「もう、僕は大丈夫です。ありがとう、瞬さん」 ごく短く、だが 万感の思いをこめて そう言って、アイドルが城戸邸を出ていったのは その翌日のことだった。 アイドルが城戸邸を去ってからも しばらくの間、瞬はアイドルの心を心配していたらしいが、沙織から 打ち続いて もたらされるアイドルの精力的な活動と成功の知らせに、瞬の不安は薄らぎ、やがては消えてしまったようだった。 コンサート等で、アイドルは、失意の時に心の支えになった歌だと言って 必ず『はるかな友に』を歌うようになったらしい。 彼のファンたちは 勝手に その歌の『おまえ』を自分たちのことだと解釈して感動し、『はるかな友に』は極めて好評。 試しにDL販売を開始してみたところ、あっというまにDL数が100万を越え、その実績に驚いたグラード・エンターティメントは、子守歌だけを集めた彼のCD発売を決定したという話だった。 「アイドルが子守歌かよ?」 訳のわからない展開に 呆れ顔で尋ねた星矢に、 「“アイドルらしくないアイドル”というのが、彼のコンセプトだから」 沙織が、しれっとした顔で頷く。 転んでも ただでは起きないグラード財団、グラード・エンターティメント、グラード財団総帥の たくましすぎる商魂に、善良なアテナの聖闘士たちは ただただ畏れ入ることしかできなかったのである。 静かな夜更けに思い出すのは、おまえ 明るい星の夜に思い出すのも、おまえ 寂しい雪の夜に思い出すのも、おまえ おまえが、今宵も 安らかな眠りに就けるように―― 静かな夜更けに、明るい星の夜に、寂しい雪の夜に、アイドルが思い出す人は、遠い世界にいる彼の母親なのか、おそらくは二度と会うことはないと決めた瞬その人なのか。 静かな夜更けに、明るい星の夜に、寂しい雪の夜に思う人が増えていくことが、人の人生というものなのかもしれなかった。 自分のためではなく 瞬のために、城戸邸を去ったアイドルの気持ちを思うと、星矢は なかなかに切なかったのである。 「静かな夜更けに氷河が思い出す“おまえ”はマーマ?」 「そうだな……。おまえとは離れられないから、おまえが俺の“はるかな友”になることは、もう二度とないな」 結局 しっかりと瞬を取り戻し、したり顔で そんなことを言っている氷河が憎らしく思えるほど。 「うん。僕たち、ずっと一緒にいようね」 瞬が 氷河のその言葉を喜んでいるのがわかるから、瞬のために、氷河に嫌味の一つでも言ってやりたいという気持ちを、星矢は あえて抑えた。 それに――恵まれすぎている氷河への憤りはさておいて、星矢の中にも、いつまでも仲間たちと共にありたいという気持ちはあったのである。 「そうそう、俺たち、ずっと一緒にいような!」 星矢の その切なる願いを、 「おまえは邪魔だ」 の一言で、氷河が切り捨てる。 「なんだよ、それ!」 完全に本気ではないだろうが、半ば以上本気なのだろう氷河の言い草に、星矢は 思い切り 口をとがらせることになったのである。 そんな星矢を紫龍がなだめ、瞬が氷河を たしなめる。 アテナの聖闘士たちにも いつか別れの時はくるだろう。 どれほど深く愛し合っている恋人同士でも、どれほど強い絆で結ばれている仲間たちでも――人は結局 死という別れを避けることはできないのだから。 だから、せめて その時まで、仲間たちが仲間たちのままでいられればいいと、星矢は思ったのである。 『ただし氷河は除く』という条件つきで。 Fin.
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