「瞬。まさか、この女を ここに置くつもりじゃないだろうな」 「だって、ナターシャさん、自分が どこから来たのかもわからなくて、行くところもないんだって。しばらく置いてあげようよ。危険な人じゃないよ」 「瞬!」 瞬の言う通り、ナターシャ自身は危険な人間ではないだろう。 それは彼女の委縮したトーンを見ればわかる。 彼女に悪意や害意はない。 だが、ナターシャ自身は危険でなくても――瞬は、どう見ても、ナターシャが抱えている別の危険に考えが及んでいないようだった。 「この女自身に危険はなくても――この女は、あの反社勢力野郎が捜していた女なんだろう? 男二人が暮らしている部屋に 女を引き入れるのにも問題がある」 「……」 反社勢力絡みの危険はともかく、もう一つの危険には言及するべきではなかったと、無言で同居人を見詰め返してくる瞬を瞳を見て、氷河は悔やんだ。 ややあってから、瞬が氷河に問うてくる。 「氷河は、ナターシャさんに危険なことをするの」 氷河は、重ねて、自分の軽率を悔やんだのである。 たとえ冗談でも、瞬に そんなことを訊かれたくはなかった――と。 返答に窮した氷河を、その窮地から救ってくれたのは、なんと瞬が拾ってきた面倒事だった。 氷河と瞬の日本語のやりとりを(幸いなことに)理解できず、のんびりと(?)瞬がいれたお茶を飲んだナターシャが、ふいに、 「クスミ」 と呟く。 瞬は途端に、氷河が口にした二つの危険のことを忘れ、ナターシャの方に視線を巡らせたのだった。 「わかるの? そうだよ、クスミ・ティー。ロシア皇室御用達のロシアティー。嬉しい! 氷河は、クスミも フォションも ブルックボンドも トワイニングも区別がつかないんだよ。わあ、嬉しい!」 おまえを喜ばせることができるのなら、俺だって 紅茶の味くらい覚える! ――と言いかけた氷河を止めたのは、瞬が拾ってきた面倒事が、 「わかるのはクスミだけ。私と同じ名前だから」 という重要な情報を開示してくれたからだった。 「え? ナターシャさんのファミリーネームはクスミなの?」 「クスミチョヴァ」 「あ、それで。うん、そうだよ。クスミ・ティーは、革命で国外に亡命したパーヴェル・クスミチョフさんて人がフランスで展開した紅茶のブランドなんだ。とっても香りがいいよね。これはアールグレイだけど、他にも いろんなフレーバーがあるよ」 にこにこと嬉しそうに、瞬が面倒事に お茶の説明をする。 もしかすると瞬は、これまで お茶をいれるたびに、同居人が『おいしい』と言ってくれるのを、毎日 待っていたのだろうか――? その可能性に、氷河は 今初めて気付いた。 紅茶の味や香りを あれこれ試すなど、養護施設にいた頃には到底 できないことだった。 施設を出て、それができるようになり――そこに同居人の『おいしい』が与えられれば、瞬の喜びは完璧なものになっていたのだ。 氷河としては、瞬のいれてくれる お茶は いつもどれもおいしくて、わざわざ『おいしい』と言う必要はないと思っていただけのことだったのだが。 危険で邪魔な面倒事だが、その事実に気付かせてくれたことに関してだけは 感謝してやってもいい。 そんなことを考えながら、瞬が拾ってきた面倒事に 改めて視線を投じた氷河は、途端に不愉快な気分になった。 見知らぬ場所に連れてこられて委縮しているようだった面倒事が、瞬の人懐こい笑顔に出会って 緊張がほぐれたのか、その顔に(まだ困惑の色は残っていたが、一応)微笑らしきものを浮かべている。 彼女は、記憶を失っているわけではなく、我が身を守るために黙秘権を行使しようとしていたのでもなく――瞬が彼女を拾った公園に 自分がどこから逃げ込んだのかが わかっていないだけだったらしい。 瞬に問われると、面倒事は、一瞬の躊躇も見せず、面倒事自身に関する個人情報を 瞬(と氷河)に提供してくれたのだった。 面倒事の名は、ナターシャ・ペトロヴナ・クスミチョヴァ。 17歳。 つい1週間前まで、ごく普通にペテルスブルクの専修学校に通っていたのだが、その帰宅途中 何者かにさらわれ、おそらく船で、彼女には理解できない言葉を話す者たちの国に運ばれた。 その後、幾度か場所を移動し、計3ヶ所で監禁され続けていた。 4年前に事故で両親を失い、7つ年上の兄と二人暮らし。 生活は、ペテルスブルクの市民としては かなり恵まれたもので、欲しいものは何でもすぐに手に入った。 兄は 何か輸入関係の事業をしているらしく、その仕事の関係で、家には兄の部下のロシア人の他に、アジア系とおぼしき客人が しばしば訪れていた。 兄の名は、アレクサー・ペトロヴィチ・クスミチョフ。 そこまで情報が与えられれば、氷河にはもう十分だった。 今は情報社会、ネット社会。 氷河のハッキング技術をもってすれば、ナターシャの亡くなった父がロシアンマフィアの大物で、4年前に妻と共に暗殺されたこと、父の跡を継いだナターシャの兄アレクサーがロシアンマフィアの日本進出の総責任者であること、ロシアンマフィアの日本進出を快く思っていないチャイニーズマフィアの組織が、アレクサーの事業を牽制するためにナターシャをさらい、同様にロシアンマフィアの存在を煙たく思っていた日本の某反社会的組織に手土産として渡したこと――そういった事柄を、氷河は僅か半日で調べ上げることができた。 「日本側も中国側も 盗難車や薬の売買だけなら目こぼしする気でいたようだが、おまえの兄貴は武器の販売ルートの開拓にまで乗り出したようで、放っておけなくなったらしいな。チャイニーズマフィア、ロシアンマフィア共、本国の勢力は日本のそれとは桁違いで、日本側としては どちらにつくか決めあぐねているというところだろう。まあ、どの国も、国ごとに一枚板というわけではないようだが」 「氷河……それって、マンガの話?」 瞬に そう問われた氷河は、これがマンガの中の話だったなら どんなによかったかと、マンガではない現実を恨めしく思ったのである。 縦にも横にも首を振らない氷河を見て、瞬の頬が青ざめる。 その瞬以上に、ナターシャの頬からは血の気が失せていた。 兄が そんな危うい仕事に従事していたことを、彼女は全く知らされていなかったのだろう。 妹に甘い 優しく有能な青年実業家――くらいに思っていた兄が、ロシアの裏社会組織の幹部の一人だったのだ。 彼女の受けた衝撃は、想像するに余りある。 ともかく、事情がわかった今、氷河としては、瞬の身の安全を図ることこそが緊急かつ最重要の課題だった。 ナターシャがここにいることは、いずれは 危険な者たちの知るところとなるだろう。 敵が、瞬にナターシャを奪われた日本の反社勢力組織だけで済むなら御の字。 ナターシャがここにいると知ったロシアンマフィアが、善良な市民を拉致誘拐犯と見なして襲ってこないとも限らない。 ナターシャがロシア人である氷河の許に身を寄せていることで、日本はロシアと組んだと誤解した中国側が、見せしめの報復を考えることもあり得るのだ。 氷河は、今すぐにでも ナターシャに しかるべき場所に お引き取り願いたかった。 ここは、氷河が瞬と二人で平和で穏やかな生活を営むために用意した家。 マフィアの抗争の火種など場違いも はなはだしいものなのだ。 しかし、お引き取り願うにしても、日本側、ロシア側、中国側、どこに お引き取り願えばいいのか。 3つの陣営のどこに お引き取り願っても、善良な市民は 残りの2陣営の恨みを買いそうである。 かといって、警察に引き渡せば、それこそ3つの陣営を敵にまわすことにもなりかねない。 瞬との平和で穏やかな生活を邪魔する目障りな羽虫程度に思っていたナターシャが、実は とんでもなく強力な破壊力を持つ爆弾だったことがわかり、氷河は頭を抱えることになった。 さすがに事の重大さを理解したらしい瞬も、今は笑顔を消し去り、心身に緊張をたたえている。 それでも瞬は、自分が爆弾を拾ってきたことを悔やんでいる様子はなかった。 ナターシャは危険な人物に追われており、その上、行き場もなかった。 困っている人を助けるのは、人として当然のことなのだ。 瞬の常識、瞬の倫理、瞬の価値感では。 状況を理解すると、より肝が据わっているのは、氷河より瞬の方だった。 緊張感を完全に消し去ってはいないが、元の やわらかい表情に戻って、瞬がナターシャに問いかける。 「ナターシャさんは どうしたいですか? チャイニーズマフィアや日本の反社組織の許に行くのは論外として、お兄さんの許に帰りたい? ずっと ここにいるという手もありますよ」 『冗談じゃない!』と、思わず 氷河は叫びたくなった。 日本か、ロシアか、中国か。 3つの選択肢しかないと思い、そのいずれにするべきかを悩んでいたのである、氷河は。 そこに、『ずっと ここにいる』という第四の選択肢を提示してのけた瞬。 だが、瞬が提示した第四の道は、氷河には絶対に受け入れられないものだった。 ここは、瞬と二人で平和に穏やかに暮らすために 氷河が用意した場所。 余人の入り込む隙間などない――それは、あってはならないものなのだ。 ナターシャは、瞬の優しい笑みと 不快で凍りついているような氷河の目を交互に見やり、しばし考え込んでから、 「兄さんのところに帰りたい」 と呟くように言った。 「マフィアでも何でも、兄さんは いつも私に優しかった。ずっと私を守っていてくれた。兄さんがマフィアでいるのが 私のためなら、やめてって言いたい。兄さんがマフィアでいることを 自分の意思で選んだのなら、私には何も言えない。でも、私は 兄さんの側にいたい」 「そう……」 ナターシャは、瞬よりは常識というものを持ち合わせている人間のようだった。 彼女が『ずっと ここにいたい』と言い出さなかったことに 氷河は安堵し、そして少しばかりナターシャを見直したのである。 委縮していたナターシャのトーンが、今は明確な力をもって 彼女を包んでいる。 心優しく柔和な瞬や、どこか頼りなげなナターシャの方が、いったん腹をくくると、無意味に いきがっている反社勢力組織の構成員などより、よほど たくましい。 氷河は、胸中で こっそり 二人に感嘆したのである。 もちろん、それでも、二人が非力で か弱い人間であることに変わりはなかったのであるけれども。 「おまえが そう言うのなら、話は早い。しかし、おまえがロシアに帰るには パスポートが必要だな。まさか船や飛行機に密航させるわけにはいかないだろう」 「ナターシャさんのお兄さんと連絡をとることはできないの?」 「ロシアンマフィアの幹部に、『おまえの妹は俺たちが預かっている』とメールでも出すのか? たとえ俺たちが この女の命の恩人だと言い張ったところで、せいぜい あの世行きの切符が返礼に送られてくるだけだろう。面子が物を言う世界での拉致監禁事件。身内をさらわれたマフィアが、死人を一人も出さずに事を治めることができるかどうか、実に怪しいもんだな」 平和で穏やかな二人の家で、なぜ こんな物騒な話をしなければならないのか。 同居人の話に眉を曇らせた瞬を見て、少し治まりかけていた氷河の腹の虫は またぞろ騒ぎ始めていた。 偽造パスポートを手に入れる方法はあるだろうが、できれば法に触れるようなことは(瞬のために)したくない。 ナターシャをロシア大使館に放り込んで 祖国に強制送還してもらったとしても、だから二人の善良な市民を不問に処す――というような寛大な判断を、危険な男たちがしてくれるとは考えにくい。 何をしても、どう動いても、日中露いずれかの勢力から逆恨みをされそうで、迂闊に行動を起こすことができない。 瞬とナターシャに、 「対応策を練るのに、少し時間をくれ」 と言っている自分を ふと顧みて、なぜ俺がこんなことを二人に“お願い”しなければならないのかと、氷河はどうにも釈然とした気分になれなかったのである。 |