「アテナ!」 「まあ、氷河。どうしたの。あなた、いったい どこから現れたの」 聖域のアテナ神殿 玉座の間には、アテナの他に、氷河の同輩である天馬座の聖闘士 星矢と 龍座の聖闘士 紫龍の姿もあった。 天真爛漫・明朗快活を身上にしている星矢が深刻な顔をしているところを見ると、彼等は、冥界軍との戦いで 聖域の側に有利でない情報がもたらされ、その対応策を練っていたところだったのかもしれない。 だとしても、味方の劣勢を知れば 後先考えず 単身でも敵陣に突っ込んでいく星矢が のんきに作戦計画を練っていられるのなら、事態は さほど切羽詰まっているわけではないのだろう。 突然 どこからともなく湧いて出た白鳥座の聖闘士に驚いている星矢と紫龍を 脇に押しやり、氷河は、ニューサの野の泉の底で彼が見聞きしたこと、瞬のことを、気負い込んでアテナに報告したのである。 そして、瞬を ハーデスの作った世界から この地上に連れ戻してほしいと、瞬も それを望んでいるのだと、その望みを叶えてもらえるのなら この命も差し出すと、熱っぽく アテナに訴えた。 アテナの心を動かすために、瞬が いかに清らかで優しい心を持ち、いかに可憐で可愛らしい様子をしているか、その瞳が いかに澄んで美しいかを、氷河は 言葉を尽くして 彼の女神に語ったのである。 氷河の熱心な口調と態度から、氷河を突き動かしている力が何であるのかを、星矢は察した――その手のことには鈍感で名を馳せた星矢にでも、察することができたらしい。 それは、地上世界の運命を左右することになるかもしれない重大な作戦会議を中断させてまで訴えなければならないことなのかと、星矢と紫龍は、熱病に罹ったような様子の氷河に、呆れたような目を向けてきた。 「おまえ、アテナに命じられた任務を放ったらかしにして、何してたんだよ! おまえが探らなきゃならないのはハーデスの動向であって、そんな どっかの可愛子ちゃんが どんだけ可愛いのかってことじゃないだろ!」 『何をしていたのか』と、非難がましく問い質してくる星矢に、『おまえを心臓麻痺から守ってやっていたんだ』と答える時間も惜しくて、氷河は 玉座に腰掛けているアテナを食い入るように見詰めた。 アテナの返答が、白鳥座の聖闘士の恋の成否を決定する。 外野の野次に耳を傾けている時間など、今の氷河は ただの1分1秒も持ち合わせていなかった。 アテナは力を貸してくれるのか、それとも 白鳥座の聖闘士に その恋を断念するよう 諭してくるのか。 いずれにしても、その答えは極めて謹厳に重々しく申し渡されるものと 氷河は思っていたのだが、アテナの態度は、氷河の想像とはまるで かけ離れたものだった。 氷河の報告と訴えを聞いたアテナは、真夏の真昼の太陽も かくやとばかりに明るく瞳を輝かせ、掛けていた玉座から 半ば以上 身を乗り出して、氷河の仕事の成果を大絶賛してくれたのである。 「まあ! 氷河、それは大変な お手柄よ! では、瞬は、地上に戻りたいと言ってくれたのね!」 「……手柄?」 「瞬が まだ ハーデスに身体を乗っ取られていなかったなんて! ハーデスは、瞬と一体になるより、自分とは別物として愛でていたいとでも考えたのかしら。何にせよ、間に合ってよかったわ。瞬を取り戻すことさえできれば、ハーデスは 向こう200年間は地上に降臨できなくなる。ああ、本当! 瞬の心の結界が消えているわ!」 虚空を見詰め、興奮した様子で まくしたてるアテナが何を言っているのか、まるで理解できない。 言葉というものは、話者が聞き手に己れの考えを知らせ 理解させるために用いる道具のはず。 全人類とまでは言わないが、せめて彼女の聖闘士には理解できる言葉を使ってほしいと、本音を言えば、氷河は思ったのである。 だが、まもなく氷河は、そんなことは 心底から どうでもよくなってしまったのだった。 言葉より雄弁なものを、アテナが氷河の前に提示してくれたから。 「瞬! ここに いらっしゃい!」 アテナが虚空に向かって そう呼びかけて1秒も経たないうちに、瞬が――ハーデスの作った世界に閉じ込められていたはずの瞬が――ハーデスの宿敵、知恵と戦いの女神アテナが統べる聖域のアテナ神殿 玉座の間に、忽然と その姿を現わしたのだ。 いったい何がどうなっているのか。 呆然と その場に突っ立っていることしかできずにいた氷河より、突然 見知らぬ場所に運ばれてきたはずの瞬の方が先に、この事態に反応し、行動を起こした。 「氷河……!」 瞬は 弾んだ声で 白鳥座の聖闘士の名を呼び、そして、その場に棒立ちになっている氷河の胸に 勢いよく飛び込んできたのである。 ハーデスが作った世界の外で出会い、名を呼ばれ、その胸に 瞬の頬を押し当てられても――氷河は、自分がどうすればいいのかが――喜んでいいのか、瞬を抱きしめてもいいのかすら――わからないままだった。 「氷河が、アテナの指示で 何とかの泉に向かってから半日も経ってねーのに、もう そこまで話が進んでんのかよ!」 ぼんやり突っ立っている氷河の背に腕をまわして しっかりと抱きついている、一見したところでは、世にも稀なる美少女(氷河の説明では美少年)を見て、星矢が驚嘆の(?)声をあげる。 「氷河が、これほど手の早い男だったとは……。一瀉千里、疾風迅雷。まさに神速だな」 せっかく紫龍にまで称賛の言葉をかけてもらえたというのに、氷河の思考と感情、及び 肉体の反応は、亀かカタツムリのように遅鈍、むしろ停止状態。 氷河が我にかえるのを待っているのは時間の無駄と判断したのか、アテナは、呆然自失の体でいる氷河に向かって、彼が知らされていなかった事実の説明を(勝手に)始めてくれた。 「瞬は人間――もともと、この地上世界に住んでいた ごく普通の人間よ。ただし、心と姿が特別製の。ハーデスは、数百年ごとの聖戦のたび、その時代で最も清らかな魂の持ち主を、自分の魂の器に選ぶの。で、今の時代に選ばれたのが瞬だった――というわけ。ハーデスは、大変なナルシストで、自分の本当の肉体を病的に愛しているのよ。だから、自分の身体が戦いで傷付くのを好まない。もともと冥府の王で、陽光が苦手だし、紫外線で お肌が傷んだら大変でしょう。だから、実体では 絶対に地上に立つことはしないし、できない。それで 彼は 人間の身体を必要とするわけなのだけど――」 「……」 肌を紫外線で傷めないために、地上に降臨しない神。 そんな輩が、神話の時代からアテナと聖戦を繰り返してきた神だというのなら、ハーデスがこれまで地上世界の支配という彼の目的を果たせなかったのも当然のことだろう。 少しずつ思考力が戻ってきた氷河は、まだ少し靄がかかっている頭で、ぼんやりと そう思った。 「私とハーデスは、ほぼ同時に この時代のハーデスの魂の器である瞬を見付けたの。私が聖域に瞬を保護しようとした その直前に、瞬をハーデスに奪われて――あとは氷河の説明通り。ハーデスは、彼が作った世界に瞬を連れ去り、閉じ込め、自分に都合の悪い記憶を 瞬の中から消し去った。瞬が閉じ込められた世界は、瞬自身が地上に戻りたいと願わなければ 神にも破ることのできない結界で覆われていて、私にも その中の様子を窺うことはできなかったのよ。つまり、瞬は、自分の意思で 自分をあの世界に閉じ込めていた――ということになるわね。ハーデスに、外の世界は汚辱と争乱に満ちた恐ろしい場所だと思い込まされていた瞬は、これまで決して その結界を解こうとはしなかった。瞬の心が作った結界を破ったのが、氷河、あなたというわけよ。汚れと争いしかない世界でも、あなたと一緒にいられるのなら恐くはないと、あなたが 瞬に思わせてくれたおかげで、私は やすやすと瞬を聖域に――地上世界に運ぶことができるようになったというわけ。この短時間で、よく……。氷河、あなた、いったい どんな魔法を使ったの。こんなに あっさりと、瞬の心の障壁を打ち破ってしまうなんて」 『どんな魔法を使ったのか』と問われれば、『恋の魔法を使ったのだ』としか、答えようがない。 ただし、その魔法は、氷河が瞬に用いたというより、氷河が瞬に かけられた魔法だった――と言う方が、より正しく事実を伝えるものだったが。 瞬に かけられた魔法の力が、氷河の中で 徐々に蘇ってくる。 今、ここにいるのは、白鳥座の聖闘士が恋した瞬。 ハーデスの呪縛から解放された瞬――本物の瞬。 白鳥座の聖闘士が抱きしめても、何の問題もない瞬なのだ。 アテナの説明で現況を理解した氷河は、もちろん、すぐさま、そして誰にも遠慮せず、アテナと仲間たちの前で、瞬の身体を抱きしめることをしたのだった。 「こいつ、本気でアテナの聖闘士としての自覚 皆無だな。今が どういう時で、地上と聖域が どういう状況にあるのか、わかってんのかよ」 全くTPOを気にしていない仲間のラブシーンを眺めながら――好きで眺めているわけではなかったろうが――星矢が呆れた顔でぼやく。 「そう、やっかむな。これで、ハーデスが直接 地上に現れて、聖域に攻撃を仕掛けることはできなくなったわけだからな。氷河は 実に有益な仕事をしてくれたことになる。勝機が見えてきたぞ」 「そうそう。星矢、やっかむのは やめなさい。ハーデスが地上に出てこれなくなったということは、この聖戦の主戦場が 否応なく冥界に移るということよ。敵地に乗り込んでいくことには 大きな危険が伴うでしょうけど、それは 取りも直さず、地上の被害が今以上に拡大する可能性がなくなるということだわ」 「やっかんでなんか ねーよ! 冗談じゃねーぜ」 紫龍とアテナの決めつけに 臍を曲げた星矢が、何やら大きな わめき声をあげていたが、100年の恋が実った歓喜に浸りきっている氷河の耳には、もちろん、そんな雑音は届いていなかった。 鳥と魚の恋。 魚は 鳥に魚になってほしいと願い、鳥は 魚に鳥になってほしいと願った。 だから、二人は結ばれなかったのだ。 愛と勇気を 相手にだけ求めて、自分は何もしようとしなかったから。 彼等は、相手が変わることを望むのではなく、相手が自分に近付いてきてくれることを望むのではなく、自分自身が愛する者に近付いていけばよかったのだ。 自分が、愛する者と同じものになりたいと願えばよかった。 鳥は、水に飛び込めばよかった。 魚は、空に向かって飛び跳ねればよかった。 その勇気と愛が 奇跡を生まないと、誰に言えるだろう。 その勇気と愛が 神の心を動かすこともあるかもしれない。 その勇気と愛に心打たれた神が、二人を同じ世界で生きていけるものにしてくれるかもしれないではないか。 地上を守るアテナの聖闘士であることをやめられない白鳥座の聖闘士のために、瞬は勇気を奮い起こしてくれた。 清らかで、心優しく、強く勇気ある可憐な恋人。 瞬が奮い起こしてくれた勇気に報いるためにも、これからはずっと 自分が瞬を守ってやるのだと、瞬の華奢な身体を抱きしめながら、氷河は固く決意したのだった。 そこに、氷河の恋の成就を祝して(?)、厳かな神の声が降ってくる。 「あ、そうだ。氷河。瞬は、ハーデスに さらわれる直前に、アンドロメダ座の聖衣を授けられているの。数百年振りに現れたアンドロメダ座の聖闘士。強いわよ。あなた、瞬の尻に敷かれないように、精進なさいね」 「なにっ !? 」 同じ世界で生きていけるなら、それで十分だったのに! そこまで 二人を同じものにしてくれなくても よかったのに! ――と、白鳥座の聖闘士が、神の過剰なサービスを恨みに思ったかどうかは、定かではない。 その後、白鳥座の聖闘士が瞬の尻に敷かれることになったのかどうかも、定かではない。 なにしろ これは、今から幾代も前の聖戦でのエピソードなので。 確かなことは、今も地上世界では 多くの人間が懸命に自らの命を生きていて、そこには明るい光が あふれているということだけである。 Fin.
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