「兄さんが失踪?」 沙織は いったい今更 何を言い出したのか――と、瞬は思ったのである。 瞬の兄 一輝は、1年を通して 常に失踪しているような男。 彼の所在が明白だった時など、これまで どれほどあっただろう。 彼が3日も連続して仲間たちの許にいたら、それこそが世紀の大椿事で、『一輝の身に何かあったのか』と皆が案じることになるような男が、瞬の兄・フェニックス一輝だったのだ。 そもそも、“失踪”というのは、所在が明らかな人間の行方がわからなくなることのはずである。 一輝は、失踪するための前提条件が整わない男なのだ。 そんな兄に対して、あえて“失踪”という言葉を用いる沙織の意図が、瞬には わからなかった。 「兄さんが……日本に帰っていたんですか?」 「ええ、ここのところ、ずっと都内にいたわ。じゃあ、瞬も一輝の居場所は知らないのね」 瞬の答えを聞いた沙織が、瞬の前で、目に見えるほど はっきりと両の肩を落とし、落胆してみせる。 失踪以前に、兄が日本にいたという情報自体が寝耳に水だった瞬は、事情が全く わからず、二度三度と瞬きを繰り返すことになったのである。 落胆の沙織。 全く事情がわからない瞬。 滞ってしまった会話の堰を切って、とにもかくにも再び言葉の流れを作ったのは、某龍座の聖闘士だった。 「それを失踪と言っていいのなら――の話ですが、今更 一輝の失踪に慌てることはないでしょう。どうせ強大な力を持つ敵が現われて 瞬がピンチになれば、奴は どこからともなく飛んでくる」 それが はたして沙織への慰撫の言葉として有効だったのかどうか。 沙織は 限界まで落としていた両肩をすくめ、彼女にしては自棄めいた表情を作った。 「なら、その時に、未成年略取の容疑で一輝を捕まえるしかないわね。そんな敵、いつ来てくれるものやら。まったく、まさか一輝がアイドルオタクだったなんて」 「え?」 “アイドルオタク”は罪ではないだろうが、“未成年者略取”は立派な犯罪である。 そして、“未成年者略取”は さておいて、“アイドルオタク”は、おそらく兄の辞書には載っていない単語である。 沙織のぼやきは、それでなくても状況が見えていなかった瞬の混乱を 更に深いものにした。 「兄さんがアイドルオタク? 未成年略取というのは、どういうことです」 「オタクというのは、言葉の綾だけど……一輝は、失踪する際、グラードエンターティメントの芸能部門が総力をあげて売り出し中の美少女アイドルを さらっていったのよ。今朝――8時頃と言っていたかしら。グラードエンターティメントが彼女を住まわせていたマンションに、マネージャーが彼女を迎えに行ったら、その姿が忽然と消えていたの。慌てたマネージャーがマンションの防犯カメラの映像を確認したら、昨夜の午前0時頃、彼女が一人の男に連れられてマンションを出ていく様子が映っていた。同伴者は、マネージャーがこれまで会ったことのない見知らぬ男。それで、警察に 届けを出すかどうかの判断に迷って、その映像データが私のところにまわってきたのだけど……。マネージャーが会ったことのない、その見知らぬ男を、私は見慣れていたというわけ」 「兄さんだったんですか」 「間違いなく」 「……」 沙織が間違いないというのなら、それは間違いなく兄だったのだろうと思う。 しかし、それでも 瞬は やはり、得心できなかった。 “美少女アイドル”などという人種は、兄が最も疎ましがりそうな人種である。 たとえ興味があっても、意地でも興味のない振りをする人種と言っていい。 フェニックス一輝の辞書には、“アイドルオタク”という単語も載っていないが、“流行”“俗物”“大衆的”“ミーハー”等の単語も載っていないのだ。 「……美少女アイドルをさらっていった? 兄さんが?」 およそ 兄に関係するとは思えない単語や情報ばかりを聞かされて、瞬は、与えられるデータへの理解が追いつかなかった。 「ええ。名前くらいは知っているでしょう? エスメラルダ。芸名だけど本名よ」 「知ってる! 知らない方がどうかしてるだろ。超々売れっ子アイドルじゃん。あの子、グラードの子だったんだ!」 それまで 瞬以上に状況を理解できずにいるようだった星矢が、突然 瞳を輝かせ、身を乗り出してくる。 一輝と違って、大衆的なもの、メジャーなものに 素直に関心を示す星矢には、それは辞書に載っているのが当たりまえの人名だったらしい。 「そんなに有名な人なの?」 「CDが売れない この時代に、出すCD、出すCDが全部、50万枚近く売れてるはずだぜ。聞くところによると、ジャケットの写真目当てらしいけど」 ファッション分野の流行には価値を見い出すことがなく 関心も持てないが、基本的に陽性・メジャー志向の星矢は、その超々売れっ子アイドルに妙に詳しい。 沙織は、やっと話が通じる人材が現われたというように嬉しそうに、そして 得意げに、星矢が披露した知識に補足説明を加え始めた。 「ええ、そう。エスメラルダのCDのジャケットには特殊加工がしてあって、スキャンやコピーができないようになっているの。写真に撮ろうとしても、反射がひどくて まともに写らないはずよ。その画像が欲しかったら、CDを買うしかないというわけね。エスメラルダのキャッチコピーは、“小麦粉3袋、幻のアイドル”」 「何ですか、それ」 「シングルCD1枚の値段が、家庭用1キロの小麦粉3袋分だからだと思われているようだけど、実は違うの。彼女とグラードエンターティメントとの契約の際の雇用条件が そうだったのよ。売れても売れなくても、労働1日につき小麦粉3袋で、5年契約。契約金は、その輸送料。ちなみに、今は、5年契約内の1年と2ヶ月が過ぎたところ」 「……」 少し状況が把握できてきたような気がしていたのに、また 訳がわからなくなる。 瞬は そろそろ、状況を把握しようとする姿勢の維持が困難になりつつあった。 逆に、沙織の方は、落胆の淵から浮上し、元気を取り戻し始めた――ように見えた。 「エスメラルダはね、太平洋上赤道直下に浮かぶ小さな島の出身なの。そこは 本当に貧しい島で――1年半ほど前、その島で大規模な火山の噴火があって、彼女は家を失い、難民として日本に来たのよ。知り合いに日本語を習っていたとかで――英語は不得手だったらしいわ。自分に日本語を教えてくれた その知り合いに会えるかもしれないという一縷の望みもあって、彼女は あえて彼女の故郷の島から遠く離れた日本を、難民である自分の受け入れ先として選んだ。その辺りの取材をしていたグラード出版の政治部から、異様に男の心を惹きつける美少女難民がいると、グラードエンターティメントの芸能部に連携があってスカウト、契約という運びになったわけ。その契約で、彼女が希望した報酬が、毎日小麦粉3袋を故郷の島に残っている人たちに送ってほしいというものだったのよ」 「毎日小麦粉3袋……それは、何と言うか――とても斬新ですね」 「業務用25キロの小麦粉3袋。卸値で数千円、小売り価格でも1万5千円程度よ。本当にそれでいいのかと確認したのだけど、それだけあれば、島に残っている人たち全員分のパンを焼くのに十分だと言って――。塵も積もれば山となるで、たかが小麦粉3袋というけど、それを毎日となると結構な額にはなるから、違法契約にもならないだろうと判断して、グラードエンターティメントは その内容で彼女と契約を結んだの」 「小麦粉3袋って、そういうことだったんですか……」 25キロの小麦粉を3袋、365日、5年。 日当1万と考えれば、それは、現在の日本国での労働対価としては妥当なものなのかもしれない。 だが、それを すべて故郷の島に送るとなると、彼女自身は無報酬で働くということではないか。 瞬が顔をしかめた理由を察したらしい沙織は、瞬に問われる前に、その疑念への答えを示してきた。 「もちろん、彼女の日本での衣食住に関しては、グラードエンターティメントが 責任をもって面倒を見ていたわよ。売れるに従って、彼女を住まわせるマンションもグレードの高いところに変えてきたわ。でも、彼女がグラードエンターティメントのスカウトを受けたのは、自分の衣食住確保のためじゃなく、彼女に日本語を教えてくれた人に、自分が日本に来ていることを気付いてほしいと思ったから――だったらしいわね。何ていうか……本当に欲のない子で、いい家に住みたいとか、綺麗な服を着たいとか、美味しいものを食べたいとか、そういう贅沢は全く望んでいない子なの」 「それは……」 瞬の中で、美少女アイドルなる人たちへの見方が、コペルニクス的転回を果たす。 アイドルというものは、自分の容姿に自信があり、人に注目されることが好きな人たちがなるものなのだろうと思い込んでいた、これまでの自分を、瞬は大いに反省した。 「苦労されている方なんですね。でも、あいにく僕は その方を――」 その段になって 瞬は、仲間たちが いつもと違う目で自分を見ていることに気付き、戸惑うことになったのである。 エスメラルダの名を聞いて、態度が豹変したのは星矢だけではない――星矢だけではなかったらしかった。 「もしかして、エスメラルダさんを知らなかったのって僕だけ? 氷河も知ってたの?」 星矢は、基本的にメジャー志向。 紫龍はあらゆる分野の雑学に通じている。 そういうことを考えれば、彼等が有名な美少女アイドルを知っているのは さほど奇妙なことではないが、氷河は星矢たちとは少々 事情が違う。 氷河は、氷と炎という性質の違いはあれ、超俗志向、孤高志向、清高志向という点で、フェニックス一輝と同類項の男なのだ。 彼は 決して芸能人に関心を持つタイプの男ではない。 しかし、氷河は やはりエスメラルダという美少女アイドルの存在を知っていたらしい。 「さすがにCDを買ったことはないが、彼女は どことなく、おまえに似ているところがあって――」 見るからに言いにくそうな顔をして、氷河が言う。 男子であるところの瞬と女子であるところのエスメラルダが似ているという事実を 口にしにくかったというより、瞬という(彼にとっては)ただ一人の特別な存在であるものに似ている(と彼が感じる)人間がいるという事実――エスメラルダが瞬に似ていると、自分が感じること――こそを、氷河は瞬に知らせたくなかったようだった。 「僕に似てる?」 氷河が言いにくそうに口にした その言葉に、俄然 沙織が張り切り出す。 沙織は どうやら、その言葉が誰かの口から出るのを待っていたらしかった。 「実は そうなのよ、瞬! でね。一輝のしてくれたことの責任をとって、あなた、エスメラルダの代役を務めてくれない? そうしたら、一輝を誘拐犯として警察に届け出るのはやめてあげるわ!」 「沙織さん……急に何を……」 沙織の狙いは それだったことに、事ここに至ってやっと、瞬は気付いたのである。 沙織は もちろん、エスメラルダの行方を探すつもりではいるのだろう。 しかし、エスメラルダが、出奔の天才、雲隠れのオーソリティ一輝と共に失踪したのなら、彼女を探し出すのは容易なことではない――と、沙織は 踏んでいるのだ。 そこで 彼女は、まず エスメラルダが見付かるまでの代役確保に動くことにした――のだろう。 だが、アンドロメダ座の聖闘士に、美少女アイドルの代役が務まるわけがないではないか。 美少女アイドルの仕事というのは つまり、派手なステージ衣装を着て、歌を歌ったり、踊りを踊ったりしながら、不特定多数の人間に 媚びを振り撒くことだろう。おそらく。 そんなことが自分にできるとは、瞬には到底 思えなかった。 まして、“美少女”アイドルの代役が、“少女”ですらない自分に務まったら、その事実こそが大問題。 なにより、瞬の人生の指針は、『男らしく生きる』だった。 『おまえくらい強かったら、男らしさなどに こだわる必要はない。自然にしていろ』と氷河に言われ、最近は その気負いも薄れてきていたが、それでも男子たるもの、美少女アイドルの代役など務めたくない――務まりたくない。 絶対に、務まりたくなどなかった。 ――のだが。 本来なら即座に断りを入れるところなのだが、兄が前科者になる恐れがあるとなると、話は そう単純ではなくなる。 どうして兄は美少女アイドルを さらうなどという、とんでもないことをしでかしてくれたのか。 どうせ芸能関係者を さらうなら、スタントマンやスーツ・アクター、モーション・アクターあたりにしておいてくれれば、こんな苦悩もなかったのに――と、瞬は 暫時、兄を恨んでしまったのである。 |