瞬が中学を卒業するのを待って、氷河は瞬を連れて養護施設を出るつもりでいた。
本来であれば 高校卒業までは施設にいることができるのだが、氷河は、彼にとって意義も意味もない者たちと生活の場を共にしていることが煩わしくてならなかったのだ。
暗く貧相なトーンを身にまとっている者たちは――瞬以外の人間は――氷河にとって 小蠅か羽虫のようなものだった。
大きな害はないが、邪魔で鬱陶しい。
不幸な子供たちを そんなふうに感じてしまう自分は 人間として どこかに欠陥を抱えているのだろうと思いはするのだが、氷河は、瞬のように美しいトーンを持たない者たちに同情の気持ちを抱くことが どうしてもできなかったのである。

おそらく瞬がいなければ、自分は人間らしい人間として 人間の世界で生きていることはできない。
瞬だけが、自分を、人間が営む社会、その大地に つなぎとめている唯一の鎖。
瞬がいてくれるから、自分は まがりなりにも人間として生きることができている――。
氷河は、そう思っていた。
言葉にして、瞬に そう告げたことは一度もなかったが。

この10年のうちに幾度か変わった養護施設の施設長に、瞬と共に施設を出たいと告げると、施設長は、
「君たちは、高校を卒業するまで ここに いられるんだよ。法律が そう定めている」
と言って、氷河の申し出を心外に思っている表情を作ってみせた。
そう言う側から、彼の貧相なトーンが濁っていく。
彼が心にもないことを言っているのは、そのトーンの濁りからして(氷河には)明白だった。
その人間のトーンを見れば、その人間が嘘をついているのか真実を語っているのかが、氷河には嫌でもわかった。

嘘をつく時、その人間のシーンは、なぜか少し強く大きくなり、そして 濁るのだ。
たまに嘘をついていないと思い込んで 嘘をつく人間や、嘘をつくことに罪悪感を覚えない人間もいて――そういう時には トーンの意味の判断を誤ることもあるのだが、トーンを見ることのできる能力は、人の真意を知る必要がある時には 非常に有益な力だった。
対峙している人間の考えまでは わからないが、嘘をついていることはわかる。
つまり、その人間の表情や言葉に騙されずに済むのだ。
自分は一生 詐欺の被害者になることはないだろうと、氷河は思っていた。

もっとも この場合は、施設長のトーンが見えなくても、氷河は彼の嘘に気付いていただろうが。
義務教育を終えた子供は、『自立を促すため』という尤もらしい理由で、自治体からの補助金が減る。
その上、昨今は児童虐待や育児放棄のために 親と一緒に置くことが望ましくないと判断される子供が増えていて、そういう子供を引き受けることが お上の覚えをめでたくする――という事態が現出していた。
施設長としては、より多額の補助金を得られる幼い子供を施設に入れ、自分の評価を良くしたいはず。
事実、その言葉とは裏腹に、施設長(のトーン)は、氷河の申し出を歓迎していた。
瞬は小さな子供たちの面倒を よく見ていたので、その退所を惜しむ気持ちがあるようだったが、その気持ちより、扱いにくい子供(というには少々 大きくなりすぎていたが)である氷河を施設から追い払えることの方が、自分にとって有益だと 施設長は考えたのだろう。
氷河の申し出を遺憾に思う振りを 早々に切り上げて、彼は氷河の希望を快く了承してくれたのだった。

氷河は むしろ施設長より 瞬の説得の方に難儀したのである。
「俺と一緒に来てくれ。高校にはちゃんと行かせてやるから」
と告げた氷河に、瞬は、
「氷河も学校を続けるって約束してくれるのなら」
と条件をつけてきたのだ。
氷河の学校嫌い(というより、集団生活嫌い)を よく知っているはずの瞬が そんな条件を提示してくるとは思ってもいなかった氷河は、それが衣食住より重要なことだと考えているような瞬の眼差しに出会って、少なからず戸惑うことになったのである。

学校というものは、各分野の知識の習得の他に、集団の中での振舞い方や 他者との交流方法を学び、社会人として経済的に自立する術を身につけるための場――と、氷河は認識していた。
だが 氷河は、集団に馴染むつもりはなかったし、他者との交流は瞬さえいてくれれば十分と思っていた。
学校での学習や各種の活動に時間を取られることは、生活費を稼ぐ必要がある者には ただの妨げでしかない。
――と言い張ると ややこしいことになりそうだったので、『学ぶことは、学校ではなく 社会でもできるし、今でなくても、いつでもできる。二人の生活の基盤を整えることができたら、俺は その後で大学入学資格検定を取るつもりだ』と言って、氷河は瞬を説得した。

生活面では、あまり不安はなかった。
養護施設を退所して 瞬と二人で暮らしていけるよう、氷河は 中学の頃からバイトをして、そのための資金を用意していたのだ。
バイトといっても、氷河のそれは、コンビニエンスストアやファストフードの販売員といった学生向きの地道な仕事ではなく、養護施設内のパソコンからクラウドソーシングに登録して、主にオープンシステムのアイデアやデザイン、プログラムを提供するという類のものだったが。
最初のうちは日本の中小企業のシステム構築がメインだったが、ある程度の実績を作ると、北米や豪州、東南アジア各国からの仕事も舞い込むようになり、そうなると報酬は桁違い。
10年間の月日を過ごした養護施設を出る際、氷河は、自治体から支給された僅か数万の独立支度金を もったいぶって渡してくる施設長に、『シティバンクNAの俺の口座には、その100倍の残高がある』と言ってしまいたい衝動を抑えるのに苦労した。

今は 部屋を借りるための保証人も金で買える時代。
金があれば、気にくわない人間との関わりを無理に持たなくても、人は生きていけるのだ。
うらぶれた児童養護施設の狭い二人部屋より はるかに快適なマンションの部屋を確保し、ネット環境を整えれば、氷河が瞬と二人の暮らしを始めるのに、何ひとつ支障はなかった。

瞬のトーンは優しく清らかで、常に氷河の気分を快くした。
施設にいた頃から、自分より年少の子供たちの世話をしていた瞬は、家事全般をそつなく こなすこともできる。
見た目は美しく、氷河の性格を熟知しているので、氷河を不快にすることは全くない。
その上、共に人生を生きていくパートナーとして、瞬が無愛想な友人を愛し信じてくれていることには疑いをはさむ余地がない。
瞬と二人の暮らしを始めることによって、氷河は、母を失ってから初めて、不快なものに接することのない、完全に幸福な日々を手に入れることができたのだった。
ただ一つ、週末が訪れるたびに 瞬が、
「仕事熱心なのはいいけど、一日中 部屋の中で端末に向かっていたら、氷河、オタクになっちゃうよ。お陽様の光を浴びに行こう」
と言って、やたらと氷河を外に連れ出そうとすることだけが、氷河は不満といえば不満だったが。

瞬の言うことは実に尤もで、その勧めに従うことは有益だとも思うのだが、そうして外に出ることで、瞬以外の人間の美しいとは言い難いトーンを見なければならないことが、氷河は嫌だったのである。
この世界に生きて存在しているのが瞬だけだったなら どんなにいいかと、氷河は9割方 本気で思うことが しばしばあった。






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