ヘラの誘惑と その顛末の詳細を 第三者に吹聴してまわるのは気の毒に思えたので――というより、カーサの技に似たヘラの力に言及するのが不快だったので――氷河は、事の次第を 仲間たちに つまびらかにすることはしなかった。 結構な美人に誘惑されたが、断固として拒み続けていたら、その毅然とした態度に感心したのか、存外 あっさりとヘラは退散してくれた――と、決して嘘ではない報告をしただけで。 「ヘラ当人が来たのか? よく よろめかなかったな。沙織さんと争うくらいの美人だったんだろ?」 星矢は、今ひとつ 刺激と面白みに欠ける誘惑劇の内容に、少し不満を覚えているようだった。 が、彼は それ以外の結末があると考えていたわけではなかったらしい。 詰まらなそうにではあったが、星矢は氷河の説明に納得したように軽く首肯した。 「美人というか――少し 瞬に似ていた……かな」 「瞬に? それでよく抵抗しきれたな」 まさか瞬もどきのヘラの顔にカーサの卑しい顔が重なって 誘惑に屈するどころではなかったのだと、本当のことを言うわけにもいかず――言いたくなくて――氷河は 適当にお茶を濁したのである。 「姿が似ていても、あれは瞬じゃない。俺は瞬を愛している。瞬だけを愛している。瞬に嫌われたら、俺の人生は終わりだ。俺は、その判断ができないほど馬鹿じゃない。一瞬の気の迷いで人生を棒に振るほどの度胸も、俺にはないしな」 「そりゃそうだろうけど。でもさー」 星矢の不満は、999人の男を 一人も失敗することなく誘惑してのけた女神なら、何らかの特殊な戦法を繰り出してきたはずなのに、その戦法の説明がないこと――なのだ。 それは わかっていたのだが、星矢の不満を解消してやる義理も義務も 自分にはないと考えて、氷河は星矢の不満顔を そのまま無視した。 「俺はこの手のことで積極的な女が大嫌いなんだ。俺は口説きたい。迫りたい。追いかけたい。逆に、追いかけられると逃げたくなる。逃げられると、追いかけたくなるがな」 「それはつまり、瞬は おまえに対して積極的ではなく 逃げ腰だったということか」 紫龍が余計な突っ込みを入れてくる。 氷河は もちろん すぐに反論しようとしたのである。 いざ反論しようとして、だが、その反論の必要がないことに、氷河は気付いた。 その時――氷河が初めて瞬に 自らの気持ちを伝えた時――瞬は決して逃げ腰ではなかったのだ。 「瞬は積極的ではなかったが、逃げ腰というのでもなく――普通に そこにいてくれたな」 あれは いったいなぜだったのだろう。 積極的でもなく、消極的でもなく――恋の場面で“普通にしている”ということは、実は決して普通のことではない。 なぜ瞬は そんなふうだったのか。 その訳を知りたくて、氷河は瞬の上に視線を巡らせたのである。 言葉にして尋ねなくても、氷河の視線が何を問うているのか、瞬にはわかったはず。 にもかかわらず、瞬が氷河に与えてくれたのは、やわらかな微笑だけだった。 積極的ではなく消極的でもない、ごく普通の微笑が、氷河の心を揺さぶる。 もしかしたら瞬は、ヘラなど及びもつかない誘惑巧者なのではないかと、氷河は ふと思った。 手に入れたはずなのに、完全に自分のものにできたという確信を、どうしても持つことができない――瞬は、その確信を持たせてくれない。 これが瞬の誘惑の術だというのなら、氷河は、永遠に瞬に誘惑され続けていたかった。 「でも、それでヘラも認識を改めて、美人コンテストの開催をやめてくれたんだろ?」 星矢が急に話題を変えたのは、沙織の存在を無視して 二人だけの世界を作り始めた氷河と瞬に呆れてしまったからだったろう。 星矢に話を振られた沙織が、何か困惑しているように、僅かに歪んだ笑みを その目許に刻む。 「この世には 浮気しない男もいるのだということを知ったヘラは、浮気する男の方が間違っているという確信を抱いてしまったようで――間違いは絶対に正してみせると言って、毎日ゼウスにヒスを起こしているわ。1000人目にしてやっと 欲しかった答えを手に入れることができて、だから もう美人コンテストを開催する必要はないと思っているようだけど」 「そりゃ、よかった」 「それが、ちっとも よくないのよね……」 「へ? ちっとも よくない?」 代理美人コンテストの開催中止という目的が達せられたにもかかわらず、沙織が まるで喜ぶ様子を見せないのは、美人コンテスト問題は解決したが、そのせいで 別の新たな問題が発生したからのようだった。 「ヘラのヒスに辟易して、今度はゼウスが馬鹿なことを言い出したのよ。女はすべて浮気者だということを証明するために、いわゆる美男子コンテストを開催する――ってね。浮気は一人でできるものではないんだから、男が浮気する時には 当然同じ数の女が浮気をしている。なのに、男の浮気だけを責めるのは間違っている――というのが、ゼウスの主張。今度の犠牲者は、ハーデス、ポセイドン、アポロン。ハーデスは、『そんじょそこいらの人間風情に ヨの代理が務まるわけがない』とか何とか騒いでいるようだから、瞬、あなた、くれぐれも身の周りに注意してね。ハーデスが、またぞろ、あなたに手を出そうとしてくるかもしれないわ」 「え…… !? 」 「今度のコンテストには、私は一切 関与しないから、氷河も瞬も、私を巻き込むことだけは絶対に しないように」 「な……何を言っているんだ……!」 美人コンテスト開催中止のために 彼女の聖闘士たちを 散々 利用しておいて、自分の上から面倒事が取り除かれた途端に『私を巻き込むな』とは、いくら何でも身勝手すぎるというもの。 その点、アテナは いったいどういう了見でいるのか。 代理美人コンテストの次に 代理美男子コンテスト開催という発想の貧困さは ともかく、なぜ神々は そんな仕様のないイベントに善良な人類を巻き込みたがるのか。 神々の身勝手に、氷河は腹が立って仕方がなかった。 「女は すべてどうだの こうだの、男はみんな ああだの そうだのと……! どうして他人と同じことや他人と違うことを気にするんだ! どうして それで、自分の言動を正当化できると思うんだ。他人が浮気しても、自分が浮気したくないのならしなければいいし、他人が浮気しなくても、自分がしたいならすればいい。その責任は自分一人が負う。それで済む話じゃないか。もちろん、俺は浮気なんかしないぞ!」 氷河の怒りは、至極 尤も。 そして、彼の主張は、正しく正論。 だが、この世界と そこに生きる神や人間が 正論だけで動いているものではないということもまた、厳然たる事実――現実なのだ。 「氷河くらい、他人を気にしない人も珍しいと思うけど」 もはや 神の身勝手に腹を立てる気力もないらしい瞬が、空しい笑みを作って呟く。 その呟きを聞いた途端、氷河は、神の理不尽や身勝手への立腹を忘れてしまったのである。 問題は神の我儘などではなく、瞬の気持ちだった。 「おまえは気にするのか」 「そりゃあ……気にしないと、変人扱いされるでしょう」 「皆が浮気すると証明されたら、おまえも 皆に倣って 浮気をしたりするのか?」 「僕は そんなことはしないけど」 「そ……それは、おまえが俺だけを愛してくれているから?」 今 ここで、瞬が『もちろんだよ』と答えてくれたなら、自分は その瞬間から未来永劫、神のどんな身勝手にも耐え抜くことができるだろうと、氷河は思ったのである。 瞬の その言葉は、自分に無限の力を与えてくれるものだ――と。 もしかしたら 白鳥座の聖闘士が無限の力を得ることになるかもしれない、その問い掛け、その答え。 氷河の人生が かかった氷河の問い掛けに対する瞬の運命の答えは、 「氷河に泣かれたら、僕、対処に困るから」 というものだった。 白鳥座の聖闘士が無限の力を得ることができたのかどうか。 そもそも白鳥座の聖闘士は瞬に愛されているのかどうか――瞬は白鳥座の聖闘士だけを愛しているのかどうか。 世の中には、明らかにしてしまわない方が幸せな謎というものが、確かに存在する。 Fin.
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