瞬の死は、冥府の王にとっても 思いがけない、不意打ちのような展開だったのだろうか。 冥府の王の力から解放されたかのように 世界を覆っていた薄闇が消え、空は いつのまにか 元の青色を取り戻していた。 陽光に慣れていないのか、巨大な魔犬は 鋭く攻撃的だった牙と爪を収め、光に満ちた青い空の下に つくねんと佇んでいる。 動かなくなった瞬の上体を抱きかかえたまま、氷河は、胸を朱に染めた瞬を 言葉も表情もなく見おろしている冥府の王に問うたのである。 「貴様、自分を冥府の王だと言っていたな。瞬は 貴様の国に行ったのか? 瞬を手に入れて満足か?」 さぞや勝ち誇った答えが返ってくるのだろうと思っていたのに、案に相違して、冥府の王が氷河に告げてきた言葉は 勝利者のそれというより 敗北者のそれだった。 「余が欲しかったのは、生きている瞬だ。清らかさというものは、生きている人間に備わっている時にのみ 輝くもの。醜悪な欲に囚われた人間たちが営む世界の中に存在してこそ 価値あるもの。だから 余は 瞬を この世界の王にしてやろうと思っていたのに、瞬は余を拒み通した……」 「それは残念だったな。この世界の王? 瞬は そんなことは望んでいなかったのに」 つい数日前の氷河が『瞬を この世界の王に』などという言葉を聞かされていたら、彼は そんなものは狂人の たわ言と一笑に付していただろう。 こうして 到底 人のものとは思えない冥府の王の力を見せつけられた今は、冥府の王の言葉を笑うことはもちろん、疑うこともできなかったが。 この漆黒の男は、本気で それをするつもりだったのだ。 本気で、瞬を この世界の王にするつもりでいた。 そして、この男は そうするだけの力も備えていた――おそらく。 人智を超越した力――帝や藤原摂関家の力など、この男には 幼な子が投じる石つぶて一つほどの脅威にも なり得ないものであるに違いない。 まさに神の力。 しかし、その神の力さえ、瞬の拒絶、瞬の意思の前には、1本の藁しべのように たやすく折れるものでしかなかったのだ。 そんなことは、だが、もう どうでもいいこと、考えても詮無いこと、無意味なことである。 瞬の命が失われてしまった今、誰が どれほどの力をもっていようと、それは虚無にも等しい事柄でしかない。 冥府の王の力も、自分自身の無力も、氷河は もはや恐れる必要がなかった。 恐れることなく、氷河は冥府の王に告げた。 「さすがは冥府の王、大した仕事を成し遂げてくれたものだ。だが、貴様には もう一仕事してもらうぞ。俺を殺せ。俺には、瞬のいない世界では 生きていることに意味がない」 母の死後、瞬に出会うまで、希望のない世界で、それでも生きていることだけはできていたのに、瞬という希望に出会い、出会った途端に その希望を失ってしまった。 藤原摂関家の者たちが権力に固執する訳が、氷河は今 初めてわかったような気がしたのである。 最初から 自分に与えられなかったもの、自分には持ち得ないものと思えば 諦めもつき、無くても生きていられる。 だが、それを与えられてしまった者、一度でも己が手に握ってしまった者は、それを失うことが恐ろしくてならないのだ。 それが愛でも 希望でも 権力でも、その力、その甘美を知ってしまったら、知らなかった自分に戻ることはできない。 氷河も、瞬という希望に出会う前の自分には もう戻れなかった。 とはいえ、この命は、瞬が その命をかけて守ろうとした命。 氷河は 自分の手で自分の生を終わらせるわけにはいかなかったのである。 そんなことをしてしまったら、瞬に申し訳が立たない。 こればかりは、冥府の王の力が必要なのだ。 だが、冥府の王は、ほとんど力の感じられない ぼんやりした声で、氷河の要求を拒んできた。 「そなたを殺せば、そなたを瞬と再会させるだけだ。それも、永遠の余の国で――」 それこそが、今となっては氷河の ただ一つの望みだった。 なにぶん 死んだことがなかったので、その願いが叶うものかどうかは 氷河自身にもわかっていなかったのだが、それは決して叶わぬ夢でもないらしい。 氷河は 少しく希望を抱いた。 死を 希望と呼んでいいのかどうかということは、今はまだ生きている氷河には 判断しきれないところがあったのであるが。 冥府の王は、しかし、氷河の ささやかな希望になど かかずらっている余裕はなかったらしい。 「瞬に このような死に方をさせてたまるものか。瞬は、生きるべき命を生き抜いた上で、余の国にやってくるのだ。でなければ、余は永遠に瞬に拒まれたまま――永遠の国で永遠に拒まれたまま……」 冥府の王の顔が恐怖に歪む。 それは彼には耐え難いことなのかもしれなかった。 そして、冥府の王は、もはや氷河の存在など 意識の内に入れてもいないようだった。 「瞬に このような死に方は許さぬ」 呻くように そう言うと、冥府の王は その右手を前方に――瞬の方に差し出した。 その手の先で、瞬の胸にあった小刀が消え、真紅に染まっていた水干が 元の純白に戻っていく。 瞬の上から死が取り除かれていく様を、氷河は目の当たりにすることになった。 冥府の王は――よりにもよって 死者の国の王が――瞬を生き返らせようとしている――らしい。 「貴様、いったい なぜ――」 いったい なぜ、冥府の王が、瞬を死の国から――彼が支配する国から 生者の国に引き戻そうとするのか。 冥府の王の行動、その意図は、氷河には理解しかねるものだった。 しかし、冥府の王には そうしなければならない彼の都合というものがあったらしい――彼は どうしても そうしなければならなかったのだ。 「死した者を生き返らせるなど、生死の理に反すること。決して してはならぬこと。だが、そんなことより、余の誇りの方が大事だ」 それが冥府の王の真意なのか、あるいは(実に考えにくいことだが)冥府の王の中に、愛する者の幸福を願う気持ちが 僅かでも生じたのか――。 そのいずれなのかということを考える時間を、氷河は持つことはできなかった。 冥府の王が 氷河の心を気にかけていないように、氷河もまた、冥府の王の真意どころではなくなってしまったのだ。 瞬の上から、死の痕跡が すっかり消えてしまう。 まもなく 氷河は、美しく澄み温かい瞬の瞳に 見詰められている自分に気付くことになった。 再び 出会うことのできた この瞳の前で、いったい何を言えばいいのか――。 「うんと恰好よく おまえを魔から解放して、俺に惚れ直させるつもりだったのに、俺の方が助けられてしまった」 もっと気の利いたことを言えばいいのにと、氷河は自分で自分に呆れていたのだが、そんな氷河に、瞬は優しい微笑を向けてくれた。 「氷河がいてくれたから、僕は彼と対決する勇気が持てたの。臆病な僕は、これまで ずっと、ただ恐れることしかできずにいたのに」 世界は、光で あふれている。 冥府の王の姿は、いつのまにか消えてしまっていた。 愛する者の幸福を、自らの生と死を超えて願う心、その思いこそが、人が真に生きるということなのかもしれない。 冥府の王は、彼自身が その事実に気付いていたかどうかは わからないが、瞬の その思いの強さに負けたのだ。 希望を生み、勇気を生み、あらゆる喜びを生む、その心、その思い。 彼の希望と歓喜そのものである人を、今度こそ本当に、氷河は その腕と胸に抱きしめていた。 そうして。 都が不気味な薄闇に包まれた その日、物語のかぐや姫が月の世界に帰ってしまったように、二人の姿は忽然と御所から消えてしまったのである。 かぐや姫は 実は 光る君を月に連れ帰るためにやってきた月の世界の姫だったのだという噂が、京の都で まことしやかに囁かれるようになった頃、星矢と紫龍の許に ひっそりと一通の文が届けられた。 それは、須磨からの献上品を御所に運んできた漁師が とある荘園の主から託された文で、差出人の名はなく、ただ『この世の最高の幸せがどんなものなのかを見せてやりたいから、遊びに来い』とだけ記されていた。 終
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