「瞬。目を覚ませ、瞬!」 これで瞬の魂は自由を取り戻し、元の場所に戻るはず。 ブルーアンバー国の王位は自分のものではなくなったが、自分は もう一度 瞬の澄んだ瞳の住人になれるはず。 そう信じ、砕けた青い琥珀には一顧だにせず、氷河は 彼が抱きかかえている瞬の顔を覗き込んだのです。 氷河の呼びかけへの返事は、瞬の唇からは返ってきませんでした。 否、瞬が意識を取り戻すより先に、見知らぬ女性が氷河の呼びかけに応じてきたのです。 千客万来。それも、招いた覚えのない客ばかり。 けれど、今度の客は、黒衣の神よりは 少しは ましなようでした。 少なくとも彼女は、黒衣の神とは違って――黒衣の神とは対照的に――氷河に対して 好意的な眼差しを向けてきましたから。 「よく言ったこと。あなたの言動は、全く一国の統治者のそれではないわ。瞬の願いの方が、よほど一国の王のそれ」 好意的な眼差しといっても、それは あくまでも相対的な評価にすぎず、彼女の言は かなり辛辣なものでした。 とはいえ、氷河は その言葉に特に腹も立たなかったのです。 それは 単なる事実――彼女の言葉は、氷河には、極めて正当で 極めて的確な判断に思えましたから。 「とりあえず、先に断わっておくわ。ブルーアンバーの石の審判は、ブルーアンバーの国王が 王に次ぐ力を与えたいと望む者の心根を試すためのものではありません。ですから、瞬の願いの内容など、実は どうでもよかったの。もちろん、邪悪な願いや ブルーアンバーの国民に不利益をもたらすような願いを願ったら、その者には 相応の報いが与えられることになるのだけれど、この審判の真の目的は、自分に次ぐ力を与えたいと思うほど王が愛している者の命が奪われた時の王の対応の是非を問うこと。審判の対象者は、ブルーアンバーの王自身よ。ちなみに、参考までに言っておくと、これまでに石の審判を受けた国王は、100人のうち95人までが、自分の願いを諦めています。彼等は 神の判断に従うと言って、自らの希望を取り下げた」 「瞬ではなく、俺を試すため?」 「ええ、そう。あなたを試すため。残りの5人は、愛する者を失ったことに絶望して、王位を神に返上すると言った。もちろん、審判のあとで 挑戦者は生き返らせてあげたのだけれど、王たちは もはや王位に戻ることをせず、別の王朝が立つことになった。ブルーアンバーの石を破壊するなんて暴挙に及んだのは、あなたが初めてよ。素晴らしい決断力、素晴らしい実行力ね。呆れたわ」 彼女は――彼女も神なのでしょう――その言葉通り、呆れた口調で そう言って、呆れた顔で(けれど楽しそうに)声をあげて笑いました。 「当然 あなたからはブルーアンバーの国の王位を剥奪したいところなのだけれど、その決断力と実行力には捨て難いものがあるし、なにしろ あなたの瞬が、歴代のブルーアンバー国王の誰よりも国王らしい願いを願ってくれたものだから、今 私は あなた方二人をどうしたものかと迷っているの。あなた方二人一緒で、理想的な統治者ができあがるのよね」 「俺は瞬しか欲しくない。瞬を生き返らせてくれ」 「あら……」 妙に楽しそうな女神は、氷河に そう言われて初めて、瞬の身体に瞬の魂が まだ戻っていないことに気付いたようでした。 黒衣の神を振り返り、彼女は彼に、 「ハーデス。もうブルーアンバーの石の審判は終わりよ。瞬の魂を瞬の身体に戻してあげて」 と命じました。 「ハーデス?」 女神が口にした名を聞いて、氷河は仰天してしまったのです。 ハーデスといえば、大神ゼウスや海神ポセイドンの兄にして、人間の誰にも免れることのできない死と死者の国を司る神ではありませんか。 その冥府の王と対等に―― むしろ もっと偉そうな――口をきいている この女神は、してみると どう考えてもオリュンポス十二神の1柱です。 ヘラ、アテナ、アルテミス、アフロディーテ、デメテル、ヘスティア――その誰であっても、人間ごときが気安く言葉を交わすことなど許されない有力な神。 ブルーアンバーの石の審判は、そんな有力な神が わざわざ人間界に下りてくるほどの大事だったのかと、氷河は尋常でなく驚いたのですが、氷河は そんなことで いつまでも呑気に驚いてもいられませんでした。 なにしろ、冥府の王ハーデスが、 「アテナ。あなたの言葉でも、こればかりは従うわけにはいかない。これほど美しい魂を持つ者は 人間界などにいるべきではない。こんな男に渡すのは勿体ない。瞬は、余の国に連れていく。エリシオンこそが瞬に最もふさわしい居場所なのだ」 などと言って、駄々をこね始めてくれたのですから。 知恵と戦いの女神アテナ、冥府の王ハーデス、そのハーデスが瞬に執心し、あげく子供の我儘のような駄々をこねている――。 驚かなければならないポイントが多すぎて、氷河は、自分がどう驚くべきなのかが まるでわかりませんでした。 ですから、 「ハーデス、あなたの気持ちは わからないでもないけど、この世には必ず守られなければならない条理というものがあるのよ」 だの、 「瞬が この魂の美しさを失わないまま、いつか あなたの国に行くことは、この私が保証するから、この場は引いてちょうだい」 だのと言いながら、アテナがハーデスを説得する様を見せられても、氷河は ただただ ぽかんと呆けていることしかできなかったのです。 やがて2柱の神の間で 話がついたらしく、 「見苦しいところを見せて、ごめんなさいね。ハーデスは、病的に綺麗なものが好きな神で――いいえ、要するに彼は病気なの。気にしないで」 と、栄光あるオリュンポス十二神の1柱であるところのアテナが、国王失格どころか人間失格レベルの氷河に詫びを入れてきてくれたのですが、その時にはもう、自分の目の前で次から次へと展開される椿事に 改めて驚くだけの力は 氷河には残っていませんでした。 その腕に抱きかかえていた瞬の瞼が開き、瞬の澄んだ瞳に再会できたことに欣喜雀躍する力は たくさん残っていましたけれどね。 「瞬!」 無欲なのに欲深な瞬。 確かに 瞬の清らかさは、ただの純一無雑とは違うもののようでした。 それは、ハーデスが欲しがり、アテナでさえ 認めるほど価値あるもの。 そんな瞬が、どういうわけか陋劣卑俗な我儘男を好きでいてくれるのです。 こんな幸運は滅多にあるものではありません。 自分を見詰める瞬の瞳の中に確かにある 優しい好意。 その瞳に再会できたことに、氷河は狂喜しました。 まだ瞬に未練があるらしいハーデスを制しながら、知恵と戦いの女神が、そんな瞬に微笑みかけます。 「瞬。素晴らしい願いを願ったわね。でも、残念ながら、その願いを叶えてはあげられないの。それは人間が それぞれに 自分の力で手に入れなければ意味のないものだから。あなたの氷河のように。わかるでしょう?」 「……はい」 「でも、あなたの願いは、私が これまで聞いた人間の願いの中で最も美しい願いだったわ」 「あ……いえ、僕は、普通の人なら誰もが願うだろう普通のことを願っただけで……」 アテナの言葉に戸惑ったように、瞬は そう答え、氷河は そんな瞬の答えに戸惑いました。 とはいえ、ここで 瞬に、『その願いは必ず叶うと、人には持ち得ぬ力を持つものに保証された状態で、普通の人間は そんなことは願わない』と言うこともできず――おかげで、氷河の顔は微妙な歪みを生じることになってしまったのです。 アテナは 氷河の表情の微妙な歪みに気付いたようでしたが、彼女は その件については何も言いませんでした。 アテナはハーデスと違って賢明で、かなり気の利いた神様でもあるらしく、氷河の顔の引きつりに言及する代わりに、 「あなた方は、いつまでも一緒にいなさい。氷河には あなたがついていた方がいいわ。氷河のためにも、ブルーアンバーの国のためにも。あなた方二人なら、神の承認の石などなくても、ブルーアンバーの国を素敵に治められるでしょう」 と言ってくれました。 アテナは本当に物の道理や 人間の心の機微がわかった粋な神様です。 氷河は、ハーデスは尊敬できないが、アテナなら尊敬してやってもいいと、神ならぬ人間の身としては かなり不遜なことを胸中で思ったのです。 そして、尊敬できるアテナの言う通り、瞬と一緒にならブルーアンバーの国の王様稼業を これからも続けていけるような気がしました。 青い琥珀も 緑の琥珀もいりません。 青い琥珀がなくても、国と国のために懸命に努め、確かな実績を示せば、国の民は 神の後ろ盾のない人間を 自分たちの王として認め受け入れてくれるでしょう。 緑の琥珀がなくても、氷河には 瞬が この世界で最も美しい人間に見えますし、最も価値ある存在だとわかります。 氷河以外の人間だって、それは同じはずなのです。 そう信じて、氷河は、青い琥珀の審判以降、以前よりは比較的 真面目に――もとい、非常に真面目に、国を治める仕事に励んだのです。 まずは、ブルーアンバーの国の身分制度を撤廃するところから。 なにしろブルーアンバーの国に千年も根付いていた制度ですから、それは容易な仕事ではなかったのですが、そして 長い時間もかかりましたが、氷河は それをやり遂げました。 彼は もともと、やる気になればできる男だったのです。 なんといっても、氷河には いつも瞬がついていて、彼に力を与えてくれましたから。 今は、地上世界は人間が治めています。 神々の承認や後ろ盾がなくても、人間は 自分たちの世界を自分たちの力で治めることができています。 これは、地上世界が人間世界になった きっかけの物語。 人間が治める人間世界は、必ずしも すべてがうまくいっているとは言えませんけれど、心から それを欲しいと望み、そのために力を尽くせば、それは必ず手に入れることができるのです。 恋も平和も幸福も。 すべてを捨てる覚悟で力を尽くせば、きっと。 Fin.
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