「実際に冬囲いを作る作業は、来月末か来々月頭になります。材料が揃いましたら ご連絡を差し上げますので、その際、作業日を決めましょう」 常日頃 広い庭で助手たちに指図することが多いせいか、下見を終えた庭師の頭領の声は 非常によく通る声だった。 エントランスホールからラウンジにまで響いてきた彼の声は、2階の自室にいる氷河の耳にも届いたのだろう。 それで“他人”たちの退散を知ったらしい氷河が ラウンジにやってきたのは、それから まもなく。 もし本当に氷河が対人恐怖症なのなら、その行動は自然なものなのかもしれないが、星矢は そんな氷河に露骨に疑いの目を向けることになったのである。 「おい、氷河。おまえ、対人恐怖症だってのは ほんとなのか? 瞬がそんなこと言ってるけど」 星矢に問われた氷河は、瞬に ちらりと一瞥をくれてから、いつもと違う様子で、 「それは、実は 俺自身にも よくわからないんだ」 と答えてきた。 そう答えてくる氷河は、態度だけでなく 口調も、星矢たちが知っている氷河のそれとは――瞬が居合わせていない時の氷河の口調とは、微妙に違っている。 わからないと答えてくる氷河の口調は、どこか自信がなさそうで 心許なげ。 わざとらしくない程度に、気弱にさえ感じられるものだった。 「わからない? わからないってのは どういうことだよ!」 『そうだ』という答えが返ってきたら、すぐに『医者に行け』というつもりだった星矢が、あやふやな氷河の返答に、内心で舌打ちをする。 ある人間の嘘を暴くためには、その人間に明確に嘘をついてもらわなければならないのだ。 氷河の返答は、その事態を避けるためのもの――自身を逃げ場のない袋小路に追い詰めない、巧みな逃げ口上だった。 氷河が 嘘にはならない言葉を、重ねて口にする。 「瞬は恐くない」 「瞬は恐くない?」 『瞬は恐くない』という発言は、『瞬以外の人間は恐い』という意味に解することができる。 氷河は仲間たちに言質を取らせまいとしているのだとしか思えなかった星矢は、少しく苛立ち、少々 きつい口調で、 「それは、瞬以外の人間は恐いっていう意味か? おまえは 俺たちも恐いと思ってるのか !? 」 と再問することになった。 途端に、瞬が掛けていたソファから立ち上がり、部屋の入口に立っている氷河の側に駆け寄っていく。 氷河の顔を心配そうに覗き込んでから、瞬は、 「星矢。氷河には もっと優しく話しかけてあげて」 と、訳のわからないことを星矢に要求してきた。 「へ?」 「氷河は繊細だから、あんまり乱暴な声で話しかけられると 恐がるんだよ」 「はあ?」 “繊細な人間”というのは、『ふっ、この氷河に敗北があると思うか! この場で 息絶えるのは聖闘士の道を踏み外した おまえの方だ!』とか何とか 散々偉そうに高言したあげく、卑怯にも 相手の反論を『男の戦いに言葉は不要!』の一言で遮って 拳を放つような男のことを言うのだろうか。 いや、そもそも 繊細な男が 人前で あんな恥ずかしい踊りを踊れるものだろうか。 星矢は、恐るべき瞬の誤認を正すのは 瞬の仲間の義務と考え、すぐに その作業に取りかかろうとしたのである。 が、残念ながら 星矢は 瞬の仲間としての義務を果たすことはできなかった。 星矢が 瞬の誤認を正そうとした時には既に 瞬の目は星矢を見ておらず、瞬は いそいそと氷河の介助作業を開始してしまっていたのだ。 「氷河、大丈夫? 恐がらなくてもいいんだよ。星矢は いつも ちょっと元気すぎるだけで、氷河を恐がらせようとしてるわけじゃないから」 「あ……ああ、大丈夫だ。俺は、おまえが側にいてくれれば 平気なんだ」 「無理しないで。少しずつ慣れていけばいいからね」 「ああ」 「庭師さんたちも帰ったみたいだし、ちょっと庭を お散歩しようか。外の空気を吸えば、きっと気分も落ち着くよ」 「そうだな。おまえ以外の人間のいないところに行きたい」 「うん。そうしようね。今、庭にいるのはコオロギやスズムシくらいだよ」 とか何とか言いながら、歩くのも ままならない病人の介助をするかのように 氷河の背に手を添えて、瞬が氷河と共にラウンジを出ていく。 ちゃっかり瞬の肩に手を置いた氷河の確かな足取りに、星矢は思い切り その顔を歪めることになってしまったのだった。 とはいえ。 氷河を対人恐怖症だと信じ切っているらしい瞬の様子が、氷河が対人恐怖症であるはずがないという星矢の確信を微妙に揺さぶる。 星矢は、まさか そんなことがあるはずはないと思いつつ、紫龍に確認を入れてみたのだった。 「おい、紫龍。氷河の奴は ほんとに対人恐怖症なのか? おまえはどう思う?」 確かに氷河は、大勢の人間の輪の中にいることが似合う男ではない。 だが、だからといって氷河が対人恐怖症を患っているのだとは、星矢には どうしても思うことができなかったのだ。 星矢に問われた紫龍は、 「俺は医者ではないから、無責任なことは言えないが」 と前置きをしてから、彼の見解を語り始めた。 「氷河は もともと 親しみやすい男ではないし、感情を露わにする男でもないが……。対人恐怖症というのは、一見したくらいでは健常者と区別がつかないものらしいぞ。程度や症状も人それぞれで、他者に対して感じる恐怖を 他者にわかってもらえないことが、対人恐怖症を患っている人間には 最もつらいことであるらしい」 仲間に言質を取られまいとする氷河並みに慎重に、紫龍は断言することを避ける。 しかし、そういう まどろっこしい言い方は、星矢の好みではなかった。 「だから、あの氷河が 人に恐怖を感じてる可能性もないではないってのか? 冗談だろ! 氷河が対人恐怖症なら、俺だって立派に鬱病患者で通るぜ」 絶対に そんなはずはないと断言する星矢に会って、紫龍もまた 曖昧な話し方をやめる。 薄く苦笑してから、紫龍は顎を引くようにして頷いた。 「まあ、氷河のあれは仮病だろうな。病気の振りをしていれば 瞬の気を引けるから、氷河は病人の振りをしているんだ」 窓の向こうで 瞬と連れだって庭を歩いている氷河に一瞥をくれてから、紫龍が ほぼ断言する。 やはり氷河が対人恐怖症患者に見えているのは 瞬だけなのだと、星矢は安堵した。 が、すぐに その顔に 憂いの色が浮かんでくる。 「瞬の奴、ガキの頃から 氷河に弱かったもんなー。氷河に笑ってもらうためになら何でもして、実際 笑ってもらえると 滅茶苦茶 嬉しそうにしてさ」 病気なのは むしろ瞬の方なのではないかと、星矢は思ったのである。 あるいは瞬は、常人のそれとは かけ離れた目と感性の持ち主なのではないかと。 いったい、氷河の笑顔に それほどの価値があるだろうか。 瞬には わかるらしい 氷河の笑顔の価値が、星矢には まるでわからなかった。 |