「違う。おまえは誤解している。俺は 本当は――」
瞬に もう一つの理由――もう一つの真実を知らせるべきか否か。
氷河は暫時 迷ったのである。
彼は、自分が瞬に嫌われる事態を生じるようなことはしたくなかったのだ。
もちろん、軽蔑もされたくなかった。
彼は ただ、瞬に憎まれたかっただけなのである。
そして、瞬に殺されたかった。
瞬は特別な人間だから。
この地上に存在する多くの人間の中で ただ一人の特別な人間だったから。

もう一つの理由、もう一つの真実。
氷河が それを瞬に知らせる覚悟を決めたのは、その真実を瞬に知らせずにいると、瞬がまた 馬鹿な仲間のために 無茶なことを思いついてしまうのではないかと、それを恐れたからだった。
仲間のために、仲間に代わって自分が その師の命を奪おうなどという無茶な考えを、再び 瞬に抱かせるわけにはいかない。

「おまえは誤解している。俺は――俺は 本当は、罪びととして生きていくのが つらくて、生きることをやめたいと思っていたわけではないんだ。罪を犯さず 綺麗なままでいたいだの、自分の生に悔いを残さない人生を 生き直したいだのと、そんなことを考えていたわけじゃない――それだけじゃなかった」
「それだけじゃない?」
「そう。それだけじゃない。俺は 本当は、犯した罪が死で清算されたりしないことを知っていた。おまえが清らかなのは、人のために罪を犯し 自分が汚れることさえ厭わないからだということも わかっていた。死で すべてのことをなかったことにしようと考える俺の心は さもしく、罪を犯した人間でいたくないと願う俺の心が醜いことも、俺はわかっている」
罪を償いたいなら、人は 罪を犯した生の中で それをすべきなのであって、死は その一助にもならない。
何もかも、氷河には わかっていた――わかっていたのだ。

「俺は死にたかったわけじゃない。自分の犯した罪に苦しみ、生きることを つらいと感じ、半ば自暴自棄に陥ってはいたが、それでも俺は死にたかったわけじゃない。俺は おまえに殺されたかったんだ。おまえにだけ、殺されたかった」
「な……なぜ、僕なの」
「人間、いつかは死ぬんだ。どうせ死ぬのなら、天使に殺されたかった――」
そう思う気持ちは嘘ではない。
本当に そう思っている。
瞬に殺してもらえるのなら、それは どれほど幸福なことだろうと、心底から思っていた――思っている。
ただし、それは今でなくてもいい――と。

「天使なんて、僕は そんなんじゃないよ。氷河が自分を罪びとだと言うのなら、僕も同じように罪びとだよ」
「だとしても、おまえは特別な人間だ。この地上で、ただ一人の特別な」
「地上でただ一人――って……。氷河、氷河は もしかしたらハーデスが言っていたことを真に受けてるの? 僕が地上で最も清らかな魂を持った人間だとか何だとか……。あんなの、嘘だよ。嘘に決まってるでしょう。僕は、この地上に生きている ありふれた人間の一人だ。しかも罪びとだよ」
「……罪びとだから汚れているということはない。清らかな罪びともいる。おまえが そうだ」
瞬は、白鳥座の聖闘士の言う“特別”の意味を正しく理解していない。
瞬は 間違いなく特別な人間である。
地上で最も清らかな魂の持ち主。
その上 更に 瞬は、白鳥座の聖闘士にとってだけ“特別”な人間でもあるのだ。

「俺は、おまえと共に生きることができないのなら、おまえに殺されるしか、俺の思いが生きる道はないと思ったんだ」
「共に生きることができない? どうして?」
“特別”の意味が わかっていない瞬が、不思議そうに尋ねてくる。
『どうして? 僕たちは仲間でしょう?』
そんな台詞を瞬に言わせてしまわないために、氷河は、
「おまえは惨酷なことを訊く」
と言って、皮肉に笑った。

『この地上で ただ一人の特別な』を別の言葉に言い換えて説明しなければ、瞬は その言葉の意味するところをわかってくれないらしい。
それほど“別の言葉”は、瞬には 思いもよらない言葉なのか。
少しく自嘲の気分に囚われながら、氷河は その言い換え作業を行なうことになったのである。
「俺がおまえに殺されたいと願ったのは、俺がおまえを好きだからだ」
と。
より正確に言うなら、『おまえだけを好きだから』。
氷河が言い換えた“別の言葉”を聞いて、瞬が その瞳を大きく見開く。

「こんな後悔と嘆きしかない男が、おまえの側にいても、俺は おまえに喜びも楽しみも与えてやれない。そんな自分がみじめだと――不様だと思った。生きていても仕様がないと思った。俺は おまえに ふさわしくない人間なんだと」
「氷河……」
「いや、違う。俺は卑怯なんだ。永遠の愛がほしかった。おまえに殺されれば、おまえは死ぬまで俺を忘れないだろう。そう思った。俺は おまえに忘れられないことを願った。俺の『おまえに殺されたい』は『おまえの中で生きていたい』だ。『おまえに許されたい』だ。そして、『おまえに愛されたい』なんだ」

驚き、呆れ、場合によっては 嫌悪や軽蔑の目を向けられることもあるだろうと覚悟していたのに、氷河の告白――むしろ懺悔――に 瞬が示してきた答えは、氷河が予期していたものとは 全く違っていた。
瞬は――この地上で、氷河にとって ただ一人の特別な人は――地球にとって ただ一つの特別な星である太陽のような明るさを、己れの罪を懺悔した罪びとに手渡してきた。
今 目の前にある秋も、まもなく訪れるだろう冬も どこかに吹き飛ばしてしまいそうなほど明るい笑顔。
その笑顔が、すぐに僅かに歪む。

「氷河は――どうして僕が 氷河を苦しませないために カミュを自分の手で倒そうとしたのだと思ってるの」
「なに?」
「僕は、氷河以外の誰かを そんなふうに甘やかしたりはしないよ。それが星矢でも、紫龍でも、兄さんだったとしても――それが氷河以外の誰かだったなら、僕は、『自分に与えられた試練は 自分の力で乗り越えなきゃならない』と言って、その人を 一生懸命 励ます」
「……」
おそらく瞬は、白鳥座の聖闘士を褒めてはいない。
尊敬してもいなければ、期待してもいない。
瞬はただ、氷河に、『氷河は、僕にとって特別な存在だ』と言っていた。

それは どういう意味なのか。
別の言葉に言い換えてくれなれば わからない。
わからないのに。
瞬は そんな親切をするつもりはないようだった。
ただ 少し恥ずかしそうに、少し戸惑ったように、少し はにかむように、だが ひどく嬉しそうに微笑んでいるだけで。

そんな瞬の前で、氷河は、自分は絶対に死ねないと思ったのである。
瞬に、その言葉を 別の言葉に言い換えてもらうまでは。
いつのまにか、死を願う気持ちは どこかに消え去っていた。
自分が なぜ そんな願いを願っていたのか、氷河は もはや かけらほども思い出せなくなっていた。

「氷河。僕も罪びとだよ。だから、一緒に生きていこうね」
地上で最も清らかな罪びとが、そして もしかしたら地上で最も強い罪びとが、地上で最も可愛らしい笑顔を氷河に向けて囁いてくる。
「ああ」
もちろん、氷河は頷いた。
この地上で ただ一人の特別な人と共に生きること。
それこそが、氷河の、ただ一つの 本当の願いだったから。






Fin.






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