小学校教諭の“なでなで”を恐れて 身を引いていた星矢は、今度は別の理由で はっきりと一歩分、後方に その身を退かせることになった。 学者には2種類の学者がいる。 普通の学者と マッドサイエンティスト。 この学者先生は 前者ではなく後者なのではないかと、星矢は疑ったのである。 それほど――彼の考えは、星矢には 非常識――むしろ異常――なものに思えたのだ。 星矢は、沙織が女神アテナその人であることを信じて疑っていなかった。 にもかかわらず――実に おかしなことだが、“神の言語”なるものを語る老教授が、星矢には、解読できない文字の毒に当てられて狂人の妄想に取り憑かれた気の毒な人に思えてしまったのである。 しかし、学者先生は 大真面目に―― 一見した限りでは正気に見える面持ちで、今度は神学を語り始めた。 「旧約聖書 創世記第二章では、神がエデンの園を作り、最初の人間であるアダムを創造したとされている。神はまた、野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、アダムの許に連れてきて、彼が それらにどんな名をつけるのかを見た。アダムが生き物に与えた名がそのものの名となった。この時、最初の人間であるアダムは何語を話し、何語で生き物に名をつけたのか。これが長らく論じられ続けてきた“アダムの言語”問題です。聖アウグスティヌスは、それは旧約聖書の言語であるヘブライ語だと主張した。その後、候補となる言語はどんどん増えていき、エノク語説、フラマン語説、デンマーク語説、フランス語説、呆れたことに、中国語説まである」 「中国語説?」 そんなものが本当にあるのなら、狂っているのは この学者先生(だけ)ではない。 すべての学者が 身の内に狂気を養っているといっていいだろう。 星矢は思わず、世界中の学者の正気と常識を疑ってしまった。 「もちろん、そんなことがあるはずはない。人類は、バベルの塔建設の傲慢で神の怒りに触れ、“全地の言葉を乱”されるまで、ただ一つの言語――神の言語を使っていたはずなのだ。言語の根源、最初の言語。私は、アテナイ遺跡に記されている文字こそが神の言語なのだと考えている――そういう仮説を立てているのです」 マッドサイエンティストでも、学者は学者。 彼は あくまで断言を避け、学者らしい表現を用い続ける。 だが、それでも、彼に対する 狂人の疑い――誇大妄想狂の疑いが、星矢の中から消えることはなかった。 「ああ、そういえば、日本の東北地方に『ナニャドヤラ』という民謡があって、それがヘブライ語の『神の名を誉め讃えん』という文句の訛ったものだという説があったな。確か、その地方には、嘘か真かキリストの墓があるとか」 本気で そんなことを信じているわけではあるまいが、突然 そんなことを言い出した紫龍にまで、星矢は狂人を見る目を向けてしまったのである。 西洋文明の源流 ギリシャ、旧約聖書において約束の地とされているエルサレム、極東の島国 日本。 訳のわからない線で繋がれた出した世界の図。 星矢は、痛切に、心底から、今 ここに瞬にいてほしかったと思ってしまったのである。 アテナの聖闘士たちの中で 傑出した常識人であることを誇るアンドロメダ座の聖闘士。 常識人といっても、所詮はアテナの聖闘士の中のことでしかないが、それでも 瞬なら、東北民謡ヘブライ語説を『さすがに その説には無理があるよ』と言って 一笑に伏すくらいのことはしてくれるはずだった。 が、残念ながら、今 ここに瞬はいない。 瞬は、アテナの聖闘士たちの中でも傑出した変人の氷河と、日本が世界に誇る世界遺産の山にツーリングデートに出掛けてしまっているのだ。 星矢は自力で この狂気の世界から脱出しなければならなかった。 「自然物を描いた絵じゃないことは確かだし、文字に見えないこともないけど、これは、フツーに ただの模様だろ」 身も蓋もないが『これぞ常識』という見解を、星矢は学者先生に告げてみた。 この壁画が フランスのラスコー壁画やスペインのアルタミラ壁画より古く、20000年以上昔の時代のものだというのなら、当時 欧州では アダムより古い人類であるところのクロマニョン人が文字のない生活を営んでいたはずなのだ。 それが科学者の考え方のはずだった。 だというのに。 だというのに、紛れもなく科学者の一人であるはずのアテネ大学の学者先生は、断固として、 「言語学者としての私の勘が、これは文字だと主張するのだ!」 と主張するのだ。 「これまでに 世界で発見された あらゆる言語の情報が入っているスーパーコンピュータも お手上げ状態で、解読の糸口すら掴めなかった。過去のデータには頼れない。もはや人間の想像力、インスピレーション、第六感に頼るしかないのです。でなければ、神そのものに尋ねるしかない」 そう言って、彼は 静かに、だが熱狂的な眼差しで沙織を見詰めた。 彼が沙織の言葉を求めているのは明白。 だが、沙織は――彼女は何事かを知っているのだろうか。 彼女は その顔を――否、全身を緊張させ、決して口を開こうとはしなかった。 この件に関して、彼女は沈黙を通したいらしい。 周囲の空気までを緊張させているような沙織の様子を見て、星矢は(これは いつもは瞬の役目なのだが)場の緊張を解くために、話題を僅かに脇に逸らしてみたのである。 沙織が沈黙を貫き通したいと思っているのなら、彼女の意思を尊重した方がいい。 それはアテナの聖闘士としての、星矢の直感だった。 「でも、神の言語って言ってもさ、神サマが、こんな人目につかないところに、いったい何を書くっていうんだよ。俺、前にどっかで聞いたことあるぜ。すごい でかい遺跡が発見されて、これは人類の歴史上 重大な情報が手に入るに違いないって考えた学者先生たちが、勇んで 遺跡の壁に書かれてた大量の文字を解読してみたら、それが全部、愚痴だの 悪口だの のろけだのばっかりで、歴史的に重要な情報なんて一つもなかったって話」 「有名なポンペイの落書きだな」 星矢の あやふやな知識に、紫龍が 脇から補足説明を入れてくる。 もちろん アテネ大学の学者先生は、その出来事について 星矢より紫龍より詳細で正確な情報を持っていただろうが。 「神の言語だか何だか知らねーけど、そんなの 躍起になって解読して、書かれてたのが『人間のバカ』とかだったら どーすんだよ」 沙織は、依然として、険しい表情で沈黙を守っている。 『頼むから諦めてくれ』 『おそらく その方が人類のためになる』 そんな星矢の胸中の願いは、だが、学者先生には通じなかった。 ポンペイ遺跡の落書きのことなど 百も承知という顔で、彼は彼の意思を通そうとする。 「私は、アテナイ壁画には、滅びの予言が書かれているのではないかと考えています。キリスト教やユダヤ教には 最後の審判、北欧神話には 神々の黄昏、マヤの神話にも マヤ暦の終わりの時がある。大抵の神話や宗教書には、世界の終末に関する記述があるんだ。だが、ギリシャ神話には それがない。ギリシャの神々の物語にだけ それがないのは おかしいではないか。あるはずなんだ。ギリシャの神々も、この世界が終わる時がどんなものなのかを知っていたはず。アテナイ壁画に記されているものこそが、ギリシャの神々による世界の終わりの予言に違いないのだ!」 「滅びの予言……」 沈黙を守っていた沙織が、低く強張った口調で、アテネ大学の教授の言葉を反復する。 その呟きの持つ響きが あまりに暗く深刻なものだったので、星矢は 学者先生の仮説を笑い飛ばしてしまうことができなかったのである。 知恵と戦いの女神――色恋に うつつを抜かしてばかりいる享楽的なギリシャの神々の中では 異色といっていいほど 真面目で厳格で潔癖な女神。 とはいえ、ギリシャの神の一柱らしく、常に その身に希望と明るさと自信を まとっている神。 その女神アテナの、平生の彼女らしくない 強張り、陰鬱さ。 今 星矢の目の前にいる沙織は、今にも悲鳴をあげて錯乱するのではないかと思えるような、恐ろしい緊張感――僅かな刺激で すぐにも崩壊してしまうのではないかと思えるような緊張感に 包まれていた。 「沙織さん、どうかしたのか……」 まさか本当に、アテナイ壁画には、ギリシャの神々による 滅びの予言が記されているのか。 あの能天気なギリシャの神々の物語に、滅びの章があったというのか。 その可能性を考えると、星矢の背筋は冷たく凍りついた。 もし本当に そんなものがあるのだとしたら、地上の平和を守るためのアテナの聖闘士たちの戦いの意義と意味は失われる。 もし本当に そんなものがあるのだとしたら、アテナの聖闘士たちの戦いは、避けられない世界の終末への無駄な足掻きにすぎないものになってしまう。 必ず やってくる世界の終末。 ギリシャの神々の享楽が、滅びの時を知っているがゆえのものだったとしたら――。 星矢は、そんなことは 考えるのも嫌だった。 沙織が再び 沈黙の中に沈む。 唇を固く引き結び、全身を緊張させ、緊張のあまり 肩と指先が小刻みに震えている。 どんな戦いに挑んでいる時にも――地上の存続がかかった戦いの最中にあっても――常に どこかに余裕を漂わせていた沙織の――否、女神アテナの緊張と沈黙。 それは 恐ろしく不吉だった。 この世界が滅んでしまっても構わない。 だから、この緊張と沈黙を終わらせてくれ。 誰に対しての懇願なのか わからない懇願を、星矢が心の中で叫んだ時、その救いは 突然 彼等の上に降ってきた。 平生なら 全く快いとは思わない耳障りな騒音。 それが今は、地上世界の“終わりの始まり”を終わらせる祝福の鐘の音に聞こえる。 その音に誰よりも早く 飛びついたのが沙織だったことが、星矢の不安を更に募らせた。 祝福の鐘の音。 救いの鐘の音。 それは、氷河のバイクのエンジン音だった。 「申し訳ありません。予定の来客が来たようですわ。アテナイ壁画に関しては、何か思いつくことがありましたら、こちらから ご連絡を差し上げます。今日はこれで お引き取りください」 言葉は、やわらかく丁寧。 だが、否やは言わせないという 断固とした眼差しで、沙織が言語学者に告げる。 圧倒的な威厳をたたえ 対峙する者に強い威圧感を与える時でも、顔を強張らせることなど ついぞなかった沙織が、今は、表情でも身体でも その緊張感を隠しきれずにいる。 沙織は何事かを知っているのだと考えたのは、その場にいた彼女の聖闘士たちだけではなかったようだった。 学者先生も、沙織の ただならぬ様子に何事かを感じたらしく――彼は無理を通そうとはしなかった。 「あなたの立場で軽々しい振舞いができないだろう事情は お察しします。有意義な情報の提供をお待ちしています。それが滅びの予言でも、私は知りたいのです」 学者先生の最後の懇願には何も言わず、その顔に緊張した微笑を張りつけたまま、沙織は メイドを呼び、彼女に来客の辞去を告げた。 |