「星矢!」 言ってはならない その言葉を 大音声で言ってしまった星矢の名を、氷河と紫龍は慌てて叫んだ。 禁忌の言葉は既に発せられてしまったが、せめて 自分たちの声で星矢の発言の木霊を消し去ってしまえたら。 彼等は そう考えたのだ。 それは、氷河と紫龍の空しい悪足掻きだったかもしれない。 もちろん 悪足掻きは悪足掻きにすぎず、星矢の禁じられた発言は、しっかり瞬の耳に届いてしまったわけなのだが。 「え?」 氷河と紫龍とは真逆の星矢の評価に、瞬は戸惑ったのだろう。 瞬は星矢の前で僅かに首を傾けた。 そんな瞬に、星矢が、情け容赦なく禁忌の言葉を重ねて言ってのける。 「瞬、これ、滅茶苦茶 不味いぞ」 その事実は、瞬に知られてしまった。 瞬の涙を覚悟して、全身を緊張させ、次なる展開に備えた戦いの構えに入ったのである。 「で……でも、氷河や紫龍は美味しいって……」 「いいから、食ってみろ。奇跡みたいに不味いから」 星矢が 手にしていたスプーンに とろけるオムレツを一口分すくい取り、それを瞬の口の前に運ぶ。 いかにも恐る恐るといった体で、瞬は それをぱくりと食べた。 「う……わ……!」 不味い料理は、その料理を作った者の舌にも不味く感じられるものらしい。 自分の作ったオムレツを食べた瞬が、まるで黄色の絵の具を練り込んだ軟膏剤を 食べ物と信じて口に入れてしまった人間のそれのような顔になる。 その様子を見た星矢は、あろうことか、瞬の顔を指差して げらげら笑い出すという暴挙に及んだ。 「へったくそ、さいてー。もう、笑えるくらい不味いでやんの」 「せ……星矢、口がすぎるぞ」 星矢は、瞬の涙が恐くはないのか。 こういう場面では、誰よりも瞬の涙に慣れている一輝でさえ『美味い』と言うことしかできないだろうに、星矢は いったい自分の命が惜しくはないのか。 『不味い』という真実を告げられてしまった瞬の反応が、全く読めない。 氷河と紫龍は、星矢の天衣無縫が腹の底から恐かった。 「だって、これ、伝説になりそうな不味さじゃん。瞬、おまえ、ある意味、天才だぞ」 もしかしたら星矢は本気で仲間を褒めているつもりなのかもしれなかった。 しかし、それは、本気で怒れば神をも たじろがせるアンドロメダ座の聖闘士への とどめになっていた。 瞬は泣くのか、怒るのか。 あるいは、警告のストリーム抜きのストームを打ってくるのか、よもやまさかの天舞宝輪か。 紫龍と氷河は、その時、世界の滅亡をすら覚悟したのである。 「瞬……落ち着け。冷静になれ」 「しゅ……瞬、泣くなよ。泣くんじゃないぞ。料理がへただからといって、おまえの存在価値が減るわけでも 存在意義が否定されるわけでもないんだからな」 星矢の過ぎる正直の前で 未だ何のリアクションも示さずにいる瞬に、無駄と知りつつ、氷河と紫龍は冷静になることを求め促した。 そうして――やがて その場に現われる、長い――永遠にも感じられるほど長い沈黙。 その長い沈黙を破ったのは、一時は冥府の王として地上世界を死の世界にしようとしたこともある瞬の、小さな溜め息。 否、それは、含み笑いを含み切れず洩れてしまった笑いの息だったのかもしれない。 その小さな笑いは、まもなく朗笑といっていいほど晴れやかな笑い声へと変化していった。 「やだ、もう。そんなに笑わないでよ」 「これが笑わずにいられるかよ。命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間が、実は世にも稀なる大天才だったことがわかったんだぜ!」 「だから、そんなに笑わないでってば! 僕、ほんとに初めて作ったオムレツだったんだから」 「おまえが頑張ったのは認めるぞ。見た目だけなら、プロの洋食屋が作ったみたいに綺麗だったからな。でもさ、いくら初めて作った料理だったにしても、限度ってもんがあるだろ」 「それはそうかもしれないけど……」 「とにかく、二人暮らしは諦めた方がいいな。氷河も料理はできないらしいし、毎日外食やカップラーメンってのも 身体にはよくないし、かといって、おまえの料理を毎日 食わされてたら、氷河が精神に異常をきたすことは確実だからな。今更 氷河の頭が更に おかしくなったって、バトルに支障は生じないのかもしれないけど、それで身体の方まで調子悪くなったら、やっぱ まずいだろ。氷河のためだ。こればっかりは諦めるしかない」 『料理がへただから』ではなく『氷河のため』。 そう言われて、瞬は気が楽になったのかもしれない。 もともと城戸邸を出ることに乗り気でなかった瞬には、星矢の言葉は むしろ 渡りに船の喜ばしいものだったのかもしれなかった。 「ん……。こんなの毎日食べてたら、僕も氷河も食べることが嫌いになっちゃうよね。やだ、ほんとに笑えるくらい 美味しくない。ごめんね、氷河、紫龍。こんな ひどいもの食べさせて」 そう言って、瞬が、氷河と紫龍に ぴょこりと頭を下げてくる。 おそらく瞬は 心の底から悪いことをしてしまったと思っているのだろうが、それでも瞬の肩は笑いで小刻みに揺れていた。 そして、氷河と紫龍はといえば、予想外の この展開に あっけにとられてしまっていたのである。 特に 永遠の地獄の光景を脳裏に思い描いていた氷河には、この展開は、死刑宣告を受けた死刑囚が処刑直前で恩赦の連絡を受け取ったようなもの。 そんな気分に、彼は囚われていた。 「俺、ROシステム体得することにするわ。氷河も、30分で終わってたとこが1時間2時間もつようになったんだし、努力すればマスターできない技なんてないよな。最悪、夜の安眠を諦めて 昼寝するって手もあるし」 ピンクの小宇宙をどうにかしろと、あれほど強硬な姿勢でいた星矢が、今はまるで憑きものが落ちたように、その態度を軟化させている。 星矢のその態度の変化が、もし瞬の作った奇跡のオムレツのせいなのだとしたら、瞬の料理こそが世界に平和をもたらす鍵にして力なのかもしれないと、そんな馬鹿げたことをさえ、氷河と紫龍は真面目に考え始めていた。 「しっかし、このオムレツ、ほんとに不味いよな。材料か調味料を取り違えたとしか思えねーぞ」 「そんなことはないと思うけど……。だって、オムレツの材料って、卵と お塩とバターと牛乳だけで、僕 それしか使わなかったんだよ」 「それ、一応 確認しとこうぜ。原因究明しとかないと、いつまで経っても、おまえは天才料理人のままだ」 「うん!」 どこから どういう聞き方をしても嫌味としか思えないことを言う星矢に、瞬が笑って頷き返す。 そうして星矢と瞬が笑いながら厨房に駆けていってしまったラウンジで、もし 自分が瞬に『おまえの作ったオムレツは死ぬほど不味い』と真実を告げていたとしたら、瞬は星矢に対するように笑顔で その言葉を受けとめてくれていただろうかと、氷河は疑うことになったのである。 瞬は笑ってはくれない――ような気がした。 たとえ笑いながら冗談めかして そう言ったとしても、そう言ったのが星矢以外の誰かであったなら、瞬は その言葉を真剣に受けとめ、傷付き涙する。 氷河は、そんな気がしてならなかった。 「泣かなかった……な……。あんなに派手に 不味いと言われたのに」 星矢と瞬の姿を呑み込んだドアを見詰めて そう呟く龍座の聖闘士に お座なりに頷きながら、氷河は 全く別のことを考えていた。 すなわち、 「あの粗忽な星矢が 女にもてる訳がわかったような気がする……」 ということを。 「うむ。もしかすると星矢は、女――瞬は男の子だが――女の子の扱いが天才的にうまいんじゃないか?」 「俺もそう思った」 星矢は、基本的に陽性。 粗野で、何事も大雑把でざっくばらん。 気の利いたセリフは言えないが、その代わり、嘘も言わない。 星矢の言葉や表情には、裏と表、本音と建て前というようなものが存在していないのだ。 そんな星矢の前で、女の子たちは――瞬は男子だが――気負うことなく、常に自然体でいることができるのかもしれない。 それが女の子には――瞬は男だが――尋常でなく、心地よいのかもしれなかった。 何はともあれ、星矢のおかげで、氷河は永劫の地獄行きを免れ、九死に一生を得た。 氷河にとって星矢は、命の恩人、得難い仲間だった。 せっかく仲間に救われた命。 星矢の友情に応えるためにも、この命を大切にしようと、氷河は思ったのである。 主に夜、瞬と共に、愛と命を謳歌する行為に 持てる力のすべてを注ぎ込むことで。 ふりだしに戻る
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