「氷河のそれも苦いの」
「ああ」
人が苦い酒を飲むのは、酒より もっと苦い現実から逃げるためなのか、それとも苦い酒を 苦い表情の言い訳にできるからなのか。
笑うことが少ない氷河には、苦い酒は 都合のいいものなのかもしれなかった。
また、微かに耳の奥で ベルの音がする。

「バレエで――女性はトゥで立つけど、男性は爪先立ちしない。どうしてか知ってる?」
話が飛ぶのは、酔っているからではない。
瞬は そのつもりだったし、事実も そうだったろう。
ピンクの“最高の花”より苦い琥珀色のカクテル。
喉は少し熱かったが、瞬の知性と理性は冷めていた。
瞬は、そのつもりだった。

「美意識の問題だな、おそらく。爪先で立つ身体は、可憐ではあるが不安定だ。男に求められたのは、可憐ではなく、力強さだったんだろう」
「ロシアの国立舞踊専門学校を設立したアキム・ヴォルインスキーが言ってるよ。『男性には爪先は必要がない。男性には翼があるから』って。僕は、氷河たちが飛ぶのを、いつも 一人で地上から見上げていたんだ。僕が立ってるところにまで下りてきてほしいなんて言えなかった」
「俺はずっと、おまえが そう言ってくれるのを待っていたんだがな。待ちきれなくなって、下りてきたら、今度はおまえが飛び立ってしまっていた。そして、今度は俺が待つ側にまわった」
「それで、このお店なの?」
「こうして、おまえが通ってきてくれるようになった。俺は利口だろう」
「僕が お酒を飲みたがるタイプじゃないことくらい、察しはつきそうなものなのに」
「それでも おまえが俺を見付けて 俺のところに来てくれたなら、俺は自信を持てるじゃないか。俺たち二人は、運命で結びつけられた二人なんだと」
「自信?」

氷河はいったい何を言っているのか。
氷河は本当に勝手で 独りよがりだと、瞬は思った。
そんな彼を許さずにいられない自分を、救い難い人間だと思う。
だが、許さずにいられないのだ。
瞬には、氷河が必要だったから。
瞬が待っていたのは、彼だったから。
氷河が、僅かに上体を傾けて、瞬に唇を重ねてくる。
瞬の口腔に忍び込んでくる氷河の舌は、まるで 自分の作ったカクテルが瞬の中で どう変化しているのかを確かめようとするかのように、瞬の舌に絡みついてきた。
自然に、瞬も氷河と同じ作業をすることになる。

「甘い……。どうして? 氷河も苦いお酒を飲んでいたんでしょう?」
「酒というのは、そういうものだ。酒でおまえをお喋りにすることもできた」
氷河の唇と舌が 想定外に早く、意想外に あっさりと自分の それを解放してくれたので、瞬は安堵の息を洩らしたのである。
氷河の唇と舌が 想定外に早く、意想外に あっさりと自分の それを解放してしまったことに、少々 肩すかしを食わされた気にもなったが、それでも。
ここは いつ誰が入ってくるかもしれない場所で、氷河は この店の責任者。
そのことを 氷河は忘れていないようだと、氷河も そんなことを考慮できるほどには 大人になっているのだと、瞬は心を安んじた。
それこそが、実は とんでもない買いかぶりだったことに瞬が気付くまでに、さほどの時間はかからなかったが。

氷河が、その青い瞳で 瞬を見詰めてくる。
それが氷河の罠だと気付いた時には、もう遅かった。
目で酔うのが得意な瞬には、キスより 自分の瞳の方が より強い力を及ぼすことができるということを、氷河は知っているのだ。
青く深い瞳、すべてを見透かすような視線。
氷河の瞳は“吸い込まれそうな瞳”ではなく、彼が対峙している人間の目と心を突き刺し、切り込んでくる瞳だった。
瞳ではなく 眼差しが、瞬の中に入ってくる。
“危険”のベルが けたたましく鳴り響いているはずなのに、なぜか今、それは瞬の耳にも心にも聞こえてこなかった。
それは、聞こうとしなければ 聞こえないものなのか――。

「あ……これ、何ていうカクテルなの」
手にしていたカクテル・グラスを軽く持ち上げて、瞬が氷河に そう尋ねたのは、氷河の瞳に捕まりかけている自分の目と心を、彼の瞳から 逸らすためだった。
瞬が氷河から視線を逸らしても、なまじ戦士としての感性が磨かれているせいで、瞬は、氷河の強い視線を感じずにいることはできなかったのだが。
「“ビトウィーン・ザ・シーツ”。本来は強い酒だが、それは おまえ用に、ベースのブランディを本来のレシピの5分の1にしてある」
親切ごかしの氷河の答えに、瞬は 危うく手にしていたグラスを取り落としそうになったのである。
氷河の目に酔うどころではない。
こんな場面だというのに、瞬は、暫時 本気で呆けてしまった。

「ひどい。“最高の花”の次が“ベッドに入って”なの……!」
「プライドを捨てて、正直になることにしたと言っただろう」
「だ……だからって……!」
プライドを捨ててくれるのは 結構なことである。
それは 瞬にとっても嬉しいことだった。
もちろん 氷河が正直になってくれることも。
だが、正直すぎる。
そして、それ以上に、氷河は 直截的すぎた。

「今夜はもう店を閉めるぞ。俺がどこのホテルにいるのか知りたいと言っていただろう。教えてやる」
「あ……あの、でも、僕、今 ちょっと酔ってるみたいで……」
これほど露骨に誘われていたことに気付かずにいた自分が間抜けに思える。
瞬は、間抜けな人間のまま、氷河と そんなことにはなりたくなかった。
それより何より――ここで にっこり微笑んで氷河の手を取るのがスマートな大人なのなら、瞬はそんな大人にはなれそうになかったのだ。
瞬は、慎重な大人にこそ なりたかったし、ずっと そのつもりで生きてきた。
医師に求められるのは、冒険心でも 潔さでも 無鉄砲さでもなかったから。

「うん、僕、酔ってる。絶対 酔ってる」
だから今は まともな判断ができず、決断もできないと、言外に告げる。
瞬の心は、その半ばが『逃げたい』という気持ちで占められていた。
『逃げる』ではなく『逃げたい』である。
そして、残りの半分は、『逃げられそうにない』。

おそらくは、瞬の まともな(?)判断を察して、氷河の青い瞳が明るく輝き、その唇が明確に微笑の形を作る。
会いたくて会えずにいた、長い時間。
追いたいのに待ち続けていた、長い日々。
「酔っていない奴は、皆 そう言うんだ」
氷河は、瞬を逃がすつもりはないようだった。






Fin.






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