「瞬……瞬……」 “僕”も、陛下も、イスの都も、そこに暮らす人々も――すべては海の底に沈んでしまったはずなのに、“瞬”を呼ぶ声がする。 僕は陛下と共に波に呑まれてしまったのに、水の中で声が聞こえる。 おかしな話だ。 声――これは、子供の頃、みんなとプールに行って耳に水が入ってしまった時に聞いた声に似ている。 これは誰の声? 海の声? それとも、これも神の声なんだろうか――? 「瞬、どうしたの。大丈夫?」 耳に入り込んでいた水が流れ出た あの瞬間のように、ふいに その声が明瞭になる。 頬に打ちつける波しぶきの冷たさ。 『毛皮を身に着ける人間には動物愛護の精神が欠けてるなんて考えは、それこそ 甘えた現代人が抱く 間違った考えだわ。太古の昔から、人間は こうして我が身を寒さから守ってきたのよ!』と主張して、堂々と最高級ロシアンセーブルの毛皮のコートを身にまとってみせる女神アテナ。 『全く同感だな』とアテナに賛同しながら、決して防寒具の類を身に着けようとしない氷河。 瞬が立っているのは、ヨーロッパ大陸の西の果て。 ブルターニュ半島の突端にあるシザン岬の岩頭。 季節は、理想の国の常春ではなく、冷たく厳しい冬だった。 「あ……大丈夫です。なんだか……夢を見ていたみたいで」 アテナの気遣わしげな視線に気付き、瞬は慌てて、遠ざかっていた意識を自分の方に たぐり寄せた。 「俺も」 瞬より先に 意識の明瞭さを取り戻していたらしい氷河が、彼にしては ぼんやりした口調で低く呟く。 寒風吹きすさぶ真冬の断崖の上で、二人は同じ夢を見ていたのだろうかと、瞬は思うともなく思ったのである。 沙織が――否、アテナが――そんな二人に微笑みかけてくる。 「美しく豊かで、でも儚い国の夢でしょう?」 「沙織さん……アテナ……」 彼女は、彼女の二人の聖闘士が どんな夢を見ていたのか、知っているのだろうか。 地上の平和と安寧を守るために存在するアテナの聖闘士が、美しく平和なイスの都に何をしたのか。 確かめるのが恐くて、瞬はアテナの名を口にしたきり、唇を引き結んだ。 そんな瞬を気遣ったのか、アテナが、瞬の上に据えていた視線を、岬の先に広がる灰色の冷たい海と空の方へと巡らせる。 「往々にして、神というものは、人間に対して 愛よりも強い忠誠を求めるものなのよ。それは、新興の神も古い神も同じ。そして、人間は いつも神より愛を選ぶの」 「アテナ……」 アテナは、やはり 知っているらしい。 瞬は思わず 瞼を伏せたのだが、アテナは瞬を――神より愛を選んだアテナの聖闘士たちを――責めるつもりはないようだった。 「神への恭順か、人間への愛か。イスの都の伝説は、古い宗教と新しい宗教の戦いではなく、神と愛の戦いだった。いいえ、むしろ、神ではなく 人への愛を主座に置くことが、人間の新しい宗教なのかもしれない」 それは、聖域に、この地上世界に、神として君臨する者が 言っていい言葉だろうか。 神らしからぬ沙織の言動には慣れているつもりだったのだが、それでも 瞬は 沙織のその言葉に戸惑わないわけにはいかなかったのである。 そして、ほどなく、その程度のことで驚いていてはアテナの聖闘士など やっていられないのだという事実を思い出す。 沙織の主張は、(神の主張としては)更に破天荒なものになっていった。 「神という存在などなくても、人間は生きていけるのよ。けれど、愛は 人間の身の内から自然に生まれてくるもの。人間には拒みようがない。人間に、従順なだけの僕でいることを求める神の方が間違っているわ。もし 人間の愛や恭順が欲しいのなら、神がまず人間を愛さなくてはならない。そうすることによって、神は 人の心の中に神への愛を生じせしめなければならない」 「アテナ……」 「人間の忠誠を試すことなどやめればいいのに、試さずにはいられない神。人間に愛されること、従われることだけを求めて、人間を愛することをしない神。神が 人間に愛想を尽かされても、それは致し方のないことだと、私は思うのよ」 神としては破天荒に過ぎるが、実にアテナらしい見解。 彼女は、人間の心がどんなものであるのかを知り、その上で、人間を愛してくれている神。 であればこそ、アテナの聖闘士は――人間は――彼女を愛し、彼女を信じ、彼女に従うのだ。 人間であるアテナの聖闘士は、自分の意思で、アテナという宗教を選んだのである。 彼女は“瞬”のしたことを どう思うのか。 恐ろしくはあったが、瞬はやはり彼女に告白しないわけにはいかなかった。 一つ 深呼吸をしてから、意を決して アテナに告げる。 「僕……イスの都を滅ぼしてしまいました……。あんなに美しい国だったのに――。飢える者はなく、豊かで、平和で、多分、この地上に存在するどの国よりも美しい、理想の国だったのに……」 「違う。それをしたのは俺だ」 間髪をいれずに そう言って、氷河が 瞬の手を握りしめてくる。 自分の為したことに罪悪感を抱いていないわけではないのだろうが、氷河は 後悔しているようには見えなかった。 彼にしてみれば、それは、神に『選べ』と言われたから“選んだ”結果でしかないのかもしれない。 それで神の望むような選択ができなかったとしても、それは“選ぶ”ことを強いた神が悪いのだと、氷河は考えているのかもしれない。 だが、瞬は、そこまで割り切ることはできなかった。 沙織は、対照的な二人の“人間”を無言で見詰め、やがて少々 諦観の混じった小さな笑みを 唇の端に刻んだ。 そして、思いがけないことを語り始める。 「あの都は何度も――何百回も 海に没しているの」 「え !? 」 「イスの都を作った神に選ばれた どの王も、神への忠誠より人間への愛を選んでしまったから」 「それは……」 「もちろん、イスの都の民のため、あるいは 自身の王位を守るため、愛する者を 生贄に捧げた王もいた。でも、そうして 愛する者を失った王は 精神的に死んだも同然。結局は、神に自らの消滅を求めた――。一人の王が消えると、イスの都の住人は すべて入れ替えられるのよ。イスの都の住人は、彼等の都が海に沈むと、彼等が本来 生きていた世界に戻り、再建されたイスの都には 新たな住人が連れてこられる。その魂だけがね。あの都の住人に 老いや病や死がなかったのは、そういうこと」 「魂だけ?」 「十数年間 生きていたはずなのに、あの都での あなたたちの記憶は不鮮明で、ごく最近のものしかなかったでしょう? イスの都にいたのは、現実世界の人間を模した肉体に 現実世界から運んできた魂を移植された人間たちだったの。美しい理想の国の住人に 老け込まれたり、食べ過ぎで 太られたりしたくなかったんでしょう、あの神は」 「食べ過ぎで太られたくなかった……?」 それが 神の美意識というものなのだろうか。 それは瞬には理解の難しい美意識だった。 規格外の人間を排斥する世界は 多様性を欠き、変化が期待できず、発展のしようがないではないか。 「いずれにしても、あれは現実世界の国ではないわ。ケルト神話で言うところの他界。神への忠誠を試すために、神が作った幻想の世界。あなたたちが海の底に沈めたのは、イスの都だけ。住人の命は失われていない」 「……それで 僕の犯した罪が消えるとは思いませんが、少し 心が軽くなりました」 言葉とは裏腹に 少しも心が軽くなったようには見えない瞬の様子に――その生真面目な内罰的思考に、アテナは呆れてしまったようだった。 『お手上げ』と言う代わりに、両の肩をすくめる。 「イスの都が どれほど美しい国だったとしても、それは神によって与えられた国で、人間が自らの手で作った国ではない。そんな国は、いつかは人間に見捨てられるの。人間は神に完璧な理想の国を与えられる幸運より、不完全でも 自分の手で 自分の世界を築くことを選ぶ。アダムとイブも、エデンの園を捨てたでしょう。同じことよ。まして、理想の国を与えておいて、その代償として神への恭順を求めるなんて、ただの押し売り行為。ポセイドンやハーデスのように、人間界は美しくないから滅ぼしていいと言うのは、神の勝手な言い草よ」 「あ……」 その二柱の神の名を出されることによって、瞬の中ではイスの都の神が何をしようとしていたのかが はっきりしてきたのである。 要するに、彼は――神々は、『神にとって理想の国でないものは、滅びてしまえ』と言っているのだ。 滅ぼされる人間の方は たまったものではない。 もしかしたら、アテナの聖闘士たちが アテナを慕い 愛するのは、彼女が 人間たちの『たまったものではない』気持ちを、理想を求める神々に代弁してくれる神だからなのかもしれなかった。 彼女は、アテナの聖闘士たちに――人間に――神々と戦うことを求める。 海闘士や冥闘士など 一瞬で叩きのめすことができるほど強大な力を持ちながら、その力を神に対してしか行使しない彼女は、人間を盲目的に愛しているわけではなく、人間を無条件に守ろうとしているわけでもない。 彼女は、生き延びるために必死に努力する者たちの応援者なのだ。 それでいいと、瞬は思った。 そんな彼女が、瞬は好きだった。 「では、パリに戻りましょうか。Par-Is ――イスのような町。パリは 人間が作った町だから、イスの都のように 完全に美しいだけの国ではないけれど」 神が作った理想の国より 人間の作った不完全な町の方が、アテナの意に沿うものなのかもしれない。 イスの都が沈んでいる灰色の海に背を向けたアテナに、瞬は頷いた。 「沙織さん。もしかして パリコレ見物は名目で、本当は この海を僕たちに見せるために、僕たちを連れてフランスまでいらしたんですか」 そうなのだとしたら、アンドロメダ座の聖闘士と白鳥座の聖闘士は、彼女の期待に添うことができなかったのだろうか。 それとも、あの結末は彼女の意に沿うものだったのか――。 不安に思い、瞬は沙織に尋ねてみたのである。 問われた沙織が、一度 その場に足を止め、瞬を振り返る。 彼女は にこやかに微笑して、瞬に答えてきた。 「パリコレ見物が 名目なんかであるはずがないでしょう。私は 聖域の雑兵服のセンスアップを計画しているの。今 考えているのは、雑兵服へのマントかケープをつけること。それで、そのマントの色を、聖域経験1年未満の新米なら赤、2年目が黄色、3年以上は青にして、区別できるようにするの。仮にも女神に仕える者のコスチュームのデザインを、そんじょそこいらの二流デザイナーに依頼するわけにはいかないでしょう。私がパリに来たのは、そのデザイナー物色のためよ」 「マ……マント? 雑兵服にマント?」 「し……しかも、赤、黄、青だと !? 」 「ええ。赤、青、黄色。わかりやすくて いいでしょ?」 アテナが その微笑の明るさを 更に増す。 神の希望や理想を拒む権利を、人間は持っているのだろうか。 その神を嫌いではないからこそ、人間である氷河と瞬は 苦悩せずにはいられなかった。 Fin.
|