「あ、あー……瞬。まあ、とにかく よかったじゃん。氷河と一輝は、別にお互いを嫌い合ってなかったんだから」 「え……あ……そうなの……?」 「そうなんだろ。大事なのは、なんで二人が嫌い合ってないのかってことじゃなく、二人が嫌い合ってないっていう事実なんだから、おまえ、余計なことを考えるのは やめといた方がいいぜ。そんなことしても、頭が こんがらがるだけだ」 「う……うん……」 「そんなことよりさ、おまえ、なんで沙織さんの呪いの三が日が終わってないってことが わかったんだよ?」 「え? あ、それは窓ガラスに――」 星矢に問われたことに何気なく答えを返しかけ、だが 瞬は ふいに気掛かりなことを思い出したように言葉を途切らせた。 その答えを仲間たちに知らせることで、何か不都合が生じるのではないか。 その可能性を、瞬は案じたらしい。 瞬が どんな事情で 沙織の呪いの継続に気付いたのだとしても、それが、氷河が一輝を嫌っていない理由、一輝が氷河を嫌っていない理由より奇天烈で突拍子のないものであるはずがない。 そう考えて、星矢は、瞬の ためらいを無視し、答えの続きを 瞬に促した。 「窓ガラス……? 星の位置でわかった――はずはないよな。明け六つって、確か、日の出前に星が見えなくなる時刻のことだろ。時代劇で そんなこと言ってるのを聞いたことあるぜ。鬼平だったか暴れん坊将軍だったかは忘れたけど」 「あ、そういうことじゃないの。僕は、時刻で 気付いたわけじゃなく――」 「時刻でわかったわけじゃない? なら、何だよ」 星矢が重ねて問うと、瞬は ひどく気まずそうに眉根を寄せた。 その理由の追求を、星矢が諦めてくれそうにないことを やがて悟り、観念したように口を開く。 沙織の呪いが まだ継続中であることに、瞬が気付いた訳。 それは、瞬自身が 沙織の呪いの力に支配されていたから――だったらしかった。 「それは その……窓ガラスに映ってる自分の顔を見て、気付いたの。僕、沙織さんが僕たちに呪いをかけてから ずっと、鏡の中の自分が 自分の顔をしてなくて、すごく不便だったんだ」 「おまえが おまえの顔をしていなかった? なんでだよ」 ここで『なんでだよ』と問い返す星矢は、決して理解力の持ち合わせが少ないわけではない。 彼は ただ、『瞬を嫌うような人間が この世に存在するはずがない』という固定観念に 強く支配されているだけだった。 おそらくは そんな星矢のために、紫龍が、 「おまえは おまえ自身を嫌っていたのか」 と、瞬に尋ねる。 星矢は それでやっと、状況が把握できたのである。 状況を把握できたからといって、合点がいったわけではなかったが。 驚いて瞳を見開いた星矢の前で、瞬が 申し訳なさそうに身体を縮こまらせる。 「僕、自分を嫌ってるつもりはなかったんだけど……」 言い訳めいた前置きをして、瞬は その瞼を伏せた。 「僕、小さな頃から兄さんのお荷物になってばかりだったでしょう。おまけに、泣き虫は いつまで経っても治らないし、そのうち氷河にも見捨てられるんじゃないか不安で、そんな自分がちょっと嫌で――」 「おまえが自分を嫌っていた……?」 星矢には それは、理解できない感覚だった。 氷河や一輝のような 人でなしでさえ 自分自身を嫌っていない(らしい)のに、なぜ瞬が自分を嫌わなければならないのだと、星矢は思った――心底から不思議だった。 なにしろ星矢は、無条件で瞬が好きだったから――氷河や一輝は 屈託あり、条件つきで好きだったが(嫌いではなかったが)、瞬だけは 一片の雲もない晴れ渡った青空のような気持ちで好きだったから。 たとえ それが瞬自身でも、瞬を嫌う人間がいることが、星矢には信じ難いことだったのである。 だが――。 だが、星矢は、この件に関する最大の問題は そんなところにはないということに、すぐに気付いたのである。 瞬が瞬を嫌いで、瞬の目には 自分の顔が自分の顔に見えていなかった。 だから、瞬は、窓ガラスに映った 自分の顔をしていない自分を見て、アテナの呪いの力が継続中であることがわかった。 問題は、しかし、そんなことではない。 この場合、最大の問題は、瞬の目に、瞬の顔が どう見えていたのかということなのだ。 「それで、おまえには、自分の顔が どっちに見えていたんだ。一輝か? それとも氷河か?」 「え?」 「だって、おまえの嫌いな奴が、おまえの いちばん好きな奴に見えてたんだろ? 沙織さんの呪いって、そういう呪いだったはずだよな?」 なぜ そんな、気付かずにいた方がいいことに 星矢は気付くのだ――と 眉をしかめたのは、某龍座の聖闘士だった。 星矢の鋭い指摘――紫龍にしてみれば、余計な指摘――を聞いた氷河と一輝が、にわかに色めき立つ。 「星矢、貴様は、なぜ そんな くだらないことを言い出したんだ。そんなことは、わざわざ訊くまでもないことだ。それは もちろん、俺に決まっている!」 「くだらないことを言っているのは貴様だ、氷河! それは当然、俺に決まっている。俺は瞬の兄だぞ!」 「それこそ、くだらない言い草だな。兄だから瞬のいちばんだと思い込んでいられる貴様は、10年分の正月より おめでたい男だ。瞬が俺の腕の中にいる時 どれほど可愛らしいかを、貴様は知らんのだから、無理もないが」 「な……何をほざくか、このペテン師の色事師め! 貴様は瞬にとって 所詮は他人、血のつながっていない赤の他人なんだ。瞬はな、貴様が貴様の母を慕うのと同じ気持ちで、この俺を慕っているのだ」 「な……何だとぉ〜っ !! 」 互いに互いを嫌い合っていないだけあって(?)、氷河と一輝は 敵のウィークポイント(逆鱗のありかとも言う)を的確に把握していた。 「瞬、いったいどっちだ!」 互いの挑発に見事に乗った氷河と一輝が、意地になり、いきり立ち、瞬の答えを瞬に迫る。 彼等は、そのプライドにかけて、何としても瞬の答えを手に入れ、瞬の愛を巡ってのライバルを 完膚なきまでに打ちのめしてしまわなければならなかったのだ。 そうしなければ気が済まない状況に陥っていた。 「瞬。一輝のことなど気にする必要はないんだ。本当のことを言ってくれ。もちろん、俺だな?」 「瞬。こんな阿呆の赤の他人のことなど無視しろ、無視。俺は、兄を慕うおまえの心を信じているぞ。当然、この俺だな?」 「に……兄さん……氷河……」 本気で怒れば、十中八九、聖闘士最強。 しかし、本気で怒れなければ、十中八九、青銅最弱。 氷河と一輝の剣幕に、瞬はすっかり 怯え委縮していた。 そんな瞬とは対照的に、氷河と一輝は自信満々、意気衝天。 その上、彼等は、嫌いな相手(でないことは判明したが、おそらく好きでもない相手)を倒すためには わざわざ小宇宙を燃やすようなことはしないが、瞬の愛を得るためになら惜しみなく その小宇宙を燃やす男たちだった。 氷河と一輝――超低温小宇宙と 超高温小宇宙が まともにぶつかり合ったら どうなるか。 二人に ここで本気で喧嘩を始められてしまったら、城戸邸は壊滅的に破壊され、新年早々 屋敷の住人たちは路頭に迷うことになるだろう。 それ以前に、被害が城戸邸壊滅だけで済むかどうかも怪しい。 瞬の顔が氷河のそれであろうと、一輝のそれであろうと、そんなことはどうでもいいと思っている沙織も、この家の破壊だけは避けたかったのだろう。 ゆえに彼女は、その最悪の事態を避けるために、瞬に厳命しないわけにはいかなかったのである。 「瞬。この二人に、事実を教えてやりなさい」 と。 そして、瞬は、アテナの聖闘士である以上、アテナの命令に逆らうことはできなかった。 それでも長く逡巡し――その逡巡の後、瞬は恐る恐る、意を決したように、アテナの命令に従ったのである。 「それが……一輝兄さんでも氷河でもなくて――」 「えええっ !? 一輝でも氷河でもないって、どういうことだよ! それが誰でも大問題だぞっ! それって、つまり、おまえに一輝より氷河より好きな奴がいるってことだろ!」 なぜ そんな、言わなくてもいいことを星矢は言ってしまうのだと、苦虫を噛み潰したような顔になったのは、もちろん 某龍座の聖闘士だった。 星矢の重大な発言――紫龍にとっては 余計な発言――を受けて、氷河と一輝が(おそらくは 無意識のうちに)小宇宙を燃やし始める。 「瞬! 早く答えなさい!」 ホームレスになりたくないアテナの再度の命令。 瞬は もはや 答えを言い渋ってはいられなかった。 そして、ついに告げられた運命の答え。 それは、 「それが その……僕、自分の顔が栗きんとんに見えてたの」 というものだった。 「へ……?」 「は……?」 「なに……?」 「まあ……」 星矢、氷河、一輝、沙織が、それぞれに感嘆の(?)声を洩らし、最後に紫龍が、 「それは実にシュールだ」 と、短い感想を告げる。 時を遡ること、3日前。 20XX年の元旦。 沙織は、彼女の聖闘士たちに、 『今、あなた方に、嫌いなものが 大好きなものに見える呪いを――いいえ、新年の祝福を授けてあげたわ』 と言った。 沙織の呪い――もとい、新年の祝福――は、見事なまでに 彼女の言葉通りに発動していたのだ。 「自分の顔が栗きんとん……って、そ……そりゃあ、滅茶苦茶 不便だったろうな……」 まるで気持ちのこもっていない、空しく虚ろな星矢のコメント。 星矢は とにかく、今はただ、瞬の最愛のものが何であるのかを知らされた二人の男の顔を見るのが恐かったのである。 新年早々 最愛の瞬に、“栗きんとん以下”の宣告をされてしまった二人の男。 今の星矢にできることは、二人のために静かに瞑目し、20XX年という年が 二人にとって 少しでも幸多い年になるように 胸の内で祈ることだけだった。 本年が皆様にとって 幸多い年になりますように。
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