瞬の涙は乾きかけていた。 好青年のパニックは鎮まり、逆に氷河の怒りは深さと冷たさを増している。 沙織は もちろん、彼女の聖闘士や 未来からやってきた青年の心情感情など意に介するふうもなく、いかにも偉大な女神らしい堂々たる落ち着きぶり。 悪びれた様子もなく ラウンジ中央の肘掛け椅子に陣取り、彼女の聖闘士たちと(元)未来人を その前に並び立たせ、彼女は 星矢たちに、 「昨々年 亡くなった作家のヤギラ ケンを知っている?」 と尋ねてきた。 氷河は口をきく気になれず、瞬は 口をきけない状態。 星矢は その名を知らない。 必然的に、沙織の質問に答えるのは 紫龍の役目になった。 「小説は読んだことはありませんが、評論は数冊 読んだことがあります。確か、小説では、1ジャンルで1作品しか出さないことで有名な作家だったはず」 「ええ、そう。歴史小説、推理小説、恋愛小説、冒険小説、経済小説、幻想小説に児童文学や官能小説まで、ありとあらゆる創作ジャンルで 作品を発表し、それが ことごとくミリオンセラー。1冊 小説を発表するたび、そのジャンルの評論を出して、どんなに人気を博しても、同じジャンルの別作品を執筆することはしなかった、気難しいので有名な作家」 「それが、どうか?」 「それが 彼のお父様なのよ」 「――」 好青年は、未来からやってきたのではない。 あっさりと そう言ってくれた沙織に、アテナの聖闘士たちは あっけにとられた。 彼女の聖闘士の前に突然 現われた沙織の態度が、女神アテナというより、グラード財団総帥のそれだったので、嫌な予感はしていたのだが、やはり これは沙織の悪巧みだったらしい。 氷河を苛立たせ、瞬を泣かせた好青年は、人類の滅亡を阻止するために未来からやってきた氷河の曾孫ではなかったのだ。 「グラードピクチャーエンターテインメントでは今、彼の未発表の遺稿である作品を映画化する企画が進行中なの。ジャンルは、なんとSF。ストーリーは、彼があなた方に説明した通りよ。世界を滅亡の危機から救うために、自分の消滅を覚悟して過去に飛んだ青年の物語。とはいえ、その作品の最大の特色は、ジャンルではなく 形式なの。彼の絶筆でもある その作品は戯曲形式で書かれているのよ。まるで映画化してくれというように」 「あのヤギラケンが戯曲? 戯曲を書いていたんですか、彼は?」 作家の作品は、硬い文章で書かれた評論しか読んだことがなかった紫龍には、それは意外すぎることだったらしい。 沙織は 紫龍に頷き、そして、亡くなった作家の息子に一瞥をくれた。 「で、先月、その主役のオーディションを実施したの。本当のことを言ってしまうとね、オーディション実施前に、C国際映画祭で男優賞をとった ある俳優が その主役を演じることが ほぼ決まっていたのよ。ところが、そのオーディションに 原作者の息子がやってきた。話題性としては十分よね。でも、彼は舞台俳優で、映画やテレビ等の映像メディアでの実績が足りない。つまり、知る人ぞ知る存在で、一般には ほぼ無名。舞台俳優は 演技が大仰という問題もあるわ。監督は、最初は 脇で使うことも考えたようなのだけど、どうも原作者は 自分の息子を作品の主人公のモデルにしていた節があって――監督は彼に作品に出てもらうなら、主役しかないと感じたらしいのね。それで、彼を使うか、既に名の知れている俳優の方を使うか、スタッフの間で揉めて――。多分、監督は、どうしても 彼を使いたかったんでしょう。でも、まあ、こういうことは、協賛、タイアップ、芸能プロダクションとのバーター等、いろいろな しがらみがあって、主演俳優の交代は容易なことではないの。私は監督の意を酌み、他のスタッフの手前を考えて、彼をテストすることを提案した。テスト内容は私が考えたわ。原作の内容を なぞって、彼が 自分を ある人の子孫だと信じさせることができたなら、彼を その役に抜擢することにしましょう――って」 SFが絡んだ実写映画となると、映画の製作費は数十億、へたをすると百億を超えるに違いない。 それほどの作品の主役を、そんな乱暴な やり方で決めようとは。 アテナの聖闘士たちは呆れて物も言えなかったのである。 そんなテストを思いつく沙織も沙織だと思うが、そのテストの相手が氷河というのは、色々な面で あまりに特殊すぎるではないか。 「なんで、氷河だったんだよ……?」 疲れた口調で、星矢が尋ねる。 「もちろん、テストの難易度を上げるためよ。氷河が瞬以外の誰かに恋をするなんて考えられないわ。自分が他の女性との間に子供を儲けるなんて、氷河には到底 受け入れ難く 信じ難い話。つまり氷河は、彼にとって、最も騙しにくい相手、そう簡単に騙されるはずのない相手よ。いいテストでしょ。それに、嘘でも何でも 自分の子孫が出てきて、その子孫に そういう話を聞かされたら、氷河は瞬に告白せざるを得ない状況に追い詰められるだろうと思ったの。主演俳優のテストもできて、煮え切らない氷河の背を押すこともできる、一石二鳥。これは、恋に苦悩する私の聖闘士をどうにかしてやりたいと考えた私の、いわば親心よ」 「何が親心だ! おかげで俺がどんなに――」 「ほんと、このテストの様子を映像に収めておけばよかったと、私、途中で心から後悔したのよ。それだけでも、かなり面白い作品を1本 作れたでしょうに」 「沙織さん!」 沙織は、氷河の苦情も非難も受け付ける気はないようだった。 氷河の怒声を遮ったあげく、氷河の怒りを華麗に無視して、未来からやってきた好青年 改め、主役志願の有名作家の息子に向き直る。 「騙そうとしていた時には騙し切れず、騙すのをやめた途端、騙すことに成功したなんて、皮肉な結果ね」 それは称賛なのか、皮肉なのか。 沙織を よく知るアテナの聖闘士たちは 判断に迷ったのだが、主役志願の有名作家の息子は 沙織の その言葉を称賛とは受け取らなかったようだった。 「もういいんです。僕のしたいことに反対ばかりする父に反発して 家を出て、僕は父の死に目にも会えなかった。その父の遺作、しかも戯曲。その上、あの作品前半での主人公の優柔不断は、どう読んでも、僕そのものだった。だから、僕は どうしてもあの作品の主役を演りたかったんです。ですが、瞬さんを泣かせてまで、父の作品に固執することは、僕にはできない」 主役志願の有名作家の息子は、そう言って力なく左右に首を振った。 沙織の話に 半ば自失状態でいた瞬が、主役志願の有名作家の息子の落胆の様を見て、はっと我にかえる。 無理難題としか思えない沙織のテストに 本気で挑戦するほど叶えたかった望みを諦めかけている彼を、瞬は放っておくことができなかったらしい。 「そんな……簡単に諦めないでください。お父様の遺作なんでしょう? 小説や評論だけを書いていた作家さんが戯曲だなんて――。お父様は その作品を、演劇を志している自分の息子のために書いたに決まってるのに。僕、すっかり騙されていましたよ。嘘でよかった……」 「いいえ、僕はもう――」 主役志願の有名作家の息子が 父の遺作の主役を諦める気になったのは、氷河を騙しきれなかった自分の演技力への不安だけではなかっただろう。 瞬の言う通り、おそらく その戯曲は、父に反発して家を出た息子のために書かれたもの。 その作品が映画化されることになり、矢も盾もたまらなくなった主役志願の有名作家の息子は、それこそ大いなる覚悟と決意をもって、そのオーディションに応募したに違いない。 だが――。 主役の座を得るために その役を演じている中で、彼は何か 思うところがあったのかもしれない。 あるいは、主役を演じることで 父の思いに報いることができ、償うことができるという考えを、甘く浅いものと思うに至ったのかもしれない。 そこに加えて、自分が 恋敵の恋の成就のために頑張っていたという事実。 主役志願の有名作家の息子は、傷心(もしかしたら後悔にも)囚われているのかもしれなかった。 肩を落としている主役志願の有名作家の息子に、瞬は気遣わしげな心配顔を向けていたが、沙織は むしろ このテストの結果と成果に満足しているようだった。 そういう顔で、彼女は、主役志願の有名作家の息子に、 「クランクインは1ヶ月後よ」 と告げた。 「最後の最後には 氷河を騙せたと言っていいでしょうし、やはり、この役を演れるのは、あなたしかいないでしょう。まさかあなたが、あの作品の主人公と同じように、若き日の曾祖父の恋人に恋をしてしまうなんて、それは予定外のことだったけど、このテストで あなたが掴んだものを活用しない手はないわ。監督も、この作品は、ほぼ主役に決まっていた俳優より、あなたで撮ってみたいと思っているようだし」 「あ……」 最初から、沙織は そのつもりでいたようだった。 一度は諦める決意をしたものを、ふいに手渡された主役志願の有名作家の息子は、沙織の決定を単純に喜ぶべきか、それとも辞退すべきなのかを 迷う素振りを見せた。 主役志願の有名作家の息子の迷いに気付いた瞬が、彼の上から その迷いを取り除こうとして、主役志願の有名作家の息子より先に 沙織の決定を喜んでみせる。 「よかったですね! 沙織さんの判断に間違いはありませんよ。きっと 素晴らしい作品ができます。僕、氷河と一緒に観にいきますね!」 瞬の優しさや気遣いは、時に残酷である。 星矢は、主役志願の有名作家の息子 改め 主役の失恋男に、心から同情した。 彼は、主役の座を射止めはしたが、恋は失ってしまったのだ。 主役の失恋男が、いかにも無理に作った ぎこちない微笑を瞬に返す。 「はい。すみません。僕は瞬さんを騙すつもりはなかった――いえ、瞬さんを泣かせるつもりはなかったんです」 「騙す気 満々だったくせに、何を言う」 「僕は氷河さんを騙すことができれば、それでよかった……」 極めて正直に 事実を告げる主役の失恋男の その言葉に、氷河が むっとした顔になる。 紫龍が、 「そういえば、その物語の結末はどうなるんですか」 と沙織に尋ねたのは、険悪になりかけている場の空気を和ませるためだったろう。 紫龍の意図を察した沙織が、氷河に口を開かせないために、物語の結末を語り始める。 「原作の主人公は、曾祖父の恋人に恋をして、曾祖父が心変わりする相手である 自分の曾祖母に、曾祖父を会わせようとするの。彼は、一度は自分の恋のために、人類と世界を見捨てようとする。でも、自分の恋した人のため、人類の未来のために、直前で思いとどまる。そうして、彼自身は消えていくの。歴史は変わり、彼の曾祖父と曾祖母は出会うことなく、人類は滅亡の危機は免れるのだけど、でも、そのために自分の存在を犠牲にした彼のことを、誰も憶えていない。彼は 生まれなかった――最初から存在しなかったものになったのだから、それは仕方のないことなのだけどね」 「それは、なかなか切ない結末ですね」 「私が思うに――物語の主人公のモデルは作家の息子だけど、物語のストーリーには作家自身の思いが込められているのよ。作家は末期ガンと戦っていて、自分の死期を悟っていた。残される息子や その周囲の人たちが幸せに生きていてくれるのなら、自分は忘れられてもいい――と」 「そういうのを、本当の親心というんだ。沙織さんの それは間違っている」 沙織の感動的な解釈を、氷河の嫌味が だいなしにする。 無論、沙織は そんなものは柳に風で受け流した。 「沙織さんのテストで いちばん恩恵を被った男が、なに言ってんだか」 いつのまにか、氷河の手は 瞬の手を しっかりと握りしめている。 呆れ顔で そうぼやいてから、星矢は、それが主役の失恋男の傷心を 更に深くする発言だということに気付いて、少し 申し訳なさそうな顔になった。 「ま、人生、いろいろあるさ。にーちゃん、強く生きろよ」 「瞬さんが幸せならいいんです……。おかげで、あの作品の主人公が どういう気持ちで消えていったのかが わかりました。父の思いも――」 「そっか……」 案外 沙織は、主役志願の有名作家の息子に それを気付かせるために、わざと こんなテストを実施したのだったかもしれない。 沙織なら、それくらいのことは平気でやりかねなかった。 「うん。きっと いい作品になるし、沙織さんが絡んでるんだから、まず間違いなくヒットするさ。頑張れよ。未来の大スター」 「はい」 今は 固く つながれている氷河と瞬の手を見やり、人類の滅亡を阻止するために未来からやってきた氷河の(自称)曾孫 改め 主役志願の有名作家の息子 改め 主役の失恋男にして未来の大スターは、星矢の慰めに切なげに微笑した。 Fin.
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