『おっかえりー』と、いつもの星矢なら景気のいい声を張り上げる場面である。
しかし、今ばかりは、さすがの星矢も 能天気に明るい声で、瞬の帰還を歓迎することはできなかった。
そうする代わりに、おそらくは傷心ではなく小心のせいで何も言えずにいる氷河の代理で、瞬に探りを入れてみる。
「あー……意外と早かったな。マリちゃんミキちゃんは美人だったか?」
「え? あ、うん。鈴木さんも田中さんもとっても熱心で意欲的だったよ。明日、また会うことになったんだ。お勤め先のNPO法人で、ちょうど大きなイベントの仕事が終わったばかりで、まとめてお休みをもらえたところなんだって。今のうちに できるだけ企画を練っておこうって」
「……」

瞬のその答えを聞いて、日本語に『嘘の上塗り』という言い回しはあったろうかと、星矢は思ったのである。
瞬は――“地上で最も清らかな魂の持ち主”である瞬が――嘘を嘘で塗り固めようとしている。
それも、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間たちの前で、堂々と。
これには、さすがの氷河も爆発するのではないかと、星矢と紫龍は はらはらしながら 氷河の様子を窺うことになったのである。
だが、氷河は、瞬の“嘘の上塗り”に ますます落ち込んでいくばかりだった。

「氷河、どうしたの? 何かあったの?」
仲間たちを包む空気が いつもと違うことに、瞬も気付いたらしい。
いつもなら、一人で外出した瞬が帰ってきた時には、外出先で何があったのか、誰と どんな話をしてきたのか、根掘り葉掘り訊いてくる氷河が、今日に限って何も訊いてこないのだ。
瞬が、この状況を奇異に思わなかったなら、その方がおかしい。
瞬は、氷河の態度を訝り、彼に心配顔を向けた。

気遣わしげに瞬に見詰められても、氷河は何も言わなかった。
何を言うこともできなかったのだろう。
嘘をついたのは瞬でも、瞬に嘘をつかせたのは自分なのだと思えば。
恥と良識を有する人間であるならば。
が、恥を知り、良識を備え、それゆえ言いたいことも言えずにいる氷河の姿など、星矢は見たくなかったのである。
そのまま傍観者でい続けることもできず――星矢は氷河の代わりに口を開いた。
「氷河は、おまえが 嘘をついて男と会ってたことにショックを受けてるんだよ」
「僕が嘘? それって、どういうこと?」
「おい、瞬……」

星矢は、瞬の反問の意味がわからなかったのである――というより、信じられなかった。
この期に及んで、瞬は白を切るつもりでいるのだろうか。
瞬に嘘をつくことができた――という一事だけでも、星矢には驚愕に値することだった。
瞬は嘘のつき方など知らないものと、星矢は信じきっていたから。
今でも信じていただろう。
“フルーツ & スイーツの店”とやらで、二人の見知らぬ若い男と談笑している瞬の姿を、己が目で見ていなかったら。
だが、星矢の目には、その現場が、しっかり1時間分、消し去り難く明瞭かつ鮮明に焼きついていたのだ。

「これが嘘でなかったら、何が嘘だよ! マリちゃんミキちゃんなんて、あんな嘘のサイトまで捏造して!」
「いったい何のこと。サイト捏造なんて――どうして僕がそんなことするの」
「じゃあ、おまえは あの二人がマリちゃんとミキちゃんだったって言い張るのか? おまえと一緒のテーブルで、イチジクのタルトと 桃のパイと アンズのパフェと“夏フルーツの盛り合わせ”を食ってた にーちゃんたちが」
「え……」
そこまで言われて初めて、瞬は、今日のミーティング風景を星矢に見られてしまったことに気付いたらしい。
そして、場の空気が おかしい訳を理解したらしい。
一度 大きく瞳を見開き、瞬は 小さな溜め息を洩らした。
それから、観念した顔で“本当のこと”を語り始める。

「サイトは捏造なんかじゃないよ。あれは、お二人の本名なんだ。鈴木真里さんはスズキ マサトさん、田中美貴さんはタナカ ヨシタカさん。てっきり女性だと思ってたから、カフェで初めて会った時には 僕もびっくりしたんだよ。それで……氷河にほんとのことを言うと、きっと次から 氷河は僕たちのミーンティグについてこようとするでしょ。ほんとは 町内会の活動になんて興味ない氷河に、そんなことさせるのは悪いから、内緒にしておこうと思っただけで……」
「マ……マサトさんと ヨシタカさんーっ !? 」

鈴木真里と田中美貴。
スズキ マサト と タナカ ヨシタカ。
確かに、そう読めないことはない。
確かに、そう読める。
読めはするが――。
マサトくんとヨシタカくんの親は、自分の息子に どうして そんな紛らわしい名前をつけてくれたのだーっ !! と、星矢は叫んでしまいそうになったのである。
「け……けどさ! マリちゃんとミキちゃんが マサトくんとヨシタカくんだとしてもさ! 町内会の企画を立ててるにしては、異様に楽しそうだったぞ、あの二人。俺が見てる間ずっと、気持ち悪いくらい にやにやしてて――どう見たって、可愛い女の子と一緒だってんで 浮かれてる にーちゃんたちにしか見えなかった!」

たとえ あのサイトが捏造ではなく、マリちゃんミキちゃんの名が本名であったとしても、氷河が最も嫌うシチュエーションの中に 瞬が 我が身を置いていたことに変わりはない。
星矢が その点を指摘すると、瞬は僅かに眉をしかめ、心底から言いたくなさそうに、いかにも しぶしぶといった(てい)で、マリちゃんミキちゃんの事情を話し始めた。
「にやにやだなんて……。せめて、にこにこって言ってあげてよ。鈴木さんと田中さんは幼馴染みで、ケーキやパフェや――スイーツが大好きなんだって。でも、男性二人じゃ、そういうお店に入りにくいとかで……。お二人は、僕のこと女の子だと思ってて、町内会長さんから若手育成プロジェクトの企画が出た時に、スイーツのお店巡りしながらミーティングすることを思いついたんだって。女の子が一緒なら、男の人が二人でパフェを食べてても ケーキを食べてても あんまり不気味じゃないからって。鈴木さんが そう言ってた」

「男二人でケーキやパフェ?」
瞬に そう言われ、星矢は、1時間の長きに渡って しっかり観察していた二人の男の姿を、改めて脳裏に思い浮かべてみた。
何かスポーツをしているのか、比較的がっしりした体型の、どちらかといえば武骨な印象の強い顔立ちをした20代半ばの二人の男。
あの二人が、可愛いスイーツの店で、可愛い小さなテーブルに向かい合って着席し、可憐なケーキや 華やかに着飾ったパフェを嬉しそうに食している図は、確かに不気味である。
その図を不気味と感じるマリちゃんの感性は、実に真っ当。
マリちゃんは、自分自身を冷静かつ客観的に見ることのできる目を持った、極めて常識的な人間なのだろうと、星矢は思った。

「僕は、言ってみれば、お二人がカフェに入るためのダシ。ただの目くらましだよ。もちろん、町内会連合に提出する企画のことも真面目に話し合ったけど、ケーキ作り教室を開催するのはどうだろうとか、手芸講座を開いて 物作りの楽しさを知ってもらうのもいいだろうとか、お花を育てて心を和ませてもらうのもいいんじゃないかとか、僕には到底 思いつかない少女趣味な――ううん、繊細で典雅なアイデアが ぽんぽん出てきて――お花を贈って育ててもらうのは、僕もいいと思ったけど……」
「で……でも、おまえと氷河は、二人でケーキ屋でも甘味屋でも平気で入ってるじゃん」
こうなると、何のために向きになって そんなことを言い張っているのか、向きになっている星矢自身にもわからなくなってくる。
自分は、“フルーツ & スイーツの店”の前で過ごした衝撃の1時間を 無駄にしたくないだけなのではないかと、星矢は自身の言動を疑うことさえしていた。
「うん、お店にとっては、男性でも女性でも、同じ お客様なんだから、男性二人でカフェに入ったって、何の問題もないよね。鈴木さんも田中さんも そんなこと、気にしなきゃいいのに」
瞬は笑いながら そう言うが、公共の美観を守るために それだけはやめてほしい――というのが、星矢の本音だった。

ともあれ、事実はそういうことだったらしい。
瞬は氷河に嘘をついたわけではなく、マサトさんヨシタカさんではなく マリちゃんミキちゃんに会うつもりで“フルーツ & スイーツの店”に赴いた。
マサトさんヨシタカさんは 可愛い女の子とのデートを喜んでいたのではなく、公共の美観を気にすることなく好きなスイーツを思い切り食することのできる喜びに、終始にやにや――もとい、にこにこ――していたのだ。
事実は、ただ それだけ。
瞬の今日のスイーツ・ミーティングには、氷河が立腹しなければならないようなことも、落ち込まなければならないようなこともなかったのだ。

「じゃあ、おまえは、俺の束縛や干渉が嫌になったんじゃなかったのか?」
事実を知り、だが、それで あっさり以前の自信満々 かつ横暴な男に戻ることもできなかったらしい氷河が、恐る恐る 瞬に お伺いを立てる。
瞬は、すぐに はっきり大きく頷いた。
「そんなこと、あるはずないよ。氷河は、人を見る時に、何ていうか――外見や肩書に 全然 左右されないでしょ。だから、氷河の人を見る目は確かで……僕は ある意味、とっても助かってるよ」
「ま、おまえは、人を見る目がないもんな。おまえにかかったら、誰でも 滅茶苦茶いい人になっちまう。どんな ちゃらんぽらんも無責任野郎も」
星矢のコメントに、瞬は今度は少々 気まずげに頷いた。

「本当に悪い人なんていないと思うけど、町内会なんかの いろんな企画を滞りなく遂行するには、ある程度、誠意と責任感を備えている人が必要不可欠で、氷河が渋面を見せる人は、確実に信頼に足る人だから、僕も自信をもって町内会長さんに紹介できるんだ」
瞬は、氷河の焼きもちを適性検査に利用していると言っているも同然だったのだが、氷河はその事実に憤りを覚え様子は見せなかった。
むしろ、自分の焼きもちが瞬の役に立っていることが信じられないという顔で(自分の焼きもちが益のないことだという自覚は、氷河にもあったらしい)、疑念の色が消えていない目を瞬に向けている。
その疑念は、もしかしたら、瞬ではなく、氷河自身に向けられたものだったかもしれない。
昨日までの自信満々男は、今日はすっかり自信喪失男に変貌してしまっているのだ。
そんな氷河の瞳を見詰め、微笑し、瞬が言う。

「僕は 嘘をついて鈴木さんや田中さんに会いにいったわけじゃないし、お二人がスイーツ男子だったことを氷河に言わなかったのも、興味のないことに 氷河を付き合わせるのは悪いって思っただけだよ。一人暮らしの老人にプランターをプレゼントしようなんて話、氷河が楽しめるとは思えなかったから。でも、どうしても会いたい人がいたら、僕は氷河を引っ張って会いに行くし、お話もするよ。氷河が僕のこと心配してくれてることは わかってるし、僕、絶対に、氷河が干渉だの束縛だのしてるなんて思わないよ」
「本当か? 本当に おまえは俺を嫌っていないのか? 俺を鬱陶しいと思っては――」
「変なこと言わないで。僕は氷河が大好きだよ」
一瞬の ためらいも見せずに、瞬が即答する。
安堵で、氷河の緊張が解けたのが、二人を傍で見ている星矢と紫龍にもわかった。

「プランター……プランターか。うむ。植物を育てるのは、孤独な老人の心を癒すのに有効かもしれんな」
“興味のないこと”に 全く興味がないでもない振りをして そんなことを言う氷河の姿が痛々しい。
瞬は、しかし、自分の企画を有効と言ってもらえたことが嬉しいらしく、氷河の“無理”に気付いた様子も見せず、にこにこ顔である。
「氷河もそう思う? ペットを飼うのには色々面倒があるけど、植物なら、動物ほど世話も大変じゃないし、成長も楽しめるし、きっと生活に張りが出て、心も安らいで、お年寄りの方に限らず、いろんな立場の人が元気になってくれると思うんだ。お花のことが きっかけになって、近隣住民の間でコミュニケーションが生まれることがあるかもしれないし」
「うむ。それはいいことだ。会話のない生活ほど味気ないものはない。俺も以前は、人と話をするのが億劫で、人と関わり合いを持つと ろくなことにならないと思い込み、暇を見付けてはシベリアに帰っていたが、今はシベリアに一人でいると、すぐに おまえのところに帰りたくなる」
「氷河……」

もしかしたら、それは、氷河が 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間たちにも滅多に見せない弱さだったのかもしれない。
氷河の我儘や焼きもちや独占欲も、彼なりの事情と必要があってことだったのかもしれない。
瞬は、氷河の胸底深くにあるものを知っているから、彼の亭主関白気取りや独裁を許していたのかもしれない。
氷河による独裁と思われていたものは、実は 瞬による院政だったのかもしれない――。

星矢は、氷河と瞬のやりとりに、恋の真髄を垣間見たような気がしたのである。
恋愛の真実の姿は、見た目通りとは限らないもののようだった。






Fin.






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