「さて。あのガキにどこまで やれるか……。いちばん いいのは、あのガキが白鳥座の聖闘士を たらし込んで 心身共に汚れ、かつ、アテナの壺を アテナの結界の外に運び出して、その封印を破るところまで完璧に やり遂げてくれることだが……。何にしても歯がゆいことだな。俺たちは手をこまねいて、あのガキがどこまでやれるかを見ていることしかできない」 エリシオンの花園から、北の果ての白い光景を眺めながら、タナトスが忌々しげに言葉を吐き出す。 暖かい春の微風が、常に色とりどりの花々を揺らしている世界で、ヒュプノスは細く静かに吐息した。 「仕方あるまい。人間でなければ、アテナの封印を解くことはできない。冥府の者は、アテナの結界に守られた氷の砦に入ることはできない。アテナの結界の外に 壺を運びだし、その封印を破ることは人間にしかできぬことなのだ」 「そのついでに、地上で最も清らかな魂の持ち主――ハーデス様の依り代である瞬が汚れてくれれば一石二鳥というわけだ。さすが お上品なヒュプノス様は えぐい策を思いつかれる」 「もちろん、褒めているのだろうな?」 タナトスの皮肉な物言いに、ヒュプノスが 抑揚らしい抑揚、感情らしい感情の感じ取れない声音で問い返す。 その言葉、その声に 何の感情もないということはないはずなのだが、それは 双神として長い時を共に過ごしてきたタナトスにも読み解くことのできない感情だった。 ヒュプノスを知らない者なら単純に、彼の言葉を嫌味と決めつけていただろうが、タナトスは、眠りを司る神が それほどシンプルな男ではないことを知っていた。 「俺とて、ご自身のお身体を傷付けたくないというハーデス様の お気持ちはわかっているんだが……。あんな小娘のような顔をした者の指図を仰いで戦うなんて、俺は ご免だ。冥闘士共の士気も上がらん。この俺だって、ハーデス様には できれば本来の お姿で戦ってほしいと思っているさ」 「そのためには、瞬を“地上で最も清らかな者”でなくせばいい。人の心を操る薬で アテナの聖闘士の心を惑わし 道を誤らせ、瞬自身も汚れる。瞬がハーデス様の依り代となる資格を失えば、ハーデス様も、ご自身の手で武器を取ってくださるだろう。それくらいのことをしていただかなければ、我等の宿願は叶わない。敵は、あのアテナだ」 「ああ。もちろん、俺は おまえの策を褒めているさ。ハーデス様は、聖戦のたび、依り代たる人間の肉体に自らの魂を宿らせて戦う。ハーデス様とアテナの聖戦に いつまでも決着がつかないのは そのせいと言っていい。俺は いい加減、飽きたんだよ。はっきりした決着がつかないまま、幾度も繰り返される聖戦に。アテナとの聖戦に決着がつくというのなら、どんなに えぐい策にも諸手を挙げて賛同するさ」 「たとえ、その決着が この冥界、このエリシオンを消し去るようなものであったとしても」 「なに……?」 ヒュプノスの呟きに はっとして、タナトスは その銀色の瞳を見開いた。 タナトスは、さすがに そこまでの覚悟はしていなかったのだ。 ヒュプノスに反駁しようとして、その直前に思い直す。 すべては、瞬がどこまでできるか。 今 この件に関して、神にできることは何もないのだ。 ヒュプノスに一瞥をくれてから、タナトスは沈黙するために唇を引き結んだ。 アテナとハーデスの戦いに決着がついた時に失われるのは、この至福の花園か、光あふれる地上世界か。 最後に勝利するのはハーデスだということを疑ったこともなかった自分を、タナトスは愉快に思った。 |