ほぼ1ヶ月遅れの春は、慌ただしく日本列島を覆い尽くしてしまった。
暖かい春の陽光、暖かい春の微風の中で、去年までは ゆっくりと順を追って咲いていた春の花々が一度に、一斉に開花したのである。
日本列島は、花の匂いで むせかえるほどだった。
城戸邸の庭も、もちろん例外ではない。
氷河と瞬は、花の中にいる。
二人の姿は 沙織の執務室の窓からも見ることができ、紫龍は二人の遠慮のなさ――というより、二人は 互いに互いをしか見ておらず、他人の目が自分たちを見ていることに気付いていないのだ――紫龍は苦笑した。
本当に、苦く笑った。

彼が、氷河と瞬に声をかけず、星矢だけを誘って 沙織の許にやってきたのは、幸福な二人に遠慮したからではない。
そうではなく――彼が そこにやってきたのは、
「今回のことは、本当にハーデスのせいではなかったんですか。いえ、本当に瞬のせいではなかったんですか」
と尋ねるためだった。
紫龍は、どうにも解せなかったのである。
瞬を見詰め『まもなく、世界の気候は あるべき状態に戻る』と沙織が断言したこと、瞬が氷河の約束を手に入れ、アテナによって瞬の中から罪悪感が取り除かれた途端に、世界中で復活を成し遂げた春――が。

紫龍に問われた沙織が、返答を逡巡したのは一瞬だけだった。
彼女は おそらく、龍座の聖闘士が ほとんど正しい答えに辿り着いていることを察し、真実を隠すことは無意味と判断したのだ。
沙織の答えは、紫龍が察していた通り、
「ええ。この1ヶ月間の異常気象を引き起こした犯人は瞬よ。瞬が日本を――この地上世界を冬にしたの」

「やはり……」
「まさか」
そうなのだろうと察していた紫龍は、沙織の答えに浅く頷き、そんなことを考えてもいなかった星矢は、驚きに目を見開く。
沙織の声音は、だが 決して瞬を――アテナの聖闘士である瞬を――責めるものではなかった。
「もちろん、瞬は無意識だったのだと思うわ。瞬の中に ハーデスの力の片鱗が残っていたのかもしれないし、ハーデスと同化していた時に、神が どうやって神の力を発動するのか、その感覚を体得してしまったのかもしれない。あるいは、それは瞬個人に元から備わっていた力だったのか――。いいえ、やはり 人間は皆、そういう力を自分の中に秘めているのでしょうね。お偉い先生方が言っている地球温暖化なんて、その力の証明のようなものでしょう。人間が自分の益ばかりを追求して 我儘に生きていると、いずれは彼等は地球を滅ぼしてしまうのよ」

淡々とした口調の沙織の その言葉を聞きながら、星矢と紫龍は、かつて彼女が 彼女の敵対者に告げたという言葉を思い出すことになったのである。
『人々が互いを思い遣り、愛し合い、平和を望む心がある限り、どんな困難があろうと、絶対にこの地上は滅びない』と彼女は言い、そして、『愛もなく、正義もなく、ただ強いものが治め、邪悪に染まりながらも生きながらえる世界なら、滅んでもよい』と、彼女は宣言したという。
その言葉を聞いた時、アテナの聖闘士たちは皆、身の引き締まる思いに支配されたものだった。

「瞬でも邪神になれるんだ。そりゃ、誰でも邪神になれるよな……」
星矢が、ぽつりと呟く。
「もちろん、今回のことは、瞬の意思ではなく、瞬の無意識や感情が 瞬の意思を無視して起こしてしまったトラブルだと思うわ。その後 生まれた罪悪感のせいで、瞬は一時的に小宇宙を燃やすことができなくなってしまった。瞬の内罰的傾向と瞬の善良さが、そういう事態を招いてしまったのでしょう」
瞬に罪はないと、瞬は 今も善良で心優しい人間のままだと、沙織は言う。
その考えには、紫龍も完全に同意していた。
だが、今 問題なのは、悪意の全くない善良な人間にも 地上を滅ぼしてしまえるだけの力があるということなのだ。

「無意識というのは、かえって危険なのではありませんか。それは、瞬自身にも――瞬の意思では制御できない力ということになる」
「瞬に 自身を制御する力がないと決めつけるのは早計でしょう。今回は、瞬は、それが自分の力だということに気付いていなかった。すべては 自分の願いを叶えようとしたハーデスの力だと思い込んでいた。だから、瞬は 自身の意思で彼を制御しようとも考えなかったでしょうし。でも、そもそも瞬は もう二度と同じ過ちを犯すことはないわ」
「そうであれば いいのですが……」
楽観しているアテの言に触れても、紫龍はまだ憂い顔だった。
心配性の龍座の聖闘士に、アテナが 憂いの色を全く含まない微笑を投げかける。

「瞬は大丈夫よ。孤独であること、自分が孤独だと思うこと、孤独になることを恐れる気持ち――滅亡に向かう人間の力を増幅するのは、そういうものなの。瞬は自分が一人だけで生きているのではないということを ちゃんと知っているわ。――人は自分一人だけで生きているのではない。瞬だけでなく、すべての人間が その事実を知り、強く意識することになれば、戦争も地球温暖化の問題も たちどころに解決するのだけれど……。なかなか難しい問題だわね。時々 私は、私と私の聖闘士たちが何よりも優先してすべきことは、邪神と戦うことではなく、人間を啓蒙することなのではないかと思うことがあるわ」
「いえ、それはアテナの力を借りてすべきことではないでしょう。それは、我々人間が 自らの意思と力で 学び実践すべきことだ」
「そうなることを期待しているわ。星矢も頑張ってちょうだい」

この1ヶ月間の異常気象が瞬のせいだったということに――暖かい春の小宇宙の持ち主のせいだったということに――未だ 合点がいっていないらしい星矢に、アテナが発破をかける。
それでも どうしても得心がいかず、星矢は しばらく顔を歪めたままだった。
やがて 自分なりの結論に達したらしい星矢が、アテナと紫龍の前で大きく頷く。
「要するに あれだろ。瞬と氷河には、いつも仲良くしていてもらわなきゃ危険だってことだろ」

「星矢……おまえは、アテナの話をちゃんと聞いていたのか」
アテナは、地球規模、全人類規模の話をしていたのに、星矢が至った結論はそれ。
あまりに手近すぎ、卑近すぎる星矢の結論に呆れ――だが、紫龍はすぐに、星矢はそれでいいのだと思い直したのである。
眼の前にある障害や敵を取り除くことを繰り返し、いつのまにか 誰も辿りつくことができなかった高みにまで登っているのが、星矢という聖闘士だった。

「まあ……その点は――あの二人は大丈夫だろう」
紫龍が、視線で、窓の外の二人を指し示す。
瞬の小宇宙は 言うに及ばず、今は 氷雪の聖闘士の小宇宙までが、それこそ春の陽光をすべて そこに集めたかのように やわらかく暖かいのだ。
地上の平和を守るため、氷河と瞬には仲良くしていてもらわなければならない。
それはわかっているのだが――わかっていても癪に障るほど――花の中の氷河と瞬の小宇宙は幸福に輝いていた。

「結局、今回の件で得をしたのは、氷河だけかよ」
氷河にしてみれば、これはまさに天から降ってきた幸運と幸福だろう。
それで別に どんな不満があるわけでもなかったのだが、星矢は どうにも釈然としなかったのである。
たまたま夏の暑さが苦手だったせいで 幸福を手に入れてしまった氷河の僥倖――まさに僥倖が。

沙織が、そんな星矢に気の毒そうな顔を向けて、肩をすくめる。
「そうね。突然広範囲で 一斉に桜が咲き出したものだから、例年なら 南から ゆっくりと北上してくる桜祭りの屋台の確保が難しくて、各地の桜祭りの主催者たちは苦心しているそうよ。今年は星矢は 屋台の焼きそばは食べられないかもしれないわね」
「えーっ、そんなぁ!」
「焼そばなんて、どこででも食べられるだろう。城戸邸ここの料理人の方が、屋台の焼きそばより よほど美味いものを作ってくれるのに」
「屋台のジャンクな感じがいいんだよー。ソースやキャベツの切れっぱしが焦げて 安っぽい感じがさー」
もしかしたら 今年は屋台の焼きそばを食べることができないかもしれない。
それは、星矢にとっては 世界の低温化以上に深刻な問題だった。
氷河と瞬を恨んでも詮無いことではあるが、星矢は、つい 窓の外の二人に恨みがましい視線を投じてしまったのである。

城戸邸の庭は今、おそらく この地上世界で最も春らしい姿を描いていた。
氷河の手が瞬の髪に触れるたび、瞬の頬に触れるたび、二人の周囲で、それこそ音を立てる勢いで 花が咲いていくのだ。
それもまた、十分に異常気象といえるものだったろう。
その事実に気付いてもいない二人の頭は、今まさに春爛漫状態にあるようだった。






Fin.






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