出立前なら、瞬を思いとどまらせるために、出立後なら、追いかけて引き帰させるために、慌てて家を飛び出た氷河を最初に出迎えてくれたのは、この時季には滅多に吹かない熱風でした。
アルカディアに吹く風は、ほぼ1年を通して暖かく穏やかな西風。
こんなに熱い風が吹くことは まずないのに。
「南風の神ノトスだ。なぜ、こんなところに――いや、ちょうどいい。もし 瞬がヘリオポリスに向かって旅立ったあとなら、ノトスの力で 俺たちを南に運んでもらおう」
そう考えて、南風ノトスの名を呼んだ氷河の前に現れたのは、いかにも気まぐれそうな目をした若い男の神。
風の神の力で人間をエジプトの果てに運ぶことは可能かと、氷河が尋ねると、ノトスは怪訝そうに首をかしげ言いました。
「なんだ? 最近、アルカディアでは、エジプト旅行が流行りなのか?」
「エジプト旅行が流行り? それはどういうことだ?」
「昨日の夕方、アルカディアの上を通りかかったら、滅茶苦茶 可愛い子に呼びとめられて、その子にエジプトまで運んでほしいと頼まれたんだ。思い詰めた目をして頼んでくるから、つい ほだされて運んでやった。なにしろ 俺は優しくて親切な神だからな」

優しくて親切な南風の神を、氷河は思わず、『なぜ そんなことをしたんだ、この大馬鹿野郎!』と怒鳴りつけそうになったのです。
たとえ昨夕のうちに出立していても、瞬の足では そう遠くまで行っていないはず。半日 出遅れた分は すぐに取り戻すことができるだろう――と楽観していたのに、ノトスは本当に余計なことをしてくれたものです。
氷河の立腹は当然のものだったでしょう。
もちろん ここでノトスを怒らせても何の益もない――むしろ不利益を被るだけということは わかっていましたから、氷河は彼への罵倒を ぐっと こらえましたけれどね。
代わりに氷河は、極めて へりくだった態度で、ノトスに頼んだのです。
「その 滅茶苦茶 可愛い子の命が危ないんだ。その子を運んだところまで、俺を運んでほしい」
と。
余計なことをしでかしてくれた 大馬鹿野郎ではありましたが、ノトスが優しく親切な神であることは 決して嘘ではなかったらしく、可愛子ちゃんの命が危ないと聞くと、彼は すぐに氷河(とポイニクス一輝)をエジプトの果てまで運ぶことを承知してくれました。

瞬の足ではエジプトに着くどころか、ギリシャを出ることも難しい――なんて、とんでもない希望的観測。楽観の極みもいいところ。
瞬は既に ヘリオスの住まいである太陽神殿があるエジプトの地に着いているのです。
冷気の方が好きな氷河には 不快でしかない熱風に包まれて 空を駆けている間、氷河の胸は不安で、氷河の心は 心配で、氷河の頭は嫌な予感で いっぱいでした。


それにしても。
どうしてこう、嫌な予感、最悪の予想というものは、必ず当たるようにできているのでしょう。
南風の神ノトスが 氷河(とポイニクス一輝)を運んでくれたのは(運ぶことができたのは)、太陽神ヘリオスの神域の際。
大神ゼウスの伯父に当たるヘリオスは、ゼウスでさえ滅多なことでは干渉できない有力な神。
ヘリオスの許しなく その神域に入ることは、神であるノトスでも不可能なことなのです。
まして、ただの人間である氷河には。
幸いなことに、氷河同様 人間である瞬も、ヘリオスの神域内に入ることができずにいました。
不幸なことに、最悪の形で。






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