True victor






瞬を そこに連れてきたのは、聖域では ついぞ見たことのない一頭の蝶だった。
美しいのに、どこか不吉で、だが 不思議に人の目と心を誘う蝶。
聖域どころか、このギリシャでは見掛けたことのない その姿に惹かれ、後を追い、気が付くと 瞬は そこにいたのである。
広い花園。
そこにあるのは、見渡す限りの花と花と花と花。
白、黄、赤、紫、桃色、それらの花々を包む緑。
そこは、どれほど広いのかすら わからない、果ての見えない花園だった。

聖域には こんな広い花園はなかったはずである。
処女宮や双魚宮には、その宮を守護する黄金聖闘士の許しを得た者だけが見ることのできる花園があるという話を聞いたことはあったが、兄の縁故で 聖域に住まうことを許されている下働きの瞬には、黄金聖闘士の守る宮の奥を垣間見る機会など与えられるはずもなかった。
当然、瞬はその話の真偽を知らない。

瞬が 女神アテナの統べる聖域にやってきたのは、今から半年ほど前のことである。
瞬の兄が 実の弟に行き先も知らせず、ふらりと故郷の村を出ていったのは、それに先立つこと2年前。
その兄が、村を出ていった時同様 前触れもなく帰ってきて、瞬に告げたのである。
「おまえを迎えに来た」
アテナの聖闘士になり、肉親を聖域に住まわせる許しをアテナから得たから、聖域に来いと。

このギリシャに生まれ育った者に、聖域とアテナの聖闘士のことを知らぬ者はない。
ただし、それが本当に存在するものなのかどうかを知る者も ほとんどない。
女神アテナが統べる聖域と、彼女のもとで地上の平和を守るために戦うアテナの聖闘士の存在は、人口に膾炙する伝説や噂の中にのみあるもの。
兄に連れられて聖域に来て初めて、瞬は、それらが伝説や噂の中だけでなく、現実の世界に存在するものだったことを知ったのである。

とはいえ、瞬は、聖域にやってきて半年が過ぎた今でも、鳳凰座の聖闘士の聖衣を まとう権利と資格を得たという兄以外の聖闘士の姿を見たことはなかった。
黄金聖闘士は 自らの守護する宮の中に閉じこもっているのか、そもそも聖域内にいないのか、決して その姿を人目に さらすことがない。
聖域には瞬の他にも、聖域という町を維持する仕事に従事する者たちや、聖闘士の資格を持たずに聖域の守備警備の役職に就いている兵たちが大勢いたが、彼等の中にも黄金聖闘士の姿を見たことがあるという者は一人もいなかった。
むしろ、この聖域内に守るべき宮を持たず 聖域の外で それぞれに活動している白銀聖闘士や青銅聖闘士たちの姿を見たことがあるという者の方が、瞬の周囲には多かった。
瞬も、兄以外に、白銀聖闘士をなら幾人か見掛けたことがある。
聖域に自らの宮を持つ黄金聖闘士より 下位の聖闘士たちの方が活発に各地を飛びまわり、聖域内でも活発な活動をしているようだった。
アテナの聖闘士が聖域に集結して当たらなければならないほど強大な力を持った敵が現われた時にだけ、アテナの聖闘士たちは この聖域に集い、黄金聖闘士たちも その姿を見せる。
平時には、アテナの聖闘士たちは それぞれの任地で それぞれの務めに就いているらしかった。

そういった話も、瞬は、兄からではなく仕事仲間たちから聞いたのである。
聖闘士は 自らの任務について口外することを禁じられているのか、瞬の兄は瞬に そういったことを何も語ってくれなかったのだ。
実際、瞬の兄は、瞬を聖域に連れてきた翌日にはもう、聖域にはいなかった。
故郷の村にいた頃から、家の中に落ち着いていることの少なかった兄 一輝。
その性癖が治っていないのか、アテナの命令によるものなのか――聖域に来てからも 瞬は兄と共にいる時間を ほとんど持つことができず、それゆえ瞬は 自分も聖闘士になって 兄と共に戦うことができるようになりたいという夢を持つようになったのである。
兄の側で、兄と同じ時を過ごすには、それ以外の方法はなさそうだったから。
力不足なことはわかっているし、兄も『おまえは聖闘士には向いていない』と言うのだが、それでも 瞬はその夢を捨てることはできなかったのである。
時折 ふらりと聖域に帰ってきて、弟の許に一日と留まらず、またどこかに行ってしまう兄。
瞬は もう半年以上 兄に会っていなかった。

そんな日々の中で、瞬は不思議な蝶に出会い、この花園に迷い込むことになったのである。
不可思議な花園。
そんなに長い間 蝶を追いかけていたつもりはなかったので――少なくとも、聖域の外に出てしまうほどの距離を歩いたつもりはなかったので――ここは聖域の内にある場所のはずだった。
だが、この花園に足を踏み入れた時からずっと、瞬の中の何かが、ここは聖域ではないと瞬に訴え続けていた。
ここは アテナの守護する聖域ではないから油断してはならない――と。

聖域には、そもそも花自体が少ない。
乾燥した土地。
石の荒野と呼ばれる、豊かとは言い難い土壌。
その分、大理石や鉄や銅、各種金属資源は豊富だったが、聖域やその周辺に こんな花園は存在し得ないのだ。

では、ここはどこなのか。
異次元、異世界、異郷――そういった場所なのかもしれないと、瞬は思ったのである。
この花園からは、聖域のどこからでも望むことができるはずのアテナ神殿が見えない。
そう考えるのが妥当のようだった。
だが、そうだとしたら、なぜ 自分は こんなところに迷い込んでしまったのだろう?
花と花を揺らす暖かい微風の中で、瞬は怪訝に思うことになった。

「ここは どこ……」
花と花を揺らす暖かい微風の他には何もない場所で、瞬は 小さく呟いた。
その呟きを呟く前には、そこは 確かに花と花を揺らす暖かい微風しかない場所だったのに、瞬が その短い呟きを呟き終えた時、そこは花と花を揺らす暖かい微風しかない場所ではなくなっていた。
花園の光景は そのままだったが、いつのまにか、二人の男が瞬の前に立っていたのだ。
金色の髪と瞳を持つ男と 銀色の髪と瞳を持つ男。
髪はともかく、その瞳の色は人間に持ち得るものではない。
猫のそれに似ていないこともなかったが、彼等の瞳の金や銀は、生き物のそれというよりは 金属の色と印象に近いものを たたえていた。

「おまえは鳳凰座の聖闘士の実弟。名前は瞬で相違ないか」
瞬に そう尋ねてきたのは、金色の髪と瞳を持つ男だった。
「え……? あ……あの……はい……」
彼が鳳凰座の聖闘士の弟の名を知っているということは、彼が その名の持ち主を 意図的に この場に招き入れた――瞬は 勝手に(?)ここに迷い込んできたのではない――ということなのだろうか。
だとしたら、それは実に奇妙なことである。
彼等は、瞬が“鳳凰座の聖闘士の弟”だということを知っている。
つまり、瞬が何の力も持たない ただの人間だということを、彼等は知っているのだ。
見るからに ただの人間ではない彼等が、何の力も持たない人間に、何らかの用があるとも思えない。

いったい これはどういうことなのか。
瞬は彼等に尋ねたかったのである。
だが、彼等が尋常の人間でないことは一目瞭然。
もし彼等が、神や それに準じる力を持つ存在なのであれば、彼等に『あなた方はどなたですか』と問うことさえ不敬になるかもしれない。
もしかしたら その顔を仰ぎ見ることさえ、無力無能な人間には許されないことなのかもしれない。
そんな畏れを感じて、瞬は、自らの顔と視線を足元の花に向けていた。

彼等は何者なのか、なぜ 鳳凰座の聖闘士の弟を この場に呼びつけたのか。
畏怖の念から 知りたいことを瞬が問わずにいると、彼等は むしろ そんな瞬に焦れたように自らの名を名乗ってきた。
「私は、眠りを司る神ヒュプノス」
と、金色の男が。
「俺は、死を司る神タナトス」
と、銀色の男が。

やはり 彼等は神であるらしい。
そして、この花園は神の領域――ということになるのだろう。
では、だが、神が どうして ただの人間を ここに呼び寄せたりしたのか。
更に疑いを深めた瞬に、
「おまえは兄の命が惜しいか」
と問うてきたのは、金色の神ヒュプノスだった。
「え」
あまりに思いがけない その問い掛けに驚いて、瞬は初めて、ほとんど反射的に その顔を上げてしまったのである。
表情がないわけではないのだが、どこか無機質な印象の強い金色の神の金色の瞳が 瞬を冷ややかに見おろしていた。

その瞳の人間らしくなさに気圧けおされ、たじろいだ瞬を、
「おまえの兄貴は俺たちの手の内にある。兄貴を死なせたくなかったら、俺たちの言うことをきけ」
と脅してきたのは、金色の神の傍らに立つ銀色の神だった。
神にしては少々――否、かなり――下卑た言葉と口調。
二柱の神は 双子のようにそっくりな面差しを持っているのに、似ているのは外見だけらしい。
金色の神は尊大、銀色の神は横柄。
人間を見下しているのは どちらも同じなのだろうが、瞬に対する彼等の態度は まるで違っていた。
たとえ銀色の神の口調が 下卑たものでなく 慇懃なものであったとしても、瞬は その言葉に同じように衝撃を受けていただろうが。






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