一人の小柄な人間が近付いてくる。
暖かい春の花の色の空気。
その空気の中心にいるのは、春の淡い水色の短衣を身に着けた一人の女の子――いや、違う。
ただの女の子じゃない。
美少女――途轍もない美少女。
自分はもう天国に到着していたんだと、俺は本気で思った。
天国っていうのは暖かいところだったんだと、ほとんど夢見心地で。

俺がまだ死んでないことを 俺に教えてくれたのは、
「瞬さん!」
っていう、おやっさんの声だった。
アクエリアスの氷河の寒さ攻撃は 俺にだけ向けられたものだったらしく、おやっさんは死にかけていなかったんだ。
でも、その人の名前を口にした おやっさんの声は、実際に死にかけていた俺自身の声より 弾んでて、嬉しそうで、九死に一生、地獄に仏を見た人間の それみたいだった。
ともかく、おかげで 俺は知ることができたんだ。
ほとんど あの世に行きかけていた俺を この世に引き戻してくれたのが 瞬さん――乙女座の瞬さん――だってことを。
瞬さんは、アクエリアスの氷河を軽く睨みつけて、
「ちっとも当然じゃないよ。命は大切にしなくちゃ。君、名前は?」
と、俺に名前を尋ねてきた。

何なんだろう、この人は。
春の妖精、花の女神――何に例えればいいのか わからない。
優しい瞳、表情、声。
俺は 瞬さんの姿、佇まい、雰囲気、印象に、半ば 呆けたまま、自分の名を名乗った。
「――オパリオス」
「オパリオス――“色の変化を見る”という意味だね。僕たちの小宇宙が見えてる?」
「あなたのは 温かくて やわらかい薄桃色だ」
「見えているのか !? 」
アクエリアスの氷河が 驚きの声をあげる。
瞬さんの暖かさに感化されたのか、アクエリアスの氷河の声からは、さっきまでの冷ややかさが すっかり消えてしまっていた。
俺を殺しかけてくれた黄金聖闘士の ご親切に報いるべく、俺は思い切り 奴を無視してやったけどな。
その氷河に、瞬さんが、春風みたい微笑を向ける。

「オパリオスっていうのは、オパールの語源になった言葉だよ。彼は貴重な宝石だ」
何か よくわからないんだが――俺は 瞬さんに褒められてるのか?
なぜかは わからないけど、とにかく 瞬さんの言葉を嬉しいと思った俺に、でも 瞬さんは、分別のない いたずらっ子を たしなめるみたいな口調で、また 尋ねてきた。
「オパリオス。君の お母様が 目が見えるようになって最初に見たいものは何だと思う?」
「それは……」
アクエリアスの氷河だけじゃなく、瞬さんも 俺の母さんのことを知ってるのか?
なんでだ?
いろいろ わからないことが多くて、俺は 瞬さんに問われたことに 答えを返すことができずにいた。
いや、違う。
俺は答えにくかったんだ。
だから、答えることを ためらった。
どっちにしても――どんな答えが返ってくるのか、瞬さんは わかってるみたいで、瞬さんは、俺の答えを待っていなかった。

「母一人、子一人なんでしょう? 君は、お母様のためにも、何があっても生きていなくちゃね。自分の命を大切にすることは難しいことかもしれないけど」
綺麗で、優しくて、清らかで、温かい、瞬さんの微笑。
何かもう、瞬さんを見てると、身体だけじゃなく頭も心も溶けてしまいそうだ。
この人も黄金聖闘士――なのか?
この聖域で――ということは、この地上で――最も強い人間――の一人。
到底 信じられない。
だいいち、黄金聖闘士なんかやってるには、綺麗すぎで 可愛すぎるだろう。
アクエリアスの氷河も綺麗といえば綺麗だけど、こいつは 作り物みたいで不気味だ。
でも、瞬さんは生きてて、温かくて、やわらかそうで――俺が これまで出会った中で、間違いなく いちばんの美少女だ。
美少女――といっても、黄金聖闘士なんだから、さすがに俺よりは年上なんだよな?
とても そうは見えないけど、でも年下のはずがないよな?
アクエリアスの氷河は やたらと偉そうにしてて 無駄に迫力があるから、結構 歳がいってるように見えるが、それでも実年齢が かなり若いってことはわかる。
でも、瞬さんは何ていうか、年齢不詳だ。
天使っていうのは、こんなふうなんだろうか。
100年生きようが、200年生きてようが、若くて 汚れを知らず 清らかなまま。
瞬さんは、そんなふうな外見と印象を持っていた。

そんな瞬さんに、母さんのために生きてなきゃならないって言われて――俺は、素直に『はい』と答えなきゃならないような気分になってたんだ。
たった今まで、言いたいことも言わずに我慢して生き延びるくらいなら、言いたいことを言って アクエリアスの氷河に殺される方が ずっとましだと思ってたことも忘れて。
俺が 瞬さんに いい子のお返事ができなかったのは、俺が『瞬さんの言う通りにします』と答える前に、アクエリアスの氷河が脇から口を挟んできたからだった。
アクエリアスの氷河は、天使でも何でもない ただの黄金聖闘士のくせに、瞬さんの言葉に異議を唱えていったんだ。
信じ難い男だ、本当に。

「その考えはおかしい。というより、普通じゃない。人は 普通は自分が可愛いものだ。自分の命が いちばん大切だ。自分の命を大切にするのが難しいのは、おまえだけだ。おまえは 自分の命をもっと大切にすべきだ。でなければ、こいつに説教する権利もない」
何を言ってるんだ、この男は。
瞬さんが 俺のために言ってくれた言葉を 説教だなんて。
母さんのために生きていなきゃならない――『お母様のためにも、何があっても生きていなくちゃね』。
それは説教なんかじゃなく、助言か忠告――いや、優しい思い遣りの言葉だろう。
それ以前に、優しさを示すのに権利が必要か?
百歩譲って、それが説教だったとしても、少なくとも俺は、瞬さんになら いくらでも説教されていたいぞ。

俺はアクエリアスの氷河の言い草に むっとした。
俺でさえ むっとしたのに、瞬さん当人は 腹を立てた様子も見せずに やわらかく微笑んだだけだった。
笑いながら、
「氷河が 普通を語るなんて」
と、からかうように言う。
やっぱり どうしても信じられないけど――瞬さんは本当に黄金聖闘士――アクエリアスの氷河と同等の力を持つ黄金聖闘士なんだな。
瞬さんは、アクエリアスの氷河を まるで恐がってない。
瞬さんに そう言われて、アクエリアスの氷河の方が きまりの悪そうな顔になった。
「こいつだって普通じゃないだろう。まあ、自分から望んで聖域に来る奴は皆、命の価値がわかっていない馬鹿ばかりだが」
いちいち かちんとくることを言う男だな。
俺が普通じゃなくて、馬鹿だと?
自分だって聖域にいるくせに、何を言ってるんだ、この男は。

「俺は聖闘士志望じゃない。命の価値くらい知ってる。金とおんなじくらい大事なものだ。俺は金がほしいんだ。仕事をさせろ」
俺がアクエリアスの氷河に 反抗的な口をきき続けたのは、多分 もう、言いたいことを言って死んでやるっていう投げ遣りな気持ちのせいじゃなかった。
瞬さんが すぐそこにいて――瞬さんなら、平民にも奴隷にも 人としての尊厳を認めてくれそうな気がしたから。
それが正当な要求なら、瞬さんは きっと俺の主張を認めてくれるって思ったから。
瞬さんが側にいるせいで、アクエリアスの氷河を恐れる俺の気持ちは すっかり薄らいでしまっていたんだ。

「お仕事熱心だね。氷河も彼を見習ったら」
「うるさい」
アクエリアスの氷河の冷たく ぶっきらぼうな声音に、瞬さんは動じる気配も見せず、ただ楽しそうに笑っているだけだった。
この人が黄金聖闘士なのか?
アクエリアスの氷河と同じくらい強いのか? ほんとに?
強くてもいいけど、いくら何でも可愛すぎだぞ、やっぱり。

「氷河。ちゃんと修繕してもらわないと、この宮は崩れ落ちてしまうかもしれないって、デミウルゲインさんは言ってるんだよ。氷河は この宮が倒壊してもいいの? ここはカミュが守っていた宮でしょう」
瞬さんは、おやっさんの名前を知ってるらしい。
日焼けしてて わかりにくいけど――瞬さんに そう言ってもらった おやっさんが 母親に褒められた子供みたいに 頬を紅潮させる。
そりゃ、感激するよな。
世界に12人しかいない黄金聖闘士が、自分の名前を覚えてくれてたら。
しかも、こんなに綺麗で可愛い美少女が。
俺なら、生きてる限り――いや、天国に行っても、自慢し続ける。

にしても、カミュっていうのは誰だ。
この宮を守ってたってことは、氷河の前の水瓶座の黄金聖闘士のことか?
その名を出されたからなのか、それとも、アクエリアスの氷河でも 瞬さんの微笑に逆らうことはできなかったからなのか。
アクエリアスの氷河は、ついに、俺たちが仕事に取りかかることを許す気になったようだった。
「わかった」
それは 素直な いい子の お返事には程遠く、いかにも生意気そうな悪ガキの不承不承の返事って感じだったけど、ともかく その返事を聞くと、瞬さんは、やっと聞き分けがよくなった我が子を喜ぶ母親みたいに嬉しそうに、
「うん」
と応じた。

『うん』って何だよ。
黄金聖闘士が『うん』って。
冗談抜きで可愛すぎるだろ。
可愛すぎて――アクエリアスの氷河の気が変わらないうちにと考えたらしい おやっさんが、時を移さず仕事に取りかからなかったら、俺は いつまでも 瞬さんの可愛らしさの衝撃から抜け出すことができずに そこで ぽかんとしていたかもしれない。






【next】