『力になる』と言いはしたが、それは かぐや姫――瞬――を、御所に引きとめ、自分の許に置くための方便。
氷河は、かぐや姫のために(その件で)何かをしてやるつもりはなかった。
もちろん、かぐや姫は実は男だったと検非違使庁に告発するつもりも、得意げに宮中に吹聴してまわるつもりもない。
氷河は ただ、瞬を 家に帰してしまいたくないだけだった。
瞬を側に置きたい。
いつまでも瞬の姿を見ていたいだけだったのである。

だから、内裏内の東宮御所に瞬を運び、瞬のために畳と地鋪じしきを敷き 几帳を立てて御座を設え、
「話せ」
と命じたのは、瞬が抱えている問題(?)の解決を図ってのことではなかった。
それは ただ、瞬を自分の側に置くため、そして、瞬のことを知りたいと思うから。
瞬を絶世の美女と信じて求婚した者たちには、瞬が男子だということは大問題なのかもしれなかったが、氷河には それは問題でも支障でもなかった。
氷河にとって大事なことは、瞬の瞳が清らかに澄んで美しく、その美しさに自分の魂を揺さぶられたという、その一事だけだったのである。

だが、瞬は、世の人々に 男子の自分が絶世の美女と思われていること――そう思わせてしまったこと――を大変な罪だと考えているらしい。
ためらいで できた長い沈黙を示した後、結局 瞬は、検非違使庁に 引っ立てられた罪人のように思い詰めた表情で、氷河に“かぐや姫”の事情を語ってくれたのだった。
「見毒の魔――というのを ご存じですか」
「見毒の魔? 何だ、それは」
「僕に見詰められると、その人が不運に見舞われる。そういう魔です。僕の目は そういう力を持っているんです」
「……」

そんな魔が 自分の目に宿っていると、瞬は本気で信じているようで、氷河の前で瞬はずっと その顔を伏せたままだった。
しかし、氷河には信じられなかったのである。
瞬のあの澄んだ瞳のどこに そんな魔が潜んでいるというのか。
濁りも汚れもない澄んだ泉に魚が住めないように、どんな魔も邪も 瞬の瞳の中では生きていられないだろう。
どんな魔も邪も、瞬に見詰められたら浄化してしまうに違いなかった。
氷河には そう確信できるのに、だが、瞬は そうは思っていないらしい。

「最初の犠牲者は、もしかしたら僕の母だったのかもしれません。僕の母は、僕を産んで1週間後に産褥で亡くなりました。父も、僕が生まれて1年と経たずに」
「偶然だろう」
「ええ。皆、そう思っていたみたいです。僕も それが僕の目のせいだなんて考えたことはなかった。でも、それ以降も、僕に害を為す人、僕に好意を持ってくれる人、身分も性別も年齢も区別なく、僕の周囲の人が 次から次に命を落としたり、不具になったり……。ある時――僕が6つになったばかりの頃、突然 僕に飛びかかってきた野犬がいたんですが、僕が その犬を見詰めたら――恐くて動けなくて、ただ見詰めていることしかできなくて そうしただけだったのに――それだけで、その犬は死んでしまいました。僕、その時 初めて――」
目の前で 突然 猛り狂った犬に死なれ、その時 初めて瞬は、それが自分の目のせいだと気付いた――それが 思い込みにすぎなくても――のだろうか。
幼い子供には、それは恐ろしい出来事だったに違いない。
その時のことを思い出したのか、瞬は膝の上に置いた小さな手を拳にして、きつく握りしめた。

「末期の狂犬病だったんだろう。たまたま その時、呼吸障害の発作が起きただけのこと。ただの偶然だ」
「そうかもしれません。恐ろしい偶然が続いただけだったのかもしれない。でも、それが何十回、何百回と重なると、僕も周囲の人も恐くなる」
「それは そうかもしれないが――」
「だから、僕は、その時から なるべく人を見てしまわないよう、館の内にこもっているようになったんです。もちろん、家に勤めていた家人 郎党には何も知らせずに。そうしたら――」
「おまえの姿を垣間見た新参の家人あたりが、ウチの姫は絶世の美女だと触れまわり、噂が噂を呼んで、求婚者が大挙して押しかけてくる事態になった――というわけか」
「東宮様もきっと、僕のせいで不幸になる。僕、東宮様が お綺麗なのに驚いて、随分 長いこと、東宮様を見詰めてしまいました……」

はらはらと、瞬が その瞳から幾粒もの涙を零す。
許されることなら、伏せられた瞬の顔を上向かせ、その瞳を見詰めて、涙を吸い取ってやりたいのに、瞬はそれは許してくれそうにない。
氷河は内心で思い切り舌打ちをした。
しかし、それにしても、瞬は何と厄介な思い込みに囚われていることか。
見毒の魔など、そんなものがあるはずがない。
他の誰かなら ともかく、瞬の瞳に限って、そんなものが宿ることなどあるはずがないというのに。

「それで死ぬなら本望だ。俺は、今日 おまえに会うまで、母以上に美しいひとなどいないと思っていたのに――」
「東宮様のお母様より僕の方が美しいはずないでしょう」
「……」
瞬は確信に満ちた口調で そう言うが、実際のところはどうなのか、それは氷河自身にもわからないことだった。
母を失って10年以上が経つ。
幼な心に母を美しいと思い、そんな母を慕い、母より美しい人はいないと ずっと信じていたが、今 それを確かめることはできない――死んでしまった人に触れることはできないのだ。

「俺の亡くなった母には異国人の血が入っていたんだ。先の帝に愛され、宮中の女共に妬まれ――俺が光る君と呼ばれているのは、姿のせいではなく、その境遇が源氏物語の光源氏に似ているからだ。俺が光源氏、母が桐壷更衣という見立てだな」
「本当に 光る君だからでしょう。東宮様は本当に お綺麗だもの」
「氷河と呼べ。おまえに言われても、馬鹿にされているとしか思えんな」
顔と瞼を伏せた状態で、瞬は氷河が苦笑したことを、気配で察したらしい。
おそらく、瞬の見毒の魔の力を この地上で最も恐れているのは瞬自身なのだろう。
そういう声で、瞬は身悶えするように氷河に尋ねてきた。

「東宮様は恐くないんですか。僕の目が」
「もちろん、恐ろしい。魂ごと吸い込まれてしまいそうな目だ。こんなに澄んで美しい目に魔が潜んでいるなど、信じられない」
「本当なんです。僕に近付く人は、兄以外はみんな……。東宮様の身に何かあったら、僕は どうしたらいいの……」
「東宮様じゃない」
「え?」
「東宮様じゃなく、氷河だ」
「――」

命を落とすことになるかもしれないという こんな時に、呼び名などに こだわっている氷河の のんきに、瞬は焦れ、苛立ち、そして泣きたくなったらしい。
「氷河、死なないでください」
「無論、死なない」
涙声で訴えてくる瞬に、氷河は即答した。
氷河は死ぬつもりなどなかった。
瞬が、その瞳に宿っていると信じている見毒の魔。
そんなものはないのだと瞬に信じさせ、毎日 その瞳を見詰め 見詰められる幸福を手に入れるまで。
そして、瞬の すべてを自分のものにするまで。
魂まで奪われてしまいそうな瞬の あの瞳を見詰め、見詰められながら、瞬と身体を交える歓喜快楽はどれほどのものだろうと思う。
もちろん氷河は、ありもしない見毒の魔になど負けるつもりはなかった。


決して瞼を開けようとしない瞬を組み敷くのも一興かもしれないと思わないでもなかったが、出会った その日に 歌も交わさず 事に及ぶ不粋な男と思われる事態は避けたかったので、氷河は、その夜、瞬の寝所を別に用意した。
事情を聞いた星矢と紫龍は、見毒の魔などというものを本気で信じ恐れている瞬に呆れ、そんな話を聞かされても 全く たじろぐことなく恋の熱にうかされている氷河に呆れ、
「おまえ等、両極端すぎ。信じまいとして、けど不安は払拭しきれない――くらいが、普通の反応だろ」
「特に氷河。おまえは助平心が勝ちすぎているようだぞ。まあ、寝所を別にしたことだけは 褒めてやるが」
と、光り輝く二人を評してくれたのである。
呆れつつ、瞬の寝所の警護につくことを 二人は承知してくれたのだが、その夜、魔が現われたのは、見毒の魔を その瞳に潜ませている(かもしれない)瞬の寝所ではなく、氷河の寝所の方だった。






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