「明けまして おめでとう」 華やかで 豪奢な加賀友禅の振袖。 薄紫の地に、幾種類もの花が 鮮やかな色彩で染め上げられている。 桜、牡丹、芍薬等、東洋起源の花々が描かれた それが古代ギリシャの女神の装いに ふさわしいものなのかどうかという問題は さておいて、華やかな友禅の振袖は、実に沙織に似合っていた。 彼女が どれほど豪華なドレスにも どれほど華やかな着物にも決して着られてしまうことがないのは、女神の威厳ゆえか、はたまたグラード財団総帥としての経験と貫禄ゆえなのか。 何にしても、沙織が 新年から あでやかに着飾り、嫣然と微笑んでいられるという状況は、地上世界にとっても、そこに生きる人類にとっても、よいことである。 それは、地上世界の現在の平和を象徴するものであり、同時に これからの地上世界の安寧を保証するもの。 着飾った沙織の姿を見て、おそらく 今年も この世界は無事に存続し続けるだろうと、瞬は心を安んじた。 「綺麗ですね。沙織さんは洋装も似合いますけど、和装も またいつもと趣が違って素敵です。新年から、気持ちが華やぐ」 そう言ってから、瞬は慌てて、 「明けまして おめでとうございます。今年もよろしくお願いします」 と、新年の挨拶を口にした。 順番が逆になってしまったことを、瞬は不作法と思い 反省したのだが、その不作法は、沙織にとって不愉快なものではなかったらしい。 瞬の讃辞と賀詞を受け取った沙織は、 彼女が身に着けている着物よりも あでやかに微笑んだ。 「いいのよ。この家で、そんな嬉しいことを言ってくれるのは あなただけなんだから」 嘆息混じりに、沙織が、この家の“瞬以外の者たち”の上に 一渡り 視線を走らせる。 沙織の非難の視線に最初に気付いたのは紫龍で、彼は自らの出遅れを巧みに言い繕った。 「もちろん、とても似合っていると思っています。――が、それも沙織さんにとっては戦闘服でしょう」 彼女はこれから 外出する予定になっていた。 国内某経済団体の賀詞交換会、市場が動いていない時期にしか時間を取れない某業種の団体や有力個人の新年パーティに幾つか出席するらしい。 おそらく1千万円は下らない、豪華というより高価な振袖は、言ってみれば グラード財団の看板もしくは名刺のようなもの。 更に 沙織自らがわざわざ足を運ぶのは、この家に客を呼ばないための方策。 この邸に起居する彼女の聖闘士たちが 余計な気を遣わずに済むようにするため(かつ、彼等が来客の前で何らかの粗相をしてしまう事態を防ぐため)の気配りなのだ。 紫龍は、だから、着飾った沙織を褒める代わりに、戦闘服を着た彼女を鼓舞し、感謝したのである。 沙織にしてみれば、瞬の称賛は『大変よくできました』、紫龍の対応は『よくできました』というところだったろう。 問題は、瞬と紫龍以外のメンバーである。 瞬と紫龍以外の面々は、そもそも 沙織が いつもと趣の異なる装いをしていることに気付いているかどうかさえ、怪しいものだった。 なにしろ 城戸邸のラウンジには、新年早々 殺伐とした空気が充満し、へたな戦場も裸足で逃げ出してしまいそうなほど 重く陰鬱な暗雲が立ち込めていたのだ。 暗雲の発生原因は、昨夜遅く 城戸邸に帰還した瞬の兄にして鳳凰座の聖闘士 一輝。 そして、新年早々 瞬の兄の姿を見ることになって、超の字が5、6個つくほど不機嫌になってしまった白鳥座の聖闘士 氷河だった。 瞬は兄の帰還が嬉しいし、喜びたいのだが、それが全く容易なことではない。 氷河は、瞬の兄の帰還で超絶不機嫌状態。 そんな氷河に困ったような目を向けている弟を見て、一輝は、 「おまえは まだ、こんな馬鹿野郎の面倒を見てやっているのか!」 と、これまた機嫌は最悪の形相。 瞬は、兄の久し振りの帰還を喜ぶどころか、新年を寿ぐことさえ、気安くできる状態になかったのである。 普通の神経を持った人間には 到底『おめでたい』と言うことのできない、この状況。 すべては、瞬が この犬猿の仲の二人に愛されているせいなのだが、だからといって、仲の悪い犬と猿に『瞬を愛するのをやめろ』とは、女神アテナにも言えることではない。 氷河と一輝の不仲は、愛が平和をもたらすとは限らないことの証左であり、『人々が互いを思い遣り、愛し合う この世界を守りたい』というアテナの希望に影を落とすもの。 瞬を愛する二人の男が かもし出す陰湿で殺伐とした空気は、華やかな振袖を着たアテナの小宇宙さえ 打ち消しそうな勢いで 刺々しく鬱陶しいものだった。 「新年早々、こんな殺伐とした雰囲気、縁起が悪いったら ないわ。あなたたちは、あなたたちの愛する瞬のために仲良くしようという気にはなれないの」 無駄と知りつつ、沙織が、愛に生きる二人の男たちに苦言を呈する。 それまで 不機嫌ゆえの沈黙を守っていた一輝は、まるで沙織の苦言を待っていたかのように、彼の不満を吐き出し始めた。 「瞬が大人しいのをいいことに 我儘し放題の男なんぞと、なぜ俺がナカヨクしなければならないんだ! 可愛い弟を いいように振りまわしている ろくでなしに正義の鉄槌を振りおろすのを我慢しているのは、アテナの顔を立ててのこと。これ以上の譲歩を俺に望まないでくれ!」 炎に包まれた不動明王も かくやとばかりに激した一輝の言い草に、氷河も黙っていられなくなったらしい。 彼は、不動明王の怒りなど、如来の悟りや 菩薩の修行に比べれば はるかに格下と言わんばかりに偉そうに、瞬の兄への反撃を開始した。 「瞬を泣かせることしかできない糞兄貴が 勝手なことをほざくな! いつもは可愛い弟を放っぽっておくくせに、瞬がピンチになった時だけ、大袈裟にかっこつけて飛んできやがって、そういう姑息な印象操作が不愉快なんだ、貴様は! いつも一緒にいると 有難味が薄れるとでも思っているのか、それとも 毎日 一緒にいると、貴様が尊敬できない兄だということが瞬にばれるから、それを避けようとしているのかは知らないが、とにかく 貴様は、やり方が いちいち いじましいんだ!」 「何だとっ! 貴様、この俺を侮辱する気かっ」 「侮辱? 何が侮辱だ。俺は、事実を 事実として言っただけだ。それを侮辱と感じるなら、貴様には 事実を事実として認められない卑劣な都合があるんだろう」 「うおおおお〜っ! デカい伊勢海老!」 まさに一触即発状態の二人の男を仲裁・牽制しようなどという殊勝な考えが 星矢にあったとは考えにくい。 が、結果的に星矢の歓声は その困難な作業を見事にやり遂げた。 さすがは主役というべきか。 沙織が いつもと違う出で立ちをしていることどころか、氷河と一輝が今にも不毛かつ激烈な戦闘に突入しようとしていることにも気付いていない、最後の大物。 まさに真打ちの貫禄。 今 星矢の目と心を奪っているのは、装いを凝らした沙織でも、愛のために壮絶な戦いを始めようとしている二人の男でもなかった。 沙織より あでやかで、愛に狂った二人の男より刺激的な それ。 それとは つまり、この時季でなければ まず滅多に食べることのできない貴重な食ベ物――すなわち、おせち料理である。 「おせち料理ってさあ、ほんと綺麗で、食うの勿体ないって思うんだけど、食い始めると 止まらなくなるんだよなー。瞬、おまえ、なに阿呆みたいに ぽけーっとしてんだよ。さっさと食おうぜ。いつもなら、もう とっくに朝飯 食い終わってる時間だし、目では もう十分に食ったしさ!」 「う……うん……」 おせち料理は、正月の聖なる火を 食物の煮炊きなどという俗事のために使用することを控えるため、旧年中に用意しておく日持ちのいい料理である。 それが建前にして名目。 だが、城戸邸における それは、なるべく多くの使用人に正月の休暇を与えるために 大晦日のうちに用意される食事――という位置づけにあるものだった。 沙織が新年の客を迎える予定を入れていないこともあって、今 城戸邸の厨房には調理師が一人いるだけ。 平時に食卓の準備や給仕をするメイドたちは ほぼ出払っている。 そういう事情で用意された城戸邸のおせち料理は、家人(城戸邸に起居するアテナの青銅聖闘士たち)だけのもの。 わざわざ食堂を使って、通常より人員の少ない使用人の仕事を増やすこともあるまいというので、それはアテナの聖闘士たちの居間にしてミーティングルームでもあるラウンジのテーブルに運ばれていた。 関東風のおせち料理は、祝い肴三種――黒豆、数の子、田作りが基本――ということになっているが、昨今のおせち料理は そういう約束事に ほとんど囚われない。 縁起の悪いものでなければ何でもあり。 星矢(たち)のために用意されたそれも、昆布巻き、紅白の かまぼこ、伊達巻きといったポピュラーなものから、伊勢海老、ローストビーフ、各種ソーセージ、魚介やチーズの燻製等々、比較的 日持ちのよい料理が、一の重から五の重まで、五つの朱塗りの重箱に色とりどりに飾られていた。 それらが、星矢の目には 沙織の振袖より あでやかに、氷河と一輝の争いよりエキサイティングなものとして映っていたのだろう。 星矢は ものの見事に、目の前の おせち料理に すべての意識を集中していた。 その集中力たるや、極細の縫い針に糸を通そうとしている老眼の縫製師も、10年の月日をかけて制作した壁画の最後の仕上げに 龍の瞳を描き入れようとしている画家も、その足元に及ばぬほど徹底的なものだった。 が、残念ながら 瞬は、星矢ほどには 一意専心の才能に恵まれていなかったのである。 星矢に食事を誘われても、沙織の機嫌や 兄と氷河の間に横たわる緊張の方が気になって、瞬は、魅惑の おせち料理に向き合う気にはなれなかった。 ――のだが。 「ぐすぐずしてると、この栗きんとん、俺が全部 食っちまうぞ!」 という星矢の脅しが、瞬を 一瞬にして 星矢以上の集中力の持ち主に変えてしまったのである。 |