その小壜は、沙織がラウンジのリビングボードの上に無造作に置いた時から 2日間、ずっと その場にあり続けた。 アテナの聖闘士たちは、その間、決して小壜に触れることなく、だが ラウンジに入るたび、小壜の有無を気にし続けていた。 小壜が 同じ場所にあることを確認しては、自分の仲間たちに理性と分別があることに――自分の仲間たちが愚か者でないことに――無意識のうちに、あるいは 意識して、心を安んじていたのである。 だが。 惚れ薬お披露目の日から3日目の早朝。 グラード財団 医科学ラボにおいて 不妊治療薬開発の副産物として できてしまった惚れ薬ケストス・ヒマスの入った小壜は、いずこにともなく消えてしまった。 それまで、微妙で奇妙な緊張感の中で保たれていたアテナの聖闘士たちの心の平静は、惚れ薬の小壜の姿と共に、彼等の前から 綺麗さっぱり 消え失せることになったのである。 『ケストス・ヒマスの小壜 行方不明』の報は、即座に沙織の許に伝えられ、沙織は すみやかに 彼女の聖闘士たちを 犯行現場に招集した。 アテナの聖闘士たちを招集したと言っても、彼女が その場に呼んだのは、天馬座の聖闘士、龍座の聖闘士、そして 白鳥座の聖闘士の三人のみ。 沙織が アンドロメダ座の聖闘士を その場に呼ばなかったのは、白鳥座の聖闘士に対する女神アテナの親心、もしくは 武士の情けゆえ だったろう。 なにしろ 犯行現場に集められた者たちは全員が(氷河を除いた全員が)、惚れ薬の小壜を盗んだ窃盗犯は白鳥座の聖闘士だと 決めつけていたのだから。 「何だ、その目は」 自分が疑われるのは当然――という考えは、氷河の中にも多少はあった。 だが、物的証拠もないのに、さもしく愚かな窃盗犯の嫌疑をかけられるのは あまりに理不尽だという思いも、彼の中には 厳として存在したのである。 であればこそ、彼は、自らに向けられた仲間たちの疑いの視線に、『その目は何だ』と問うたのだ。 はっきりと『俺を疑っているのか』と問うことは、万々が一 そうではなかった時に、白鳥座の聖闘士が仲間の信頼を信頼していなかったということの証左になってしまうし、『おまえの しわざか』と問われる前に 『盗んだのは俺じゃない』と言い張ることは、白鳥座の聖闘士にかけられた嫌疑を 自ら強め深めることになってしまうから。 もっとも、氷河の そんな配慮や知慮は 全く無意味なものだった。 星矢と紫龍は もちろん 氷河を疑っており、彼等は その疑いの気持ちを隠そうともしなかったのだ。 「おまえ以外に、惚れ薬なんか 盗む奴はいないだろ」 「おまえは、あの薬に随分と興味を引かれていたようだったしな」 問答無用の仲間たちの決めつけに、氷河は いたく気分を害したのである。 不快の念を あからさまにして、彼は彼の仲間たちを睨みつけた。 「どくろマークの壜なんて、何かの悪ふざけと思われて、メイドに捨てられたんじゃないのか」 氷河が提示した可能性の一つが、 「この家の使用人全員に確認したけど、そんなことをした者はいなかったわ」 という沙織の言葉によって否定される。 メイドたちが嘘をついている可能性は、彼女は考慮に入れていないようだった。 それは妥当な判断だったろう。 メイドは 問題の小壜に何が入っているのかを知らされておらず、小壜に貼られていた どくろマークのラベルが悪趣味なものであることは 論を待たない事実。 それを価値あるものと思うことは、メイドたちには到底 無理な話なのだから。 沙織が重ねて、 「念のために、さりげなく瞬にも確認したわ。体調や心情に変わったところはないかどうか。瞬は、特に変わったことはないと言っていたわ」 と報告してくる。 さすがはグラード財団総帥。 ミーティングの事前準備は完璧である。 彼女の許では、だらだらと無駄に時間ばかりがかかるミーティングの開催が許されることはないだろう。 「じゃあ、まだ飲ませてはいないんだな」 沙織の報告を受けて、星矢が ほっと安堵の息を洩らし、安堵の言葉を作る。 それが氷河の気に障った――彼は 大いに気分を害した。 「俺が犯人だと決めつけるな!」 証拠の取り調べはおろか 罪状認否さえ行なっていないのに、有罪が確定している。 これが裁判なら 立派に不当裁判。裁判自体が違法である。 だが、その場にいるのは 判事と検事のみ。 被告人側の弁護士は同席していない。 そして、氷河以外の裁判参加者たちは皆が皆、『窃盗犯は白鳥座の聖闘士』、『窃盗の目的は 瞬に惚れ薬を飲ませること』と、無言のうちに(ほとんど何も考えず)、裁判の開廷前から決めつけている。 そうであるように、氷河には感じられた。 「冗談じゃないぞ! 誰に対して効力を発揮するかも わからないような危険な薬を、俺が 瞬に飲ませるわけがないだろう! 瞬が 俺以外の誰かに入れあげるようになったら、目も当てられない。それが一輝なら まだしも、まかり間違って おまえ等だったりしたら、俺のプライドは ずたずただ!」 判事も検事も横暴だが、被告人たる氷河も かなり失礼である。 しかし、氷河の言い分にも多少は理があると思ったのか、星矢の口調は少し 砕けたものになった。 「でも、ここんち、許可なく部外者は入れないし、あの薬のことを知ってるのは、沙織さんと 俺たち四人だけだ」 「そして、どくろマークのラベルが貼られた小壜の正体を知っている者たちの中では、おまえ以外に、あんなものを必要としている者はいない」 「そうそう。俺は 基本的に そういうことには興味ないし、興味はないけど 女の子には もてるもん。紫龍も、まあ 色々と都合があって放ったらかしにしてるけど 決まった相手がいる。あの小壜の量で全人類を愛し合うようにするのは無理ってことはわかりきっているから、瞬にも用なし。もともとの所有者である沙織さんは 盗む必要はない。となったら、窃盗犯は おまえしか いねーじゃん」 消去法で犯人を決めるというのなら、消去すべきは 犯人以外の全人類でなければならない。 それをせずに 犯人を特定する星矢たちに(しかも、その理由が理由である)、氷河は 思い切り むっとなった。 「まるで俺が もてないような口調ではないか」 「実際、もててないだろ。あんなの必要としてるのは、どう考えても おまえくらいのもんなんだよ」 「だから、俺たちの話を洩れ聞いたメイドがいたとか、猫が盗んでいったとか、カラスが取っていったとか、すべての可能性を考慮しろと 俺は言っているんだ! 物的証拠もないのに、俺を犯人と決めつけるな!」 氷河の訴えは、実に正しい。 完全に正当で、妥当なものでもあった。 おそらく 彼の訴えは認められていただろう。 ここが法律によって定められた国家機関であるところの裁判所の法廷であったなら。 しかし、残念ながら ここは裁判所ではなく――国家機関どころか、私人の私邸の一室なのである。 当然、氷河の主張は通らなかった。 「氷河。おまえは、“ノックスの十戒”、“ヴァン・ダインの二十則”を知っているか」 紫龍が ふいに脈絡のないことを訊いてくる。 その脈絡のなさに、氷河は 眉をしかめた。 「ノックスというのは知らないが、ヴァン・ダインは米国の推理小説家だろう」 読んだことはないが、名だけは知っている。 氷河が答えると、紫龍は浅く頷いてみせた。 「ノックスも 英国の推理作家だ。で、“ノックスの十戒”、“ヴァン・ダインの二十則”は、共に推理小説の お約束を定めたもの。“ノックスの十戒”の第一項に、『犯人は物語の始めのほうで登場している人物でなければならない』。“ヴァン・ダインの二十則”の第十項に『犯人は物語の中で重要な役を演ずる人物でなくてはならない。最後の章で唐突に登場した人物に罪を着せるのは、その作者の無能を告白するようなものである』とある」 「何が言いたい」 紫龍の物言いは、相変わらず まわりくどい。 いらいらしながら、氷河は まわりくどい男に反問した。 「つまり、この場合、名もないメイドは犯人にはなり得ないということだ。猫やカラスは論外だな。ネズミ一匹 入り込めない この屋敷の部屋には、猫やカラスよりは まだ人間の方が もぐり込みやすい」 「そんな理由で……」 そんな理由で、彼等は白鳥座の聖闘士を窃盗犯に仕立て上げようというのだろうか。 そんな無理を通そうとする者たちの方が 自分より はるかに怪しいと、氷河は思ったのである。 「案外、犯人は 本当は おまえ等の方なんじゃないのか?」 「だから、俺たちには惚れ薬を盗んでも 何も益もねーの。益があるのはおまえだけ」 『往生際が悪い』『盗人 猛々しい』と言わんばかりの顔を 氷河に向けて、星矢は鼻を鳴らしてみせた。 「……」 事 ここに至って、氷河は 本格的に不安になってしまったのである。 星矢や紫龍たちが白鳥座の聖闘士にかける嫌疑は 不当 極まりないものだが、状況的には さほど突拍子のないものではない。 だが 氷河は――他ならぬ氷河自身は、犯人が自分ではないことを知っていた。 惚れ薬の入った小壜を盗んだ犯人は、他にいるのだ。 そして その犯人は、あの薬を瞬に使うかもしれない――。 それが、氷河の不安だった。 そうなると、犯人が誰なのかということ、誰が白鳥座の聖闘士に濡れ衣を着せたのかということは 重大な問題ではなくなる。 大事なことは、瞬の心を 誰かに奪われないことなのだ。 「俺は犯人じゃない。そんな危険な薬を盗んで瞬に飲ませるほど、俺は うぬぼれてもいない」 アテナと仲間たちの前で そう断言し、氷河は、不当にして違法な法廷から すみやかに退廷した。 瞬と瞬の心を守らなければならない。 今 氷河を支配している思いは、ただ その一事だけだった。 |