「いっそ、本当のことを氷河に知らせてしまいましょうか。エティオピアと戦争はしないと言っているけれど、戦争を始めなくても、あの子は既に国民を苦しめている」
氷河が庭を立ち去ると、ナターシャは 溜め息混じりに そう呟いた。
氷河を愛するがゆえに、これまで氷河には知らせずにいた秘密。
それを、ナターシャは氷河に知らせようというのか。
ナターシャの呟きを聞いて、瞬は幾度も大きくかぶりを横に振ったのである。
「それだけは、どうかやめてください。事実を知ったら、きっと氷河は傷付きます……!」
「そこは、氷河を傷付けないように――すべてを知らせるのではなく、たとえば、交易を禁止されているにもかかわらず、エティオピアが毎年 こっそりヒュペルボレイオスに食糧を無償で送ってくれていたことだけを知らせるの。そうすれば、エティオピア王の寛大に感謝して、氷河も 考えを改めるのではないかしら」

ナターシャの提案に、瞬は諸手を挙げて賛同する気にはなれなかった。
氷河の気性は、それほど優等生的にできていない。
「そのことを知ったら、氷河は一層 腹を立てて、ますますエティオピアへの憎しみを募らせることになるような気がするんです。父の仇に哀れみを施されるのは侮辱だと感じて、それこそ本気で エティオピアに戦争を仕掛けかねない」
「……」
瞬以上に氷河の気性の激しさを知っているナターシャが そんなことを言い出したのは、それほど彼女がヒュペルボレイオスの民の暮らしを憂えているからである。
そして、それほど彼女が 彼女の息子を愛し、その行く末を案じているから。
いつまでも このままでいてはいけないと、彼女は考えているのだ。

「仇を討っても、氷河は傷付くわ……。あの子は どうして復讐なんてことを考えるようになったのかしら。あの子の周囲に、エティオピア国王への恨み言を口にするような人間はいなかったはずなのに」
「王大后様……」
確かに、氷河の周りに そんな人間はいなかった。
瞬とナターシャはもちろん、この城中に そんなことを口にする人間は一人もいないはずだった。
ヒュペルボレイオスなしでも エティオピアは立ち行くが、エティオピアなしに ヒュペルボレイオスが立ち行かないことは、誰もが知っている事実なのだ。
ヒュペルボレイオス王が 本気でエティオピアを憎むことの危険を、この城の者は誰もが承知している。

「それは 氷河が王大后様を愛しているからです。エティオピアの前国王が殺したのは、氷河の父であり、王大后様の夫だったんです。王大后様を悲しませた者を、氷河が憎まないはずがない。それがエティオピア国王でなくもこの世界を作った創造神だったとしても、氷河はやはり仇を討とうとするでしょう」
「それが、自分の生きている世界を壊してしまうことでも? このままでは、ヒュペルボレイオスの民に餓死者が出る。去年までは、エティオピアからの極秘の援助の他に、我が国の非常時用備蓄があったから 何とかなった。でも それも、おそらく今年の冬のうちに底をつくわ」
「はい……」

氷河もそれは知っているのだ。
知っているからこそ、去年までとは異なり、今年の氷河は 母と瞬の前でも完全に憂いのない笑顔を作ることができずにいるのである。
氷河が『戦争は避けたい』と繰り返すのは、戦争か餓死のいずれかを選ばなければならない時が近付いていると、彼が考えているから。
“父の仇を許す”という第三の道を選ぶことのできない自分を、氷河が知っているからに違いなかった。
氷河以外の誰もが――夫を殺された妻でさえ――ヒュペルボレイオス王が 第三の道を歩むことを望んでいるというのに。
瞬も もちろん 第三の道を望む人間の一人だった。
しかし、瞬には、氷河に第三の道を選ばせる方法を 思いつけなかった。
氷河の場合、理を解いて説得することは逆効果になるのだ。

暗く顔を曇らせた瞬の手を、ナターシャが握りしめる。
王大后の手が不安のために冷たくなっていないことに気付き、瞬は顔をあげた。
そんな瞬の視線を捉え、ナターシャが言う。
「氷河を説得しようとしても無駄なこと。だから、私は、氷河に復讐の無意味を教える方法を考えたの」
「復讐の無意味?」
「ええ。かなりの荒療治よ。瞬、力を貸してちょうだい」
「それは もちろん……。氷河が復讐のことを忘れてくれるのなら、僕は どんなことでもします」
そのためになら、どんなことでもする。
氷河の心を変えるために 死ねと言われたら、そうすることも瞬にはできた。
それほどの覚悟で、瞬はナターシャに頷いたのに、ナターシャが瞬に求めてきたのは、それ以上に苛酷な行為だったのである。
ナターシャは明るい瞳で、
「そう言ってくれると思ったわ。じゃあ、瞬。私を殺してちょうだい」
と、瞬に言ってきたのだ。

「……え?」
自分が何を言われたのか、瞬は咄嗟に理解することができなかった。
「お……王大后様……?」
「あなたが私を殺すの」
「王大后様、急に何を――」
ナターシャは、いったい何を言っているのか。
それで どうして、氷河が父の仇を許す気になるというのか。
瞬には、ナターシャの考えが まるで わからなかった。
ナターシャは、そんなことは大したことではないというように 軽快な口調で、彼女の計画を語り続ける。

「そうすれば、氷河にとって、あなたは 母の仇になる。でも、氷河は 母の仇を討つことはできない。氷河は あなたを殺せない。氷河は あなたを愛しているから」
「王大后様……」
瞬は、一瞬 心臓が撥ねあがった。
ナターシャは もしかすると、あのこと――おそらく氷河が生まれて初めて母に対して持った秘密――に気付いているのだろうか――と。
幸か不幸か、ナターシャは、瞬の心臓の都合など まるで気にしていないようだったが。

「だって、あなたと氷河は、小さな頃から――それこそ 赤ん坊の頃から、兄弟のように育ってきたのよ。母の仇を討つことは、氷河には決して できないわ。そうして 氷河は復讐の無意味を悟る」
二人の秘密が どうこうと慌てている場合ではない。
ナターシャの計画は、荒療治などという 生やさしいものではない。
そんなことをするくらいなら、瞬は、この世界の創造神と一騎打ちをすることの方が はるかに容易なことだった。

「王大后様の お命を危うくするくらいなら、僕自身が100万回死んだ方がずっとましです!」
そう訴える瞬の声が、ナターシャの軽快な それとは異なる悲痛な悲鳴になったのは、ナターシャが本気で その計画を実行しようとしているのだと、瞬が思ったからだった。
ナターシャは 心優しく愛情深い女性で、氷河を心から愛している。
そして、聡明で賢明でもある。
優しく愛情深い人間が 聡明や賢明を兼ね備えていると、その人は、時に恐ろしいほど冷徹になるのだ。
ナターシャは、まさに そういう女性だった。

たとえば、エティオピアとの交易の禁止。
いかに宰相の地位を辞した身であっても、彼女の口出しが 政局に影響を及ぼす可能性があるにしても、彼女が氷河の決定に意見することは、エティオピアの民のためになることだろう。
しかし、氷河の自主性を重んじるがゆえ、彼の自立を願うゆえと言って、彼女はそれをしない。
彼女は、それが氷河のためになり、氷河が王として成長することが、結局はエティオピアの民と国のためになると考えているのだ。
一昨年、昨年と、彼女が政治的に傍観者の立場を貫いていたのは、エティオピアの極秘の援助とヒュペルボレイオスの備蓄食料があれば、ヒュペルボレイオスは何とか餓死者を出さずに冬を乗り切ることができると判断してのことだったろう。
そして 今、彼女が 氷河の考えを変えるための画策を始めたのは、このままでは 今年の冬、氷河の政策のせいで餓死する者が出ると判断したから。

困難には耐えてもらうことができるし、いつかは その忍耐に報いることもできる。
しかし、死は取り返しがつかない。
冷静に そう考えて、彼女は 行動を起こすことにしたのだ。
氷河のため、エティオピアの民のためとなれば、彼女は どれほど無謀な計画も、その強い意思と深い愛情ゆえに、さらりと断行してしまうだろう。
このナターシャの血を受け継ぎ、このナターシャに育てられた子なのだから、今はまだ未熟な王であるにしても、氷河は いずれ英邁な王になるだろうと、瞬は信じていられたのである。
もちろん、ナターシャを信じている。
だが、死は取り返しがつかないのだ。
ナターシャの命をかける計画への協力など、瞬には 到底できることではなかった。
頬を蒼白にした瞬の訴えに、ナターシャが また 明るい声で答えてくる。

「いやねえ。もちろん、死んだ振りをするだけよ。瞬、あなた、ちょっとだけの間だけ、人間を仮死状態にできる薬を作れるでしょう?」
「死んだ振り……?」
死は取り返しがつかない。
その動かし難い事実を、ナターシャは忘れずにいてくれているらしい。
氷河の意識改革計画は本気で断行するつもりのようだが、ナターシャが本当に死ぬつもりではないことを知って、瞬は心を安んじた。

「それは できないことはないですけど……」
「ヒュペルボレイオスの民のためよ。氷河のためでもある。氷河に父の仇のことを忘れさせなければ、氷河は永遠に本当に幸福になることはできない」
「はい……」
それは、ナターシャの言う通りだと思う。
父の復讐に固執している限り、氷河は幸福になることはおろか、英邁な君主にすらなることすらできないだろう。
今の氷河は、不幸な暴君になるための道を ひた走っているようなものだった。

「あなたのハーブ園に そんな薬草があると、以前 言っていたわね。少量なら 心臓の薬になるハーブだとか。それを使いましょう。気分を落ち着かせるための お茶を作ったのに、効き目が強すぎて 心臓を止めてしまったとでも言えばいいわ。過失ということにしておけば、氷河も母の仇討ちを断念しやすいでしょう」
「……」
ナターシャの望む薬は、すぐに用意できる。
だが、どんな薬にも どんな毒にも、絶対ということはない。
瞬は すぐに快く ナターシャに『はい』と答えることはできなかった。






【next】