兄を失うわけにはいかない。
時間は もう ほとんど残されていない。
氷河には愛した人がいて、その人のために 氷河は 一人でいることが平気な人間になってしまった。
兄を救うには、もはや 神の力に頼るしかない。
氷河を孤独に耐えられない人間にするには、神が作った 愛を生む薬に頼るしかない――。

平生の瞬であれば、そんなふうに考えることは“おかしい”と気付いていただろう。
その考えは間違っていると思うことができていたはずだった。
だが、自分の部屋に戻り、炎の色をした小瓶を手に取った時、瞬は、おそらく平生の瞬ではなかったのだ。
その小瓶に触れた途端、他のことが何も考えられなくなり、瞬はその小瓶を握りしめて、いつのまにか氷河の部屋に向かっていたのである。

兄を救い、氷河を孤独に耐えられない人間にすること。
そうすることによってのみ、自分は孤独な人間になる事態を免れることができる。
それ以外のことは何も考えられずに 氷河の部屋に向かっている その時にも、だが、瞬は わかっていた。
胸の奥の奥、心の底の底で わかっていたのだ。
自分を氷河の許に向かわせているのは、愛を生む秘薬の入った小瓶の力ではなく、『愛する人はいた』という氷河の言葉なのだということを。


「瞬? どうかしたのか?」
突然 アテナの聖闘士が守る砦に転がり込んできた瞬を追い返そうとしなかったように、突然 アテナの聖闘士の部屋に押しかけてきた瞬を、氷河は追い出そうとはしなかった。
誰も必要としていないくせに、自分に優しい目を向けてくる氷河が悲しくて、同時に 苛立たしくて、瞬は 金色の神と銀色の神に渡された小瓶の蓋を開けたのである。

「何だ、それは? 香水……?」
それは薔薇の香り――に似ていた。
今を盛りと咲き誇る真紅の薔薇、明日には爛熟し 朽ち始める薔薇の花の香り。
暖炉に火を入れていない氷河の部屋では顕著な空気の対流は生まれていないのだが、その香りが まっすぐに氷河の許に向かうのが、瞬にはわかったのである。
秘薬の香りは 氷河に届いているはずなのに、彼は特段の変化は見せなかった。
部屋の扉を開けるなり、一言も言葉を発することなく、奇妙な小瓶を取り出した瞬の振舞いを訝る様子を見せただけで。
愛の神が作った愛を生む薬の力が氷河に作用すれば、氷河は何らかの変化反応を見せるものと思い込んでいた瞬は、想定外の氷河の無反応に戸惑った。

「瞬、どうかしたのか」
氷河は いつも通りの氷河――これまで そうだった通りの声で、これまで そうだった通りの眼差しを瞬に向け、その突然の来訪の訳を瞬に問うてくる。
「あ……」
この薬は、力を発揮するまで時間がかかるのだろうか。
それとも、アテナの加護を受けているアテナの聖闘士には 力が効かないのか。
そんなはずはない。
もし そうなら、金銀の神が この薬を自分に与えるはずがない。
氷河が怪訝そうな顔をして、瞬に近付いてくる。
「あ……あの……」
こんな展開は考えていなかった。

ほんの少し手を伸ばせば触れることができるほど近くで、氷河が瞬の顔を覗き込んでくる。
何か言わなければ怪しまれる――戸惑い、焦り、混乱し――混乱したまま、瞬は 自分の用件を氷河に告げたのである。
「ぼ……僕は、氷河のことが好きなの。氷河が好きなのっ」
と。
途端に氷河は瞬の身体を抱きしめてきた。

アテナの聖闘士には力が効かないどころか。
愛の神が作った愛の秘薬の力は絶大だった。
薬の力に支配された氷河は、瞬の知る氷河ではなくなっていた。
常人には持ち得ない力を持つアテナの聖闘士でありながら、鳳凰座の聖闘士の弟だということ以外に何の取りえもない非力な人間に 驚くほどの優しさを示してくれていた氷河。
その優しい氷河を、愛の秘薬は一瞬で消し去ってしまったのだ。

半ば悲鳴のような瞬の告白を聞くなり 瞬を抱きしめた氷河は、そのまま瞬を抱き上げ、寝台に運んだ。
衣服を脱がせる時間も惜しいというかのような勢いで、瞬が身に着けていたものを乱暴に引き剥ぎ、瞬の身体に自身の身体を重ね、瞬の肌に むしゃぶりついてくる。
いったい これは、あの優しかった氷河と同じ人間なのかと、口中に舌を押し込まれながら、瞬は疑わずにいられなかった。
すぐに、こんなことをする氷河が、自分がこれまで接してきた氷河と同じ人であるはずがないと、瞬は理解したのだが。

氷河が 他の誰かを思っていることを知らされ、そんな氷河は嫌だと思った。
他の誰かではなく 自分を見てほしいと願いもした。
けれど、こんなことをされたいと思ったわけではない。
しかし、そんなことを氷河に訴えることもできない。
あの優しかった氷河を こんなにも乱暴で性急な男に変えたのは、他の誰でもない瞬自身だったのだから。

唇を犯され、肌を犯され、当然のことながら 身体の内側も犯される。
氷河は、何のためらいもなく、それをした。
瞬と一つに つながっている間、氷河は言葉を解さない獣と同じで、瞬に対して優しさや思い遣りめいたことを かけらほどにも示してくれなかった。
これが 愛の神の生む愛というものなのだろうか。
力づくで瞬に身体を開かせ、その中に押し入り、そこにある熱と やわらかさの刺激に歓喜して 呻き、瞬を更に奥まで蹂躙するために 瞬の悲鳴を無視して 彼自身を瞬の中に捩じ込んでくる、この振舞いが?
瞬の身体を乱暴に揺さぶり、彼自身も 浅ましい動きを繰り返し、その成果を瞬の中に吐き出すことが?
我が身に何をされているのか理解しきれずにいる未熟な子供の身体を抱き起し、抱き抱え、自分の上に無理に座らせて、二つの身体を一つにつなげようとすることが?

何度 終わっても、すぐにまた瞬に飛びかかってきて、瞬が 『やめて』と泣いても、『離して』と懇願しても、『これ以上は無理』と訴えても、氷河は自分の望みを叶えることしか考えていないようだった。
否、氷河は おそらく何も考えていなかった。
何事かを考えていたなら――考える力があったなら、氷河は、瞳から涙を あふれさせ、口では『やめて』と言いながら、我が身を犯している者より はるかに深く、はるかに激しく、飽くことなく幾度も繰り返して 歓喜の極みに達している瞬を認め、その矛盾、その弱さを揶揄するくらいのことはしていたに違いないのだ。

こんな交わりが愛だというのなら、そんなものを瞬は望んでいなかった。
だが、その望んでいない行為の中で、氷河が自分しか見ていない、氷河が自分だけを求めていると思えることが、瞬の身体だけでなく心までをも 狂気のような歓喜で満たしていくのだ。
瞬自身 気付かぬうちに、瞬の『やめて』や『離して』は『もっと』に変わってしまっていた。
それらの言葉も 最後には声にならず――涙も悲鳴も出せなくなり、瞬は 生きて呼吸できていることが奇跡に思えるような状態になってしまっていたが。

やがて、やっと満足して瞬を解放した氷河が、瞬の横に倒れ込む。
氷河の重みが自分の上から取り除かれた その瞬間、瞬は ごく短い安堵の時間を持つことができた。
そして、その2、3秒後には、瞬は、身体の力をすべて氷河に奪われてしまったような感覚に囚われ、今 気を失えば、自分は このまま死んでしまうのではないかという恐怖にも似た不安を覚えることになったのである。
だが、もはや、手足も瞼も意識も――自分の意思で動かせるほどの力が残っていない。
手足も瞼も意識も――すべてが重すぎて、それらが どこか深みに向かって沈んでいくことを止められない。
重力への抵抗は1秒と もたなかった。
瞬の意識と身体は そのまま眠りの淵の深みに引きずり込まれてしまったのである。

愛の神が作った愛を生む秘薬が 情欲を生む薬でしかないのであれば、次に目覚めた時、氷河は自分にどんな目を向けてくるのだろう。
軽蔑か、後悔か、それとも新たな情欲なのか。
そのどれであっても、それは 自分の望むものではない。
自分が氷河に望んでいたもの――それが何だったのか、どんなものだったのか、具体的なイメージを結ぶことはできないにもかかわらず、それだけは瞬にはわかっていた。
この人に愛されることができたら どんなに幸福になれるだろうと思った人を、自分が失ってしまったことだけは。
他ならぬ自分の手で消し去ってしまったことだけは。

では、自分に残された希望は もう ただ一つだけしかない。
“兄を救う”――兄を救わなければならない。
深い眠りの中に引きずり込まれる直前、瞬の意識の中にあったのは その一事だけだった。






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