「お母様を愛してらしたんですね……」
あの美しく不幸だったひとに似た、優しく澄んだ瞳で、シュンは独り言のように そう言った。
その眼差しには同情の色も濃く、もしかしたら ヒョウガは当初の予定以上にシュンの同情心を駆り立てることに成功したのかもしれなかった。
「でも、愛がなかったなんて――すべてが嘘だったなんて、考えるのは間違っていると思います。伯爵は、お母様の愛まで嘘だったことにしてしまうの? 伯爵のお母様は 伯爵を愛していたに決まっているじゃないですか。たとえ お母様がすべてを知っていて 幸福な妻の振りをしていたのだったとしても、でも、伯爵のお母様は、幸福な母親ではあったはず。お母様は伯爵を愛していた。そして 多分、伯爵のお父様の素行を知っていても知らなくても、夫を愛していらしたのだと思います。だって、先のシャンタル伯爵は、ご自身の夫であると同時に、伯爵のお父様でもある人なんですから」
「……」

おそらく そうだったのだろう――と思う。
彼女は、彼女の夫と息子を愛していた。
それは信じられる。
だが、だからこそ――そう信じられるからこそ、ヒョウガは つらかったのだ。
「だからこそ――疑いもなく、自分の家族を理想の家族と思い込んでいた自分に腹が立ったんだ。母を幸福にしたかった。そうできていると思っていたのに……。俺は何も知らない子供だった。父の不誠実も知らず、母の苦しみも知らず――」
「だとしても、伯爵のお母様に対する愛は 真実のものだったのでしょう?」
野の百合の瞳は澄んでいる。
あまりに清らかに澄んでいるせいで、ヒョウガには判別がつかなかったのである。
野の百合が無邪気に そう尋ねてくるのか、深い思慮を持って そう尋ねてくるのかが。
そのいずれであったとしても、ヒョウガの答えは一つだったが。

「俺は、母を心から愛していた」
「ええ」
シュンが、優しく温かく微笑み、頷く。
息子を愛する母の愛が真実で、母を愛する息子の愛が真実なら、二人の絆は嘘でも虚構でもなかったのだと、シュンは言葉にせず、哀れな男を諭し、その心を慰撫してくれていた。
シュンのその慰撫で、ヒョウガの瞳の奥が熱くなる。
そんな自分に気付き、こんなことで慰められてしまって どうするのだと、ヒョウガは慌てて自分を叱咤したのである。

「俺だって、できることなら、今の自堕落で荒んだ暮らしをやめたい。だが、父への憎しみと軽蔑が どうしても、俺の中から消えてくれない。忘れられないんだ……」
この野の百合の同情を引き、その同情を逆手に取って、堕落の沼に引きずり込む。
それが ヒョウガがここにいる理由だった。
「だが、昨日、君に会って、純粋だった頃の話をして やり直したいと――こんなふうになってしまった今の俺でも 生きることを やり直せるのではないかと思ったんだ。君の澄んで清らかな目を見て、そう思った」
「僕に、伯爵の お力になれるようなことがあればいいんですけど……」
「それは いくらでもある。俺の友人になってくれ。俺が君の許を 友人として訪ねることを許してくれ。俺は、君と一緒にいるだけで、俺自身が浄化されるような気がするんだ。ああ、それから、俺のことは、伯爵ではなく ヒョウガと呼んでほしい」

当初の予定は大いに狂い、シュンに言う必要のないことまで語り知らせてしまったが、結果的に その脱線は 良いように作用したらしい。
『僕に、伯爵の お力になれるようなことがあればいいんですけど』
その思い上がった言葉を手に入れることが、ヒョウガの今日の来訪の目的だった。
その目的のものをシュンから手渡されたヒョウガは 気負い込んで、“シュンが お力になれること”を並べ立てたのである。
ヒョウガの気が抜けるほど あっさりと――むしろ、喜んでいる様子で、シュンはヒョウガの望みを受け入れてくれた。
「お友だちに? 嬉しい。僕、兄に、宮廷やパリの劇場は 不健康で不道徳な悪の巣窟だから 足を踏み入れてはならないって、行くのを禁じられているんです。でも、毎日 勉強ばかりでは、時間を持て余してしまって……。ヒョウガが僕を訪ねてきてくれたら、毎日が楽しくなりそう」

宮廷は不健康で不道徳な悪の巣窟。だから、足を踏み入れるな。
イッキの指示は的確かつ適切である。
だが、その指示は片手落ちでもあった。
悪の巣窟が自分の方から野の百合に近付いていく場合のことを、イッキは考慮に入れていなかったのだ。
帰りの馬車の中で、ヒョウガは、フランス王国軍総司令官にして陸軍元帥の手抜かりを 嘲笑い、感謝したのである。
そんな迂闊な男にフランス王国軍の総指揮権を委ねている国王も、あまり賢明とは言えないぞと。



ヒョウガには知るよしもなかったのである。
「宮廷は伏魔殿。欲にかられた魑魅魍魎の巣窟。そんなところで あんなに純粋な心を守っていられるのは、彼が、それくらい深く純粋に お母様を愛していたからなのかな……」
侯爵邸を辞していくシャンタル伯爵家の馬車を、館の2階のバルコニーから見送る清らかな野の百合が、氷河の前で つけていた仮面を外し、
「あんなに真正直で清らかで……どうやって、僕を堕落させるつもりなんだろ。無理に決まってるのに」
そう 独りごちて 苦笑していたことなど。






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