氷河が瞬に恋の告白をしてから10日後、氷河が悲劇の恋人になって10日後、優しかった瞬が急に冷たくなってしまってから10日後。 今は嘆きの家と化した氷河の家を訪ねてきた者がいました。 氷河の幼馴染みで、氷河同様、楽園アルカディアの住人である星矢と紫龍です。 彼等は、氷河が毎日うるさく、『瞬は俺を好きなはずだ! 俺が こんなに瞬を好きなんだから!』と、まるで理屈の通らないことを わめき続けるので、氷河を静かにさせるために、瞬の豹変の訳を探りに出ていたのでした。 あくせく働く必要のない楽園の住人は、基本的に暇を持て余しているのです。 「わかったぞ、氷河。瞬がおまえに急に冷たくなった理由が」 氷河に そう告げた紫龍が浮かぬ顔をしていたのは、その“理由”が はたして氷河を静かにさせることができるものなのかどうかを怪しんでいたからでした。 その理由を聞いた氷河は、もしかしたら ますますうるさくなるだけかもしれないと、紫龍は懸念していたのです。 決して明るくない紫龍の表情を見てとった氷河が、幼馴染みのために 調査の労を取ってくれた二人に、 「瞬が俺を嫌っているから――という理由なら聞かんぞ。そんなことはありえないからな」 と注文をつけてきます。 そんな注文をつける前に、『調べてきてくれて、ありがとう』の一言があって しかるべきだろうと、紫龍の隣りで 星矢は思いました。 「おまえ、その自信過剰、本気で早目に治した方がいいぞ」 氷河に どんな忠告をしても無駄だということは わかっているのですが、やはり言わずにはいられません。 星矢の予想通り、そんな忠告は 全く無意味で無駄でしたけれど。 「この世に、俺ほど謙虚で 偉ぶらない男がいるか。俺は瞬の下僕だぞ」 言うだけなら、それは氷河の勝手です。 星矢は、氷河の思い上がった言葉を しっかり無視して、調査結果の報告を始めました。 「実は、瞬には 2つ年上の兄貴がいたそうなんだ。名前は一輝。親を早くに亡くしたせいもあって、瞬は兄を慕ってて、兄貴は瞬を可愛がってて、すごく仲のいい兄弟だったしい。ところが、今から6年くらい前、瞬が10歳の時、その兄貴が突然 姿を消しちまったらしいんだな。ほんとに突然だったらしい。なぜ消えたのか、自分の意思で消えたのか、第三者の関与があったのか、生きているのか 死んでいるのかも わからない状況。でも、兄貴は生きてるって信じてた瞬は、『自分は 兄に再会できる時まで決して恋をしない。だから、その時まで 兄の命を守ってほしい』と、万神殿で 神々に祈った」 「瞬はなぜ そんな馬鹿げたことを祈ったりしたんだ! いったい何を考えて――」 氷河がまた うるさく騒ぎ出しそうになるのを見てとって、紫龍は すかさず氷河の声を遮り、星矢の説明の続きを続けました。 氷河が不満そうに小さく舌打ちをしましたが、もちろん そんなのは無視です、無視。 「神々は、瞬の その誓いが守られている限り、決して瞬の兄を死なせないことを 瞬に約束した。だが、それは逆の見方をすれば、瞬が その誓いを破れば、今 どこにいるのかわからない瞬の兄は たちまち死んでしまうということだ。だから、瞬は、おまえに好きだと告白されて 危険を感じ、おまえを避けるようになったんだろう」 「……」 それが星矢と紫龍の調査結果でした。 星矢たちの報告を聞いた氷河が、顔を引きつらせます。 それは そうでしょう。 キャベツに青虫がついていたら、青虫の命を惜しんで そのキャベツの収穫をやめてしまうほど心優しい瞬が 兄の命を諦めることは、まず考えられません。 となれば、瞬の兄が行方不明でいる限り、氷河の恋が実ることはない――と考えていいでしょう。 6年も行方不明だった人間が、ひょっこりと今日か明日に帰ってくることは期待薄。 それどころか、瞬の兄は この先50年も行方不明のままかもしれないのです。 それは、氷河の恋は まず実ることはない――ということ。 その事実を突きつけられて言葉もなく呆然としている氷河を見て、星矢は さすがに彼を気の毒に思ったのです。 傍迷惑なほど さわがしい自信過剰男でも、友だちは友だちですからね。 が、氷河が言葉もなく呆然としていたのは――そう見えたのは――決して彼が自分の恋に絶望しているからではなかったのです。 氷河の心と考えは、むしろ 全く逆でした。 「それはつまり、俺と親しくしていると、それが恋に発展する可能性があると、瞬が思っているということだな」 どこまでも自信過剰で、あくまでも前向き思考の氷河。 氷河の元気と前向きさに、星矢は 思い切り脱力して、『こんな奴に同情して 損した』と思いました。 「まあ、そうなのかもしれないけどさー……」 「恋なんて、心の内に 勝手に生まれてくるものだ。自分の意思でどうこうできるものじゃないだろう。なぜ、神々は そんな祈りを受け入れ、そんなことを約束したんだ!」 事実 そうなのかどうかは判断が難しいところですが、氷河は 自称“瞬の下僕”。 当然、悪いのは瞬ではなく、瞬の願いを受け入れた神々の方になります。 ですから、氷河の怒りは、ごく自然に神々の方に向かうことになりました。 神の特別な恩寵を受けて 楽園アルカディアに生まれたというのに、氷河は神々への感謝の気持ちなど ほとんど持ち合わせていなかったようです。 「意思の力だけでは どうにもならない誓いだからこそ、神々も、瞬の兄の命を保障することになる誓いを受け入れたんだろう。意思の力が堅固なら必ず守られる誓いなど、見世物としては面白みに欠けるからな」 「む……」 納得したくはありませんが、納得せざるを得ない見解です。 実際、ギリシャの神々はそういう神様たちでした。 限りある命をしか持たない人間たちが、その限りある時間の中で 泣いたり笑ったり 苦悩したり迷ったりする様を見ることが、ギリシャの神々は大好きなのです。 死ぬことのできない神たちの命や人生(神生?)は、緊迫感も焦慮もなく ひたすら だらだらと続くばかりで、神々はいつも退屈しているのです。 氷河は、不本意ながら紫龍の推察に頷くことになりました。 もちろん、神々の意図がどうであれ、だからといって それで瞬を諦めるつもりは、氷河には全くありませんでしたけれどね。 氷河自身が言った通り、自分の意思で どうこうできないのが恋。 実りそうにないから諦めるなんて、そんなことは 本当の恋をしている者には思いもよらないこと。 身分の違いだの、周囲の者たちの反対だの、敵同士の境遇にあることだの、そんな外的要因によって諦めることができるようなら、それは本当の恋ではなかったのです。 氷河はもちろん、瞬との恋を諦めることなど考えもしませんでした。 「瞬の兄が見付かれば、瞬はその誓いを守らなくてもよくなるわけだ。ならば、瞬の兄を探し出すまで!」 氷河の思考回路は常に直流、ただ一つの目的に向かって まっすぐ一直線。 ゆえに、氷河の結論は 常にシンプルでした。 障害は 取り除けばいいのです。 もちろん氷河は そうすることを即断即決しました。 「瞬の兄なら、さぞや 美しく聡明で心優しい美少年だったんだろう。どこぞの好き者に さらわれたのかもしれないな……」 もし瞬の兄を さらっていったのが神だったなら、瞬の兄を取り戻すことは容易な仕事ではないでしょう。 けれど、瞬の兄発見には 二人の恋の成就がかかっているのです。 どんな困難も、どんな試練も、氷河は乗り越えるつもりでした。 「ならば 瞬の兄を探し出すまで! ――なーんて、簡単に言うけど、いったい どうやって――」 障害の正体も わからないうちから やる気満々の氷河に 感心すればいいのか、呆れればいいのか。 今の星矢と紫龍には、自分たちが 氷河の幼馴染みとして どんな態度を示すべきなのかが よくわかりませんでした。 血気に逸り 燃え上がっている氷河を見ているだけで疲れきり、星矢は、恋する幼馴染みに尋ねたのです。 氷河は単純なだけで、決して馬鹿ではないことは、星矢も紫龍も知っていましたけれど、今の氷河は なにしろ 自分の恋と瞬しか見えていない視野狭窄状態。 そんな氷河が とんでもない愚行を犯さないとは限りません。 単純なくせに馬鹿ではないから傍迷惑な存在。 それが氷河という男だったのです。 「早速、瞬のところに行って、俺が瞬の兄を探し出すことを教えてやろう。それまで大船に乗ったつもりで待っていればいいと知らせてやれば、瞬も喜んでくれるはずだ」 「なんで、そうなるんだよ!」 「氷河。いくら何でも、話が飛躍しすぎで 楽観視しすぎだ。おまえは まだ瞬の兄を見付けてはいないし、必ず見付けられるとも限らない。瞬が喜んでくれるとは、到底――」 「瞬ーっ!」 星矢と紫龍は 一応、氷河と氷河の恋を案じて、瞬の事情を調べたり、氷河に忠告を与えたりしていたのです。 ところが肝心の氷河は、そんな星矢たちの気も知らず、瞬に会いに行く理由ができたことに浮かれ、有頂天。 氷河は、その場に星矢たちを残し、瞬の名を叫んで 彼の家を飛び出ていってしまったのです。 あとに残された星矢と紫龍は、氷河の単細胞振りに ただただ唖然。 ひたすら呆然としていることしかできませんでした。 「だめだ……。あの馬鹿たれは、目先の楽しみと、はるか彼方にある成功しか見てやがらない」 「問題は、成功に至るまでの過程だというのに」 疲れた様子で ぼやいた星矢と紫龍の頭上にある梁の上で、フクロウのポイニクスが『ホッホー』と一声。 その声は、本来 氷河が背負うべき苦悩と迷いと逡巡を、氷河の代わりに その身に引き受けでもしたかのように、苦渋に満ちたものでした。 |