「でも、沙織さん。平和というものは、人が自分の意思で選び 勝ち取るものではなければ 意味がないのでは? 薬で心を操って手に入れた平和なんて……」
人々が望んで得た平和ではなく、薬の力で無理に実現された平和。
それは、本当の平和ではなく、ただ 争い事や いさかいが起きていないだけの状態にすぎないのではないか。
そんな平和は、薬の効力が切れたら すぐに消え去る 儚いものであるに違いない。
それでいいのかと――アテナは本当に それでいいと思っているのかと、瞬は――否、アテナの聖闘士たちは全員が、沙織の言葉を疑うことになった。
アテナの聖闘士たちが――人間が――平和な世界を実現したいと強く望み、そのために 命をかけて戦っているからこそ、アテナは人間の味方をしてくれているのだと、彼等は信じていたのだ。
でなかったら、アテナは彼女の聖闘士たちを率いて 地上の支配を目論む人類の敵たちと戦う必要はない。
神であるアテナには、人間界がどうなろうと――存続しようが 消え去ろうが――何の問題もないのだから。

だが、沙織は今は、女神アテナというより グラード財団総帥であるらしく、平和とはどういうものであるべきかという問題について あまり深く考えるつもりがないようだった。
彼女は いっそ見事といっていいほど あっさりと華麗に、彼女の聖闘士たちの懸念と疑念を無視してくれたのである。
「動物実験は済んでいるわ。もちろん、大成功。惚れ薬の効果には 目をみはるものがあったわ。命や健康に害がないことも確認済み。マウスでの実験も ものすごかったけど、オランウータンでの実験成果がすごかったそうよ。発情期でもない被験体が 朝から晩まで興奮状態で、“組んず ほぐれつ”ならぬ“組んで 組んで 組みまくり”で――」

沙織は沙織で沙織なりに、彼女の聖闘士たちに 動物実験の結果が正確に伝わるよう、臨場感あふれる言葉での説明を心掛けたのだろう。
が、そのわかりやすい説明に 紫龍は眉をひそめた。
「沙織さん。瞬がいるんです。もう少し、ソフトな表現で」
『高潔な処女神に ふさわしい上品な言葉での説明をしてください』などと要求すると、自らの親切心を無下にされた沙織が気を悪くするかもしれない。
それで 紫龍は 瞬を引き合いに出して沙織に自重を促したのだが、自分が はしたない言葉を用いた自覚がないらしい沙織は、紫龍の真意に気付いてはくれなかった。
一度 言葉を途切らせ、ちらりと瞬を一瞥してから、沙織が短く吐息する。
そして、
「もう……。清らかって 面倒ね!」
と文句を言いながら、彼女は ソフトな表現で(?)惚れ薬の成果の説明を し直した。

「だから 要するに、ケストス・ヒマスを飲まされたオランウータンたちは、種の保存に つながらない時期にもかかわらず、飽くことなく性行動に似た行為に挑み続け――とっても仲良くなりまくったんですって」
沙織にとっての“ソフトな表現”がそれらしい。
なぜか疲労感を覚えつつ、しかし 紫龍は 沙織のソフトな説明に安堵もしたのである。
沙織の その説明は、つまり、
「では、人間での臨床試験――治験はまだ行われていないんですね」
という貴重な情報を、アテナの聖闘士たちに与えてくれるものだったから。
治験が まだ行われていないということは、問題の薬が 市場流通には 程遠いところにあるということ、それが さほど切実な問題ではないということなのだ。
沙織が少々 忌々しげに頷く。

「人間での治験は、人道問題、人権問題に発展しかねないから」
紫龍は 明白に、『それがわかっているなら何より』という顔を作った。
瞬や沙織も、紫龍と大差ない表情を浮かべる。
アテナの聖闘士たちが なぜ安堵の様子を見せるのか わかっていないはずはないのに――沙織は 治験を断念する気配は見せなかった。
「ええ。人間での臨床試験はまだよ。人間で試さなければ、ケストス・ヒマスが 心にどんな影響を及ぼすのか、観察も確認もできないというのに。動物実験でわかることには 限界があるわ。この件で 最も重要なことは、ケストス・ヒマスが肉体にどう作用するかではなく、人の心に どんな変化をもたらすかということ。なのに、薬の有効期限も、人間の場合はどれほどなのかということすら、現時点では わかっていない。肉体への影響は、ケストス・ヒマス1滴で、マウスなら2年以上――ほぼ一生。オランウータンなら3ヶ月は続くことが確認できているわ。肉体だけのことなら――人間の肉体だけのことなら、薬の有効期間は、マウス以上、オランウータン以下と考えていいでしょうけど、人間には 動物とは違う心というものがある。一度 好きになったら、肉体への影響は消えても、心には ずっと その影響が残るという可能性もないとはいえない。人の心や感情は複雑だわ。他人には何でもない些細な刺激で 永遠に癒されないトラウマを抱えることもある。ケストス・ヒマスの効力は永遠に有効かもしれない」

沙織が『永遠』などという、存在するのか しないのかも定かでない概念を言葉と声にした時だった。
それまで 全く口をきかずにいた氷河が、
「永遠に有効……」
と、ふいに 独り言のように低く呟いたのは。
その呟きを聞いた途端、そんな氷河に、星矢は危機感を抱くことになったらしい。
「どう考えたって 危険だろ、そんな薬!」
星矢はすぐに自分の反対姿勢を明確にした。
紫龍も、星矢に同調する。
「俺も、その薬を破棄することを勧めます。身体だけなら ともかく――いや、身体だけでも問題なのに 心にまで作用する薬、しかも、その力は永続するかもしれない薬なんて、あっていいものではない。そんな薬を、長い片思いに苦しんでいる男が悪用したら どうなると思いますか。好きでもない相手を、自分の意思にかかわりなく薬の力で 好きにさせられてしまった人間の人権は どうなるんです」

星矢と紫龍が 断固とした様子で 惚れ薬の存在自体に反対姿勢を示すことになったのは、彼等が 問題の薬が もたらすかもしれない具体的かつ身近な危険に気付いたからだったろう。
つまり、氷河による悪用という可能性に。
薬の効能が永遠に続くのであれば、薬によって 強制的に人を好きにさせられた当人は、主観的には不幸にはならないのかもしれない。
しかし、それは、偽りの恋が永遠に続くということなのだ。
“恋”こそは、“平和”以上に、人が 自らの意思で選び取らなければならないものだというのに。

たとえば、薬のせいで 誰かを永遠に愛することになった人間がいたとする。
彼(彼女)人が、“死”等の理由で 愛する人を失った時、残された彼(彼女)は、新しい恋によって次の幸福に至ることはできない。
彼(彼女)は、永遠に失われた恋人を 永遠に思い続けることになるのだ。
得体の知れない薬のせいで。
これほど悲しい永遠もないではないか。
惚れ薬は、争いを収束させる力を持っているかもしれないが、同時に 人を不孝にする力も持っている。
それは存在してはならない薬なのだ。絶対に。
だというのに――だというのに、沙織は あくまで惚れ薬の商品化に固執し続けた。

「そんな簡単に破棄なんてできないわ。言ったでしょう。この薬の開発には 莫大な時間と研究費がつぎ込まれてたんだって。研究開発期間は5年超、研究費は数十億。開発に携わった研究員たちの気持ちの問題もあるわ。本来の目的だった不妊治療薬の方が はかばかしい成果を得ていないだけに なおさら、彼等には 彼等が何事かを成し遂げたという達成感を味わわせてあげたい。それに、そろそろ何らかの 目に見える成果を示さないと、来年度以降の予算をつけてあげられない状況に追い込まれているのよ、医科学ラボは。ケストス・ヒマスは、研究の関係者が 内密に持ち帰って 自分のために使おうとするくらい、確かな効力がある薬。この研究成果をなかったものにするなんて、絶対に考えられないわ」

なかったものにすれば よかった研究成果を なかったものにしなかったから、今 この地上には原爆や水爆の被爆者が存在するのだ――などという反論をしてしまうと、それでなくても ややこしい問題が 更にややこしいことになりそうである。
そう判断して、紫龍は その点に関しては あえて触れなかった。
その点に触れずとも――その点以外にも、沙織は 聞き捨てならない発言をしてくれていたのだ。
『惚れ薬研究の関係者が 内密に持ち帰って 自分のために使おうとするくらい』という、途轍もない問題発言を。

「それは……その惚れ薬を盗んで 自分のために使おうとした者がいたということですか」
それが事実なのであれば、その事実は、ケストス・ヒマスなる薬の効力のみならず、その薬の危険性をも明示するもの。
到底 明るいとは言い難い気分で尋ねた紫龍に、沙織は 唇の端を微かに歪めて頷いてみせた。
「幸い 未遂で済んだのだけど、本来は薬品保管室に入れない人間が 保管室に入室するために悪戦苦闘した形跡があったの。で、ケストス・ヒマスの完成品を 人の出入りの多いラボに置くのは危険だというので、私が自宅に持ち帰ったというわけ。ここのセキュリティシステムは ラボ並みに厳重だし、ラボより ずっと人の出入りは少ないから、ラボに置くより はるかに安全でしょう。ケストス・ヒマスは温度には影響を受けないので、保管は簡単なのよ。常温保存可」
そんなことを言いながら、沙織が無造作にバッグから取り出した高さ5センチほどのガラスの壜には、どくろのマークが描かれたラベルが貼られていた。
それが 噂の惚れ薬であるらしい。

「何だよ、その悪趣味なラベル……」
星矢が 心底から嫌そうに 顔をしかめる。
そんな星矢に、沙織は 軽く顎をしゃくってみせた。
「ハートマークのラベルなんか貼っていたら、すぐに惚れ薬だってことが ばれてしまうじゃない。でも、どくろマークの貼られている壜なら、これは危険な何かなのだと考えて、誰も盗み出そうなんて悪い心を生まないでしょう」
「……」
はたして それは浅慮なのか深慮なのか。
この城戸邸にいる人間の中で最も惚れ薬を必要としている男の前で そんなことを言ってしまう沙織の考えが、紫龍と星矢には理解し難いものだったのである。
惚れ薬に関する情報を すべて開示することは、この場合、牽制として有効だろうか。
沙織は そのつもりなのだろうか。
紫龍と星矢は、そう疑ったのである。
残念ながら、それは深慮ではなく、浅慮の方――恋に関心のない処女神アテナは、惚れ薬の価値というより、恋の価値を軽く見ているだけのようだった。

「人間での臨床試験の実施が困難なようなら、その前に、ポセイドンやハーデスあたりの適当な神で治験するのもいいんじゃないかと、私は思っているの。不死ということになっている神の魂が 成長後の人体に宿るか、生誕前に宿るかの違いはあるにしても、彼等の肉体は 人間のそれと大差はない。神相手の治験なら、人道的問題は発生しないでしょう? 全人類に愛情を感じさせることはできなくても、彼等が誰か一人、人間を愛するようになれば、その人の生きている世界を滅ぼそうなんてことが考えられなくなる。薬の効果が現われなくても、それは これまでと同じ状態が続くだけのことだから、そういう面での問題も生じないわ」
「それは そうかもしれませんが……」

今の沙織は とにかく、ケストス・ヒマスが人間の心身に及ぼす影響の内容を知りたくてならないらしい
沙織の真の目的が奈辺にあるのかは わからないが、そのことだけは、アテナの聖闘士たちには 嫌というほどわかった。
そして、彼等は、沙織が 神の身体を用いて治験をする分には 全く構わないと思ってしまったのである。
神は人ではないのだから、人権はない。
人権を無視して 地上支配を目論むような神々の、人権ならぬ神権を尊重する義理や義務は、人間にはないだろう――と。
「今の瞬が ハーデスとは何の関わりもない 正真正銘の人間だということを、沙織さんが忘れていないのであれば、神が神にすることに口出しする気はありませんが……。その惚れ薬を飲まされた神たちは、沙織さんを恋するようにでもなるんですか」
多分に投げ遣りな気持ちで尋ねた紫龍に、沙織は 素晴らしく無責任な答えを返してきた。






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