合点がいかず、瞬は 力なく首を二度三度 横に振った。 そんな瞬を、見詰め 見おろし、氷河が言う。 「アテナの聖闘士の聖衣には、少なからずアテナの力が及んでいるのではないか? アテナの力を騙ったり支配したりすることは、たとえ神であってもできることではないだろう。おまえはきっと、あのテティスという女に騙されたんだ。おまえには、あの女の力に頼らなくても聖闘士になれるだけの力があって、事実、自分の力でアテナの聖闘士になった。あの女は、いずれ ポセイドンとアテナの戦いが始まることを見越していて、アテナの聖闘士に揺さぶりをかけるために、おまえを偽ったんだろう」 「え……」 そんなことがあるのだろうか。 テティスと瞬が約束を交わしたのは、今から5、6年も前のこと。 そんなにも早い時期に、テティスは、アテナの聖闘士に瑕疵を作り、弱みを握り、その弱みに付け入ることで ポセイドンの力になろうとしていたのだろうか。 だとしても――もし アンドロメダ座の聖闘士が彼女に騙されていたのだとしても、だからといって 自分の罪、自分の偽りが消え 許されるとは、瞬には思うことができなかった。 「平和のため、兄さんとの約束を守るため――どんな綺麗事を言っても、僕が卑劣だったことに変わりはない。僕は――僕はただ 死にたくなかったんだ。自分が生きているために、僕はテティスと卑怯な約束を交わした。交わしちゃいけない約束を交わした。僕はいつだって、自分の命が惜しくて……あさましい卑怯者なんだ」 『だから、僕には、氷河に恋される価値はない』 瞬は、その言葉を再度 氷河に告げる気にはなれなかった。 それは 言葉にするのも つらい事実だったし、わざわざ改めて言葉にしなくても、おそらく氷河は そんなことは既に承知している。 力なく項垂れた瞬に氷河が与えてくれたものは、だが、厳しい非難や憤りではなく、むしろ慰撫の響きの強い──否、慰撫そのものだった。 「おまえは、俺を救うために 死ぬ覚悟をしてくれたじゃないか。天秤宮で」 「あれは──あれは死ぬ覚悟をしたんじゃないよ。僕は ただ、氷河に生きていてほしかっただけ」 「今も? 俺に生きていてほしかったから、人魚の魔法の力で聖闘士になったなんて、馬鹿げた告白をしたのか」 『俺に生きていてほしかったから、あんなことをしたのか』と問われれば、『そうだ』と答えるしかない。 氷河に頷くために、瞬は、俯かせていた顔を更に深く伏せることになった。 「そうだね。天秤宮の時と同じ……ううん、戦場では いつも同じ。僕は氷河に死んでほしくなかったんだ。氷河が僕を忘れれば、僕を庇うのをやめてくれると思った……」 「それが おまえの偽りない気持ちなのなら、俺には おまえを卑怯者と思う理由はないし、おまえを一層好きになりこそすれ、おまえを無価値と思ったり 嫌ったりすることもないな」 「氷河……!」 これはそういう問題ではないのだと―― 一人の無力な人間が、自分の力以外の力に頼って アテナの聖闘士になろうとしたことが、決して許されない卑劣なのだと、瞬は氷河に訴えようとした。 そのために、伏せていた顔をあげた。 まるで その時を待っていたかのように、氷河が瞬の視線を捉え、微笑み、言う。 「俺はおまえが好きだ」 「あ……」 ここは戦場で、アテナの聖闘士の戦いはまだ終わっておらず、アンドロメダ座の聖闘士が卑劣なことも 変え難い事実だというのに──自分に 好きだと告げる氷河の表情が、瞳が、どんな翳りも帯びておらず、ただ晴れやかなばかりなので──瞬は、彼に何も言い返せなくなった。 それが──氷河がまるで自分を責めてくれないことが、瞬は かえって 苦しく切なかったのである。 氷河は あくまでも、晴れ渡り 済みきった空の明るさを その瞳の上から消し去ろうとはしなかったが。 「そんな切なそうな顔をするな。いったい 何が問題なんだ。おまえは、人魚の魔法とやらに頼らなくても生き延びることができた。おまえは 自分の力で聖闘士になった。つらい修行にも耐えたし、そのために努力もしたんだろう?」 「それは そうだけど……でも……」 「すべては、あの女の策略だったんだろう。おまえは本当は自分の力で聖闘士になったのに、そうではないと おまえに誤解させておく。そうすることで、本当は おまえ自身が苦労して手に入れた命や聖衣を、 他人から ぽんと与えられた拾い物同然のものにすぎないと、おまえに思わせる。そうして、いざ戦いが始まった時、おまえにそれを簡単に手放させようとした。まあ、そんなところだろうな」 氷河の言う通り、“そんなところ”だったのかもしれない。 いつになく饒舌な氷河の言葉には、説得力があった――納得できるものだった。 テティスがどれほど不思議な力を持っていたとしても、それがアテナの力に勝るはずがない。 アテナの聖闘士の聖衣を、テティスがどうこうできるはずがないのだ。 それがわかっていながら 幼い瞬を騙したというのなら、テティスは恐ろしく狡猾な女性だということになる。 ――すべては恋のために。 そして、今 氷河が、平生の彼からは想像もできないほど饒舌なのも、もしかしたら恋のためなのかもしれなかった。 自身の恋を実らせるため、恋した人を手に入れるため、彼が恋した人の心を守るため――。 「あの女が おまえを騙したのは、まず間違いない。あの女の言うことが事実なら、今頃 俺はおまえを忘れているはずなんだろう? だが、俺は忘れていない。俺はおまえの恋人なのに」 そう言えることが嬉しくてならないというように、氷河の声は弾んでいた。 瞬とて、こんなに嬉しそうにしている氷河の心に水を差すようなことはしたくなかったのである。 だが、氷河が許し、仲間たちが許し、アテナが許しても、瞬は自分を許すことができそうになかった。 「でも、僕は――」 僕は自分を許せない。 自分の弱さ、卑劣を許せない――。 瞬は、そう言おうとしたのである。 だが、瞬は、そう言ってしまうことができなかった。 瞬がそう言おうとしていることを察したらしい氷河が、ふいに浮かれた表情を消し去って、 「もし 人魚の魔法の力とやらで おまえが聖闘士になったのだとしても、幼い頃の おまえが心弱く非力な子供だったのだとしても、おまえが生きていてくれて、俺は嬉しいぞ。俺は、ガキの頃から、泣き虫で優しい おまえが大好きだったんだから」 そう訴えてきたせいで。 「氷河……」 『だから、何の得にもならない意地を張って 俺を悲しませないでくれ』と、氷河は言っている。 瞬は、それで何も言えなくなってしまったのである。 自分が いかに卑劣な人間であるのかを力説し、氷河に その事実を認めさせても、それで益を得るのはアンドロメダ座の聖闘士ひとりだけ。 それで気が済むのは、すっきりした気持ちになれるのは、瞬ひとりきり。 それは、氷河を悲しませ、苦しませ、彼の幸福を阻害するだけの行為にすぎないのだ。 そんなことをするくらいなら、自分が卑怯者になる方が ずっとましだと、瞬は思った。 そして、もしかしたら、あの時のテティスも 今の自分と同じ気持ちだったのではないかと、瞬は思うともなく思ったのである。 これは悪いことだと――良くないことだとわかっていても、恋する人の幸福のためになら、我が身に罪を負うことなど何だというのか。 他の誰が傷付いても構わない。愛する人の望みが叶うなら――。 テティスの心が切なくて――彼女が本当にアテナの聖闘士を騙し陥れようとしたのだとしても、瞬は彼女を責める気にはなれなかった。 今 瞬は、彼女と同じ気持ちでいたから。 氷河の瞳を曇らせないためになら、自分が卑怯者になることくらい何だというのだ――。 「氷河……」 「だから、俺のために生きてくれ」 氷河に そう言われてしまったら、瞬は頷くしかなかったのである。 頷くしかないアンドロメダ座の聖闘士の気持ちを、テティスならわかってくれるだろう。 そして、ポセイドンを倒すしかないアンドロメダ座の聖闘士の気持ちも、テティスならわかってくれるだろう――わかってしまうだろう。 だから、瞬は アテナの聖闘士として戦うことを再び決意して、 「続きは、アテナを救い出し、平和を取り戻してから」 と告げる氷河に頷いたのである。 「うん……」 地上の平和を守り、アテナの命を救うため――。 アテナの聖闘士たちとポセイドンの戦いは、まだ始まったばかりだった。 Fin.
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