氷河の父である前国王が亡くなるまで、ヒュペルボレイオスとエティオピアは極めて 関係の深い友好国同士だった。 ギリシャのアテナイ王室の姉妹が ヒュペルボレイオス王家とエティオピア王家に嫁いで、そこで儲けたのが氷河の父であるヒュペルボレイオス前国王と エティオピア前国王。 つまり、ヒュペルボレイオス前国王とエティオピア前国王は従兄弟同士だったのである。 彼等の母である姉妹(氷河の祖母と大叔母に当たる)は非常に仲がよく、年に一度は 互いの国を訪問し合うことを続けていた。 その習慣は、仲のよい姉妹が亡くなったあとも、その息子たちが引き継ぎ、両王家の親密な交流はずっと続いていた。 両国の良好な関係が崩れたのは、氷河が生まれて2年ほどが経ったある時。 ヒュペルボレイオスを訪問していたエティオピア国王が氷河の父を殺害して自国に逃げ帰るという事件が起こったのである。 原因は ちょっとした いさかいだったとも、国益に関わる問題での対立が生じたためとも言われている。 その時から、氷河にとって エティオピアは 父の仇が治める国になり、17 になって自らがヒュペルボレイオスの王として親政を開始すると同時に、彼はエティオピアとの国交断絶を断行した。 氷河にしてみれば、ヒュペルボレイオスの民が生きていくために エティオピアの食糧が必要という事情があったにしても、王を殺された国が 王を殺した男の治める国と戦争もせずにいたことは、あまりに異常な事態だった。 氷河が親政を始める前年に、氷河の父の仇であるエティオピア前国王は病で他界し、その息子がエティオピアの王位に就いていたが、氷河にとって エティオピアが父の仇の治める国であるということに変わりはなかった。 父の仇当人が亡くなったからといって、報復せずにいることは、エティオピアという国と王の尊厳を損なうことである。 パンやオレンジのために、ヒュペルボレイオスの国王は父を殺されても その報復もせずにいるのだと 余人に思われることは、氷河にとっては耐え難い屈辱。 両国の交易の事実を知るなり、エティオピアとの国交を断絶し、交易を禁止したことは、氷河にとっては至極当然の決断だった。 父を謀殺した男の治める国――その息子が治める国――に 食糧を恵んでもらうことなどできるものだろうか。 エティオピアは、ヒュペルボレイオスにとって復讐を果たすべき国ではないか。 その考えが間違っているとは、氷河には どうしても思うことができなかった。 だというのに、大臣たちは、国民を飢え死にさせるつもりかと、氷河に幾度も再考を促すのである。 「陛下の ご無念はわかります。けれど、陛下の父君が亡くなられた当時、エティオピアの現国王は 僅か5歳の幼な子で、しかも自国にいたのです。エティオピア現国王は、陛下の父君の死に いかなる責任も負っていない。陛下の憎しみも、復讐心も、エティオピア現国王には ただの理不尽としか思えないでしょう。個人的な恨みより、国の民のことを第一に お考えください」 大臣たちに そう言われるたび、氷河は、 「父を殺されたのは、おまえ等ではないからな」 と応じていた。 「そもそも、国王を殺されて、殺した男のいる国に即座に宣戦布告しなかったことの方がおかしいんだ。王を殺されて、その報復もせずにいることを、おまえ等は おかしいとは思わないのか? おまえ等は、実父を殺されても、その下手人が 毎日パンを買っているパン屋の親父だったら 許してしまうのか? そうではあるまい」 氷河の例え話に 反駁の言葉を失う者。 『しかし、安くて美味いパンを売ってくれるパン屋は、他にはないのだ』と言いたげな顔をする者。 氷河の憤りへの大臣たちの反応は 様々だった。 だが、氷河より はるかに年上で、国政についての知識も 人間についての知識も 氷河より豊富なものを有し、氷河より多くのことを経験している彼等の中にも 誰一人、実父を他人に殺された経験を持つ者はいなかったのだ。 その事実が、彼等に、それ以上 再考を促す言葉を重ねることをさせなかった。 「これでも俺は民のために耐えているんだ。エティオピアに宣戦布告し 全面戦争に突入することは民の暮らしを圧迫するだろうと考えて、戦争にだけは踏み切らずにいる」 「それは有難いことです」 通商大臣が、いかにも含むところのあるような口調で答える。 彼の腹の内に 別の思いがあることを知りつつ、氷河は顎をしゃくって 彼に頷いた。 「民を戦に巻き込まないために、俺は、エティオピア国王に 1対1の決闘を申し込むことも考えたんだ。正義はこちらにある。俺が負けるはずがない。神々も俺に味方するはず」 「それはどうでしょう。エティオピアの現国王は どんな罪も犯していません。彼は、不死鳥のような強さを持つ騎士だとも言われていますし」 国防担当の大臣が 抑揚のない声で そう言い、 「民のために、復讐を忘れることはできませんか」 厚生大臣が 苦悩の色を隠すことなく、彼の王に訴えてくる。 しかし、氷河の心は変わらなかった。 「民のことを思うから、戦をせず 耐えていると言っている! 他国の者共に、父の仇も討てない臆病者と侮られることにも、俺は懸命に耐えているんだ。この上、パンのために誇りを捨てて、父の仇の国に媚び へつらえというのか! それくらいなら、飢えて死んだ方がましだ!」 「我が国の民も、陛下ほど誇り高いとよろしいのですが。民の多くは、我が子を飢えさせないためになら、敵に頭を下げることもするでしょう」 「……」 大臣たちは、氷河の憤りを理解していないわけではない。 そして、氷河も、大臣たちの言いたいことは わかっていた。 ただ 最も重要と思う事柄が異なっているために、両者の意見は どうしても交わることがないのだった。 |