「で?」
と、紫龍が氷河に水を向けたのは、自分のグラスを返却棚に戻した瞬の姿がカフェテラス内から消えて まもなく。
「で、とは?」
何を訊かれたのか、かなり本気で わかっていないらしい氷河が、紫龍に反問してくる。
手応えの感じられない氷河の応答に、紫龍は顔を歪めた。
否、彼の表情は、氷河の返答を聞いて 自然に歪んだのだ。
「ごまかすな。瞬が何か言うたび、青くなったり、暗くなったり、引きつったり。俺たちは、伊達に 十何年も異常なおまえの友だちをしているわけじゃないんだ。嫌でもわかる。いったい 瞬との間に何があったんだ」
「な……何も」
「何もないわけねーだろ! 何もなかったんなら、なんだって おまえが急に 普通の男になりたいなんて言い出すんだよ。十数年間、平気で 異常な男で い続けたおまえが!」
「……」

随分な言い草ではあったが、星矢の主張は ある意味では真実を突いたものだったのだろう。
十数年間 異常な男の友だちで い続けることのできた二人の追求を逃れることは不可能と判断したらしい氷河が、やがて観念したように両の肩から力を抜く。
「瞬との間に何かあったわけじゃない」
と前置きをし、更に1分間ほど逡巡する様子を見せてから、氷河は 自分の身に何が起こったのかを、二人の友人に告白してきた。
これ以上ないほど、苦い口調と声で。

「瞬を犯す夢を見た」
氷河は、“苦虫を噛み潰したような顔”というより“苦虫を噛み潰させられたような顔”をしていた。
彼が 自ら望んで そんな夢を見たわけではないので――望んで そんな夢を見ることは、そもそも不可能である――氷河にしてみれば それは、いかんともし難い、困った事態だったに違いない。
“夢を見た”だけだったなら。

「へっ」
予想もしていなかった氷河の告白に、星矢が 間の抜けた声をあげる。
氷河は、2匹目の苦虫を噛み潰したような顔になって、更なる告白(むしろ懺悔)を続けた。
「夢を見ただけならだったら、よかったんだが」
「夢を見ただけならよかった……って、おまえ、まさか、ほんとに瞬を襲ったわけじゃないだろーな!」
「そこまでは しとらんっ!」
それには、さすがに、間髪を入れない否定の答えが返ってきた。
どうして そんな展開を思いつけるのだと言いたげな憤怒の顔で、氷河が星矢を怒鳴りつけてくる。
「そんなことをしでかした後に、平気で瞬と同じテーブルで お茶なんか飲んでいられるか、いくら俺が異常な男でも! だいいち、瞬を襲うなんて、そんなことは俺には不可能だ。いや、誰にだって不可能だ。そんなことをしたら、返り討ちにあって 病院送り必須。瞬の運動神経と、護身術格闘術のレベルの高さは、おまえ等だって知っているだろう!」

「そりゃそーだ」
氷河の釈明を、星矢は あっさりと認め、受け入れたのである。
それは氷河にしてみれば『おまえは瞬に敵わない』と言われたも同然の容認だったのだが、実際 氷河は『俺は瞬には敵わない』と言って自身の潔白を主張したのだから、ここで星矢の素直さに文句を言うわけにはいかなかったのだろう。
氷河は むすっとして口をつぐむことだけをした。
氷河の釈明を いったんは認めた星矢が、しかし それだけでは なぜ氷河が『普通の男になりたい』などという無理な希望を抱くことになったのかの説明になっていないことに気付いて、解せない顔になる。

「なら、それは ただの夢だろ。夢なんて、見たくなくても見ちまうもんだし」
星矢とて、男の氷河が 男の瞬相手の淫夢を見ることを“普通”のことと思っているわけではなかった。
が、それは罪ではないし、罰を受けるようなことでもない。
まして、そんな夢ごときが、この十数年間 平気で異常な男であり続けた男が“普通の男”願望を抱く動機になり得るだろうか。
――と、星矢は疑うことになった。
星矢の疑念の眼差しを受けた氷河が、文句を言いたそうだった顔を、何も言いたくなさそうな顔に変化させる。
そのまま黙り込んでしまった氷河に、星矢同様 紫龍もまた疑念の目を――というより、探るような目を――向けることになった。
そうして 紫龍は、氷河の沈黙の訳を察したのである。
紫龍は、嫌そうな顔で、いかにも不本意そうに、自らの推察を口にした。

「その夢の延長で、自慰行為くらいのことはしたんだろう」
紫龍の推察を、まさか そんなことがと、氷河よりは普通の男である星矢は 一笑に付そうとした。
が、そうする前に、氷河の顔――表情といえるものが消えてしまった氷河の顔――を見てしまったせいで、星矢は そうすることができなくなってしまったのである。
代わりに、星矢は、
「瞬を おかずにしたのかよっ!」
と、氷河を難詰することになった。

「大きな声を出すなっ!」
大きな声を出させたのは誰なのかという顔を、星矢が 氷河に向ける。
星矢は、それでも声をひそめることはした。
「大きな声を出すなって……。おまえさー、瞬は あれでも一応 男なんだぞ、男」
夢は不可抗力だが、惣菜選びは覚醒している人間が自分の意思で行なう行為である。
男の氷河が、仮にも男子の瞬を惣菜に選ぶ。
それは十分に異常なことだった。
それは、さすがの氷河も自覚しているらしい。
彼は、気まずげに 視線を あらぬ方向に泳がせた。

「わかっている。それは自然なことじゃなく、普通のことでもなく、異常なことだ。そんなヘンタイ、瞬に嫌われかねない。だから 俺は、普通の男になりたいと、おまえ等に相談したんじゃないか」
そこまで言われて 星矢は、やっと腑に落ちたのである。
『普通の男になりたい』という氷河の願いの意味するところが、『自分の性的指向を変えたい』ではなく、『瞬に嫌われたくない』であるらしいことには、少しく 引っかかりを覚えないでもなかったのだが。

「おまえの言う“普通”は、つまり、“平凡”でも“人並み”でもなく“ノーマル”か」
「“ノーマル”じゃなく、“ノーマルの振り”だろ」
紫龍の言に、星矢が訂正を入れる。
“普通の男になりたい”氷河の目的が『瞬に嫌われたくない』なのであれば、それは そういうことである。
瞬の前で ノーマルな男でいられれば、自分の性的指向がどうであっても構わないと、氷河は考えているのだ。
星矢の訂正を、氷河は訂正してこなかった。

「瞬に嫌われたら、俺は生きていられない。俺は 瞬が好きなんだ。せめて、友だちとして、いつも側にいたい。俺は 瞬に軽蔑されたくない。瞬に嫌われたくないんだ……!」
同性である瞬を好きな自分を是正したいとは、氷河は考えていない――むしろ 氷河は、瞬を好きで い続けるために“普通の男”になること(その振りをすること)を望んでいるのだ。
それが正しい対処方法なのかどうかということは ともかく、そんな氷河の気持ちは、星矢も わかるような気がしたのである。

「あの瞬に嫌われるとか、軽蔑されるとかって、人間失格の烙印を押されるようなもんだもんなー……」
瞬は寛大にして寛容、際限のない優しさで すべての人を受け入れ、すべての人を許す人間。
それが瞬なのである。
その瞬に嫌われ、疎まれ、避けられ、軽蔑されることは、この世界に生きて存在する価値がないと宣告されるも同然のことなのだ。
「おまけに、その理由が『ホモのヘンタイだから』なんて、目も当てられない」
「そんなことは考えたくもない!」
もう少しトーンが高かったら 金切声といっていいような声を、氷河がカフェのテーブルの上に響かせる。
当人に そのつもりはないのだろうが、滅多に 人、物、事に執着しないがゆえに高慢と思われることの多い氷河の その哀れな様子に、星矢は さすがに同情を覚えた。
そして、これまでより少しだけ真面目に、氷河の願いを叶えるための方策を、星矢は考えてみることにしたのである。

「ノーマルな男ねー。いっそ、女と付き合ってみたらどうだ?」
せっかくの星矢の提案を、
「瞬より可愛い子が、この学校に――いや、この世界にいるかっ!」
氷河が言下に拒否する。
仲間の親切な提案を極めて迅速に却下してくれた氷河の断固とした態度と言葉に、星矢は さすがに むっとした。
「おまえ、ホモのヘンタイのくせして、高望みしすぎだろ! 瞬より可愛い子だあ !? 今のおまえは そんな高望みできる立場じゃねーだろ!」
氷河は本来は どんな高望みをしても許される男である。
たとえば 世界一の美少女や世界屈指の美女を彼女にしたいと望んでも、そう望むのは(氷河なら)妥当で当然と、大抵の人間が得心するに違いなかった。
それだけの美貌と才を、氷河は備えているのだ。

氷河にとっての不幸は、彼が恋した相手が同性だったということより、彼が恋した瞬が(おそらく)世界一の美少女より可憐で清純だろうことの方だったかもしれない。
瞬以上の恋の相手に、氷河は巡り会うことができないのだ。
最初に 最高のものに出会ってしまった人間ほど不幸な人間はいない。
それが最高の美味であったなら、彼にとって 他の食べ物は すべて不味いものになり、それが最高の音楽であったなら、彼は 他のどんな音楽も楽しめなくなり、それが最高の絵画であったなら、彼は他の あらゆる絵画を見ることが苦痛になるだろうから。

「瞬から目を逸らすために 他の女の子を利用するというのは言語道断だが、これは確かに重大で深刻な問題だぞ。万一、自制心がきかなくなって 氷河が瞬への不届きな振舞いに及ぶようなことがあったら、十数年来の俺たちの関係だって崩壊しかねない。何より、それで瞬が傷付くようなことになったら、取り返しがつかない」
「瞬は、摘んじゃいけない花だもんな。清らか、清楚、清純って言われたら、誰だって まず最初に瞬を思い浮かべる。あの瞬をどうこうしようなんて、ほんと、とんでもない話だぜ!」
生涯 変わることのない固い友情、決して揺らぐことのない強い信頼。
それらで結ばれた親友同士、仲間同士。
そう信じてきた関係の中に 余計な一石を投じてくれたのだ、氷河は。
紫龍の懸念に同感し、星矢は 忌々しげに 異常で傍迷惑な男を睨みつけた。

「とにかく、瞬に おまえがホモのヘンタイだってことを知られて嫌われたくないのなら、自制心を養って、オオカミにならないよう 紳士的に振舞うしかないだろ。そんで、命がけでノーマルの振りを続けるんだ!」
叱りつけるように そう言ってから、星矢は情けない顔になった。
我が事ではないが、十数年来の仲間の苦境。
それは、星矢にも笑い飛ばして 済ませることのできる事態ではなかったのだ。
「瞬より可愛い子に出会えなきゃ、一生ノーマルの振りを続けるしかないのか。不毛な人生だなー」
「不毛でも、瞬に軽蔑されたり 嫌われたりするよりましだ!」
ホモのヘンタイであるところの氷河の、一生 せめて瞬の友だちでいたいという健気な願い。
ホモのヘンタイだからといって、彼の願いを軽々しいものと切って捨てるのは、人の道に反することである。

「こればかりは第三者に どうこうできることではないからな」
気の毒そうに、紫龍がホモのヘンタイを見やる。
「まず、なるべく二人きりにならないこと。危ない状況になったら、大きな声で俺たちを呼べ。俺たちが すぐに おまえを殴りに行ってやる」
真顔で氷河に告げる紫龍のそれが冗談なのか 真面目な忠告なのか、星矢は判断に迷い、その場では結論に至ることはできなかった。






【next】