氷河は“クールな男”を目指していましたが、彼は 決して 心の冷たい男ではありません。
むしろ、肉親の情の強さ篤さは 人一倍。
ですから、自分を無視して抱き合っている一輝と瞬の邪魔をするようなことはしませんでした。
6年振りの兄弟の感激の抱擁が終わるのを、二人の横に ぽつねんと立って、氷河は 我慢強く待っていたのです。
たとえ実の兄でも、瞬が自分以外の男に抱きしめられているのを見ているのは 大変 不愉快でしたが、二人に水を差すつもりは毫もなかったのです。
けれど、どうしても ある一つの事柄が気になって、まもなく 氷河は黙って兄弟の抱擁を眺めていることができなくなってしまったのです。
氷河が気になって――気になって、気になって――黙っていられなくなった、ある一つの事柄。
それは、
「瞬。この暑苦しい顔の男が、本当に おまえの兄なのか?」
ということでした。

「一輝兄さんです! 氷河、僕の兄さんです!」
再会の喜びに頬を紅潮させ、瞬が氷河に兄を紹介してくれましたが、氷河は やはりどうしても その事実(?)を信じることができませんでした。
「これが?」
「はい」
「本当に、こんな暑苦しい顔をした男が おまえの兄なのか?」
「僕が兄さんを見間違うはずがありません!」
「いや、しかしだな……」
「僕の兄さんです!」
「あー……もしかして、異母兄弟とか、異父兄弟とか?」
「貴様も しつこいな! 俺と瞬は、父も母も同じ 正真正銘の兄と弟だ!」

ポイニクス一輝 改め ただの一輝が 不愉快そうに氷河を怒鳴りつけてきましたが、不愉快なのは――得心できず、腑に落ちないのは――むしろ氷河の方でした。
兄と氷河の間にある不穏な空気を感じ取ったのか、逆に 全く気付いていないのか――二人の間の空気を払いのけるように、清らかな涙で潤んだ瞳を 兄に向け、瞬が尋ねます。
「兄さん、いったい今まで、どこでどうして――。さっきのフクロウはどこに行ったんですか」
瞬に そう問われ、一輝は胸中で快哉を叫びました。
つい さっきまで氷河の肩にいたフクロウが何者だったのか、瞬は気付いていないのです。
強く たくましく 優しい兄――心から敬愛する兄が、まさか鳥類に変身させられていたなんて、瞬には思いもよらないことだったのでしょう。

「あ、ああ、それは――俺は これまで、とある邪神に 呪いをかけられていたんだ。俺を探すために楽園を出る者が現われるまで、自分の家に帰ることができないという呪いを。あのフクロウは、そういえば、どこかに飛んでいってしまったようだな」
あのフクロウはおまえの兄で、最愛の弟の前で 恰好悪いことをするのが嫌だったから、これまで呪いを解かずにいたんだ――と、本当のことを言うことができず、一輝は 咄嗟に思いついた嘘を 瞬に告げました。
一輝の その嘘に 氷河が顔をしかめ、一輝が『余計なことは言うな』と視線で氷河を脅します。
「そうだったんですか……、やっぱり 僕が もっと早くに勇気を出すべきだったんですね……」
兄の嘘のせいで 瞬の表情が沈み込む様を見て、一輝は大いに慌てました。
「あ、いや、今がちょうどいい頃合いだったんだ。小さな子供のおまえが一人で旅に出たりしていたら、俺は心配で生きた心地がしなかっただろう。今だから、俺たちは こうして生きて再会することができたんだ」

誰かのための嘘なら ともかく、自分を飾り守るための嘘はつかない方が賢明です。
そんなことをすると、嘘を嘘と知られぬために、人は見苦しい嘘を重ねなければならなくなりますから。
幸い 瞬は、人を疑う力に恵まれていなかったので、兄の嘘を素直に信じてくれましたが。
「兄さんは やっぱり優しい……。ありがとうございます。これからはまた、元の通り、二人で暮らせますね」
「もちろんだ。これまで、一人で寂しかったろう」
「え……」
兄に そう言われた瞬は、その瞳に 一瞬 戸惑いの色を浮かべました。
そんな弟の様子を見て、一輝は 途轍もなく嫌な予感に見舞われたのです。
その戸惑いの訳を、一輝が弟に問い質そうとする前に、瞬は氷河の方に向き直っていました。

「氷河。僕が兄さんに会えたのは、氷河のおかげです。氷河が僕に勇気をくれたから」
「いや、俺は別に……」
瞬は 本当に嘘をつくのがへたです。
いいえ。
瞬は、兄に嘘をつかないために、兄から視線を逸らしたのです。
それがわからない一輝ではありませんでした。
「瞬、おまえは こんなのが好きなのか。こんなのがいたから、寂しくなかったのか」
瞬の嘘――嘘未満――が不愉快で、一輝は単刀直入に 瞬に問うたのです。
「6年振りに兄が戻ってきたというのに、おまえは、兄より こんな男の方が大事なのか」
と。

瞬は、少々 常識に囚われすぎる きらいがあり、人を疑う能力に欠け、嘘をつくのもへたでしたが、決して 鈍感なわけではありません。
感受性に優れ、想像力を備えていなければ、人は人の心を思い遣ることはできないもの。
そして、瞬は、アルカディアの住人の誰もが、アルカディアで最も優しい人間だと口を揃える、優しい心の持ち主。
もちろん、瞬は、人の心の動きに 大変敏感でした。
兄が、氷河とのことを あまり快く思っていないことを、瞬は すぐに感じ取ったようでした。
「兄さんが嫌なら、僕、いいんです」
「そんなに、こんなのが好きなのか」
肉親と恋人――その二つが 比べていいようなものではないことは、一輝とて わかっていました。
わかっていても 訊かずにいられないのは、独占欲のせいなのか、自分の感情や価値観を押しつけずにいられない人間の性なのか。
自分が馬鹿なことをしていると、一輝は ちゃんと自覚できていたのです。
一輝は馬鹿ではありませんでしたから。

「いいえ」
そう答える瞬の瞳の奥の涙。
瞬が無理に――兄のために嘘をついていることは火を見るより明らかでした。
もちろん それは、自分を飾り守るための嘘ではありません。
不幸にして、一輝は馬鹿ではなかったので、彼には すべてが見えていたのです。

「くっそーっ!」
最愛の弟の幸福のためなら仕方がありません。
それでなくても、一輝には、自分の恰好つけのために 瞬を6年間も一人にしておいたという負い目もありましたからね。
弟のために――その幸福のため、その笑顔のために―― 一輝は自分の我儘を抑え込むしかなかったのです。


来る時は、一人と一人と一羽。
帰りは三人。
その自己申告通り、優しく親切な南風の神ノトスは、三人のアルカディア帰還にも快く 力を貸してくれました。
その帰還の道中、
『恋人同士として振舞うことは許してやらないでもないが、二人で暮らすのは絶対に駄目』
『門限は日暮れで、暗くなってから会うのは厳禁』
『門限破りは、10日間の自宅謹慎、面会謝絶』
『毎日 意地悪もするから、文句を言わないように』
云々と、小舅根性 丸出しで、弟とその恋人の交際に条件をつける一輝を見ているうちに、ノトスはすっかり氷河に同情してしまったようでした。


アルカディアは、ギリシャのペロポネソス半島にある牧人たちの楽園。
『理想郷』の代名詞にもなっている、豊穣の地です。
気候は温暖で、地を耕さなくても 麦や野菜が実り、面倒な手入れをしなくても 果樹は果実を たわわに実らせ、野に放っているだけで 山羊や羊たちも すくすくと育つ土地。
そこに住む者は、特別に神に愛されて 理想郷に生まれた幸福な者たち。
毎日 恋や音楽に うつつを抜かしていても飢える心配のない、祝福された者たちです。

けれど。
平和で豊かな楽園に住んでいるからといって、そこに住む人間たちの心が 必ずしも穏やかに凪いでいるとは限りません。
平和で豊かな楽園にも、人間と人間の確執はあるのです。
人間には、心というものがありますから。






Fin.






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