翌日。
約束の時刻、約束の場所。
瞬さんは来てないかもしれないって、俺は思ってた。
瞬さんにとって 俺は、行きずりの、通りすがりの、かなり印象の悪い馬鹿な子供にすぎないんだから、瞬さんが 約束を守って そこに来てくれるはずがないって。
でも、それならそれで、瞬さんは『クリスマス・キャロル』に出てくるクリスマスの精霊だったんだって思えばいい。
昨日の夜だけ、俺のために地上に下りてきてくれた天使だったんだと思えばいいんだって、俺は自分に言いきかせてたんだ。
瞬さんが俺との約束を守らなくても、俺は ぐれないし、いじけないし、この世は空しいことだらけだなんて思わないし、もちろん死んだりもしないぞ――って。

なのに。
二人はいた。
ビルの前の広場。約束の場所、昨日と同じベンチ。
ただそこにいるだけなのに、相変わらず目立つ。
周りのみんなが二人を気にして、ちらちら二人の方に視線を投げてるってことは、二人が俺にだけ見える天使じゃないってこと。二人が実在の人間だってことだ。

瞬さんは、俺の顔を見るなり、
「いいことがあったみたいだね」
って言って、嬉しそうに笑った。
白い花が笑うと、花びらが ほんのり薄桃色に染まる。
この人が普通の人間だなんて、本当だろうか。
「クレープは奢らんぞ」
改めて 瞬さんの可愛らしさに――いや、優しさに――感じ入っていた俺に、氷河が脇から水を差してきて――。
別にクレープを奢ってほしくて、俺は ここに来たんじゃないやい。
金髪馬鹿男を上目使いに睨んでから、俺はすぐに瞬さんの方に視線を戻した。
瞬さんの賭けが当たったことを、俺は、なるべく早く瞬さんに報告したかったから。
『明日はもっといいことがあるよ』
あれは、俺の賭けじゃなく、瞬さんの賭けだった。

「母さんが、俺を守るって言ってくれたんだ。世界でいちばん、俺が大切だって」
俺は 多分、初めて電車に乗って 窓の外の景色が走っていくのを見た子供みたいに頬を紅潮させて、俺の“いいこと”を瞬さんに報告した。
“いいこと”っていうのは、それだけだ。
いじめ問題が解決したわけじゃない。
受験に失敗した事実が消えてなくなったわけでもない。
でも、でもさ。
たった一人でも、俺のこと認めて、俺のこと受け入れて、俺のことを好きだって言ってくれる人がいたら、それだけで人は――少なくとも俺は――俺が生きていることには意味があるって気持ちになれたんだ。
それだけで、これからも生きていけるって気持ちに。

「そう。よかった」
瞬さんが心から『よかった』って思ってくれてるのが わかって、俺は、喉の奥が急に熱くなってきた。
瞬さんにとって 俺は、行きずりの、通りすがりの、かなり印象の悪い馬鹿な子供――かなり馬鹿な子供だ。
俺に いいことがあったって、瞬さんには何の得もない。
なのに この人は――心から俺の“いいこと”を喜んでくれてる この人は――この綺麗で幸せな人は、永遠に綺麗で幸せな人でいなきゃならないよって、俺は思った。
愛だの友情だの、夢だの希望だの、まして“永遠”なんてものを信じられるようになったわけじゃない。
でも、瞬さんは いつも そういうものに囲まれていてほしいって、俺は思った――心から、俺はそうであってほしいと願った。
それで俺に得があるわけじゃないのに。
瞬さんが こんなに綺麗なのは、きっと瞬さんの心が澄んで優しいからだ。

氷河は 結局、俺にクレープを奢ってくれた。
ワンランクアップした、生チョコバナナスペシャル・メープルソースがけ。
『馬鹿が馬鹿でなくなった祝いだ』って言って。
瞬さんは、今日もイチゴの、ワンランクアップした生クリームとカスタードクリームのダブルクリーム。
それにしても、あのクレープ屋、いったい いつ来て、いつ帰ってるんだろ。
クレープ屋のトラックが流している音楽は、今日は、妙に軽快にアレンジされた『もろびと こぞりて』。
俺にとっては、『君が代』『冬景色』『荒城の月』と並ぶ四大謎の曲。

あの頃の俺は、『主は来ませり』を『シュワキマセリ』という外国語の呪文なんだと思ってて、それで、『シュワキマセリ』って どこの国の言葉なんだって、瞬さんに訊いたんだ。
氷河は、
「やはりまだ少し馬鹿が残っているようだな」
って、憎まれ口を叩いてくれたけど、瞬さんは優しく教えてくれた。
『シュワキマセリ』――『主は来ませり』は、『救い主は来てくださった』っていう日本語なんだよ――って。

救い主は来てくださった――俺の救い主は来てくれた。
一人は やな奴だけど、瞬さんは綺麗な天使だ。
優しくて温かで、永遠に幸せでいてほしい人。
神様は やっぱりいるんだって思った。
だって、俺は瞬さんに会えた――誰かが 俺を瞬さんに会わせてくれた。
きっと神様はいるんだ。
そう信じたって、俺は何も失わない。

そうして――。
俺が どんなふうに瞬さんたちと別れたのだったか、俺はよく憶えてない。
必要はなくなってたから、写真は撮らなかった。
でも、俺の心は すっかり温かくなっていた。






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