一人の子供が突然 目の前から消えてしまったという椿事に驚くことより、再び 取り戻した恋人の姿に歓喜することを優先させるのって、人間として普通のことなのかしら。
10年にも100年にも思える長い時を経て 再び相まみえた恋人の姿を、二人は しばらく言葉もなく見詰めていた。
やがて瞬の瞳から 涙の雫が ひと粒 零れ落ちる。
「ごめんなさい……。地上を守ることを選んで 氷河を見捨てた時、僕は そんな自分が恐かった――恐くなって、そんな自分が悲しかった。だから、もう二度と つらい選択をしなくて済むように、僕は僕の世界から氷河を消してしまったの。ごめんなさい。僕は心弱い卑怯者だった」

『会えて嬉しい』より『ごめんなさい』から入るところが いかにも瞬らしい――と、私が苦笑しかけた次の瞬間、瞬は氷河の胸の中に飛び込んでしまっていた。
さすがは聖闘士、実に素早い身のこなしと驚こうとした時にはもう、氷河は瞬の身体を抱きしめ その唇をふさいでいた。
ほんと、さすがは聖闘士。
驚くべき早業ね。

――って、感心している場合じゃないわ。
何なのよ、この二人!
この私が示してやった 意義深く有難い人生の指針と教訓なんて 瞬時に忘れちゃいましたって態度で、いちゃいちゃと!
恋人の姿が見えるようになったら、その途端に他人の目が気にならなくなったの?
そこは、畏れ多くも知恵と戦いの女神アテナを祀る神殿のファサード。
しかも、いつ誰が通りかかるかわからない、言ってみれば公の場よ!
――と、二人の目に見えていない私が いくら毒づいても無意味無駄。

ついに取り戻した恋人の存在を 五感のすべてと全身で確かめようとするみたいに、腕を絡め合い、唇を重ね合い、髪をまさぐり合い――私、氷河がそこで瞬を押し倒してしまうんじゃないかと ひやひやしたわ。
そんなことをしたら、いくら聖闘士に甘い あのアテナでも、二人を厳罰に処さないわけにはいかないでしょう。
まあ、幸い、二人は そこまで常識と理性と失ってはいなかったみたいで(今夜が どうなるのかは知らないけど)、まもなく名残り惜しげに その腕と唇を恋人から離し、でも 視線と指は絡ませ合ったままで、やっと(散々 いちゃついたあとで、やっと!)私の正体についての推考を開始した。

「あの女の子は何者だったんだろう……。アテナ神殿にタペストリーが飾ってある部屋なんてあった?」
「いや。見たことも聞いたこともない」
「そうだよね。ないものの修繕をアテナが誰かに頼んだりするはずがないし……」
あら、いいところを衝いているわね。
私は今のアテナ神殿の中を詳しくは知らない。
昔の記憶を頼りに それらしい事情を捏造したけど、すぐに それは時代錯誤な事情説明だったと気付いたのよ。
一度 口にしてしまったことを引っこめるわけにもいかなくて、私は訂正もしなかったけど。

「昔は飾られていたのかな……」
瞬が呟くように言う。
「昔?」
氷河は、瞬の瞳を見詰めたまま。
「うん。何百年も前のアテナ神殿」
瞬は、そして、あまり自信はなさそうに、自分の推論を語り始めた。
「昔――室内装飾にタペストリーが使われるのが一般的だった頃、タペストリー織の仕事に関わりたいっていう夢を持った女の子がいて、でも、戦いに巻き込まれるとか、病魔に侵されとか、天災に見舞われたとかで、自分が そうなることを望んだわけでもないのに、夢半ばで命を絶たれた。そんな女の子の亡霊――心が この聖域に漂っていて、たまたま僕たちに姿が見えて――そういうことじゃないのかな……」

人間は、迷い選択する権利と義務を有しているだけでなく、ロマンティックな物語を編む能力も備えているみたいね。
でも、残念。
そもそも幼い子供の姿は、私の本来の姿ではないのよ。
季節を司る時の女神(ホーライ)の一柱、大神ゼウスと掟の女神テミスの娘、平和を司る女神エイレーネーと正義を司る女神ディケーの姉妹、秩序を司る女神エウノミア。
それが この私。


「ありがとう、エウノミア。助かったわ」
本来の女神の姿に戻った私に、謝意を伝えてきたのはアテナだった。
私の姿は人間には見えないままだったけれど。
「あの二人、私を事故か天災か病気で、夢半ばにして命を絶たれた人間の亡霊と思っているみたい。いいんだけど……私には、神としての威厳が足りないのかしら」
「可愛らしい姿に化けていたから……。氷河と瞬も、まさか自分たちが 秩序の女神が じかに乗り出してくるほど とんでもないことをしているなんて、考えてもいなかったでしょう」
「苦しい 言い訳は結構よ。混沌(カオス)と共に大地ガイアが生まれ、この世界が始まった時から これまで、異次元空間にちょっかいを出したり、異世界に迷い込んだりした人間は幾人もいたけど、こんなふうに この世界自体の在り方を歪ませた人間は、あの二人が初めてよ。人間の心の力 恐るべし。最初は、二人は精神的病理なのかと思っていたのだけど、彼等は本当に、“見たくない”“聞きたくない”ではなく“見えない”“聞こえない”状態になっていた――」

その世界の歪みに仰天して、私は聖域(ここ)に飛んできた。
そして、アテナに事情を説明され、秩序の回復を依頼され――いいえ、アテナが本当に回復したかったのは、世界の秩序じゃなく、彼女の可愛い聖闘士たちの切ない恋だったのかもしれない。
アテナが人間を可愛く思う気持ちはわからないでもないわね。
あの二人に接していたら、私の中にも 人間に対する情が湧いてきたもの。

「確かに 可愛いわね、人間って」
人間は、神には持てないものを持っている。
迷い 選ぶ力を持っている。
我々 神々は、自らに与えられた務めを全うすることしかできないというのに。
神は 他の道を選ぶことはできない。
もちろん、迷うこともできない。
私には、秩序の女神として、世界の秩序を維持するために務めること以外 できることも すべきこともない。
花の女神になりたいと望んでも、そのために努力することすら許されない。
それが、神というものだから。

「ええ。可愛いの。だから、滅びてほしくなくて」
恋し合う二人を、アテナが その言葉通り、愛しそうに見詰める。
彼女も――自分の意思で人間というものを愛することを選んだように見えるけど、でも、私には わかっている。
彼女は知恵と戦いの女神であるがゆえに、人間を愛さないわけにはいかなかったのよ。
その非力ゆえに、生きることが戦いそのものである人間。
神としての務めを迷うことなく果たさなければならない我々とは異なり、迷って――考えて、選ぶことが人生そのものである人間。
知恵と戦いの女神が、人間を愛するのは当然のことだわ。
まして、今のアテナは、その肉体が人間のもので、彼女自身、神でも人間でもあるものなのだから。

迷い選ぶことができるのは人間だけ。
後悔することができるのも、やり直すことができるのも。
神には決して成し得ないことを、人間たちはする。

氷河と瞬は、ついに取り戻した恋人の姿から目を離すことができず、でも、抱きしめ合いたい気持ちも強くて、迷い悩んでいる。
そんな可愛らしい恋人たちの様子を眺めながら、『人間として、この世界に生まれたかった』と、神の世界の秩序を乱すような願いを願っている自分に、私は軽い戸惑いを覚えていた。






Fin.






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